第三章
カーリセン 一
ここは、もともとカーリヤ人の住む国だった。そこに、俺達の世界、倭国から一人の男がやって来たのだという。
男は春日部麻呂(かすがべのまろ)と名乗り、自分は倭国の出身だと言ったそうだ。
春日部麻呂が、この世界に来た時、訳が分からず怯えていたが、やがて、自分がいた世界と違うとわかった。自分がいた世界にはない物がたくさんあったからだ。
春日部麻呂はカーリヤ人と付き合う内に、彼らが半農半漁の民族だと知った。春日部麻呂は農業の専門家だった。麻呂は、自分がこの地に送られたのは稲作を広める為なのだと、それが天命なのだと思った。当時、男は漁業、女は農業をしていた。女が家事の片手間にする農業では収穫量もしれていた。
春日部麻呂は土地を開拓し、水路を作り効率の良い稲作を目指した。彼はこの地で二十年過して死んだが、二十年に渡る努力によって、米の収穫は大幅に増え、ついにはカーリヤ人全員を賄う米が取れるようになった。
ここで休憩が入った。佐百合の前におにぎりと漬物、みそ汁という順和風の食事が並べられた。
「このおにぎり、おいしい!」
犬になった俺の前には骨付きの肉と水が置かれた。
肉を一口食べてみた。うまい!
俺はガツガツと食べ、あっというまに平らげていた。
「わんわん(これおかわりないの?)」
「良ちゃん、小さくなったんだから、食べ過ぎるとパンクするよ」
「わん?(え? そうかな?)」
佐百合がふっと遠くを思い出すような顔をした。
この容姿でこんな表情されると、あれだ、一気に神秘的になっちまうな。
佐百合は神秘的とか、夢見がちとかいうのからはずーっと遠くにいる女だ。現実的な女でゴキブリを見ても悲鳴を上げるなんてこたぁ絶対ない女で、どっちかっていうと黙って新聞紙を丸めるようなタイプだ。
「……昔、実家でマルチーズ飼ってたんだけどね、目を離した隙に隣の家に行っちゃって、そこで買ってた柴犬が残した餌を全部食べちゃったの。そしたらもう、まるっまるになっちゃって、パンパンにお腹が膨れて。最初は小さな抜け穴を通って隣の庭に行ったのに、帰りは同じ抜け穴を通れなくてね」
佐百合はその時の様子を思い出したのだろう、あはあはと笑い出した。
「だから、小さい体で食べ過ぎちゃダメだよ」
「わんわん(ああ、そうするよ)」
この体でパンパンになったら、どうなるのだろうと想像してみた。
丸々と太った白いテリア。腹が地面につきそうとか、さらにみじめになりそうだったので、俺は頭を振って妄想を追い払った。
「良ちゃんは小さい時、犬、飼ったことないの?」
「わんわん(ああ、俺はマンションで育ったからな)」
「ふーん、良ちゃんって子供の頃の話しないね。もっと、知りたい」
俺は黙った。こういう話の時はスルーするに限る。
休憩が終わり、講義が再開された。
なんだかな、お腹がくちくなって途中で寝てしまいそうだ。
神官長アルゲルの声、これがまた学校の先生みたいに眠気を誘う声なんだよな。
「……私達カーリヤ人は春日部麻呂から倭国について教わりました。私達があなた方の国の言葉が話せるのは、春日部麻呂から習ったからです」
「それにしては、言葉が私達の標準語に近いように思いますが」
やっぱ現実的だよな、佐百合は。しっかり指摘してるぜ。
「むろん、新しい方が来られる度に修正してきましたので。さて、続きですが」
驚いたな。新しい方って、結構人が来てたんだ。
春日部麻呂が死んでからしばらくして、また一人、また一人と倭人がやってきたという。しかし、記録に名前が残るだけで特に何か功績があったというわけではないらしい。
「わんわん(おい、そいつらは変身しなかったのか?)」
「はい、彼らは変身しなかったのです。というか、もしかしたら、変身した人々がいたのかもしれないのですが、当時は我々とあなた方の世界を結ぶ通路の出口がどこにあるかわからなかったので、人々を出迎える事が出来なかったのです。野生にまぎれてしまったのかもしれません。時々、奇妙な生き物を見たという記録があるので、それらは、あなた方の世界から来た人の変身した姿だったのかもしれません」
「わんわん(彼らは自分の世界に帰ろうとしなかったのか?」
「帰れなかったのです」
「わんわん(なんだって!)」
「当時はあなた方の世界から一方的に来るだけだったのです」
「わんわん(我々の世界で神隠しにあったという話があるが、それかもしれないな)」
「この後、あなた方の世界から凄い術師がやってきたのです。本人は陰陽師と言っていたそうです」
「わんわん(その陰陽師の名前は? まさか、安倍晴明じゃないよな)」
「安倍望月(あべのもちづき)という名前でした。安倍晴明の子孫だと言っていたそうです」
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