第32話 『流れる景色』②
◇
神居にて百地健三郎、大里流海、キリオ・ガーゴイル、そして対戦者。この四名の戦闘、乱戦は壮絶なものとは言い難く、幻想的で現実味も無く、‶痛み〟すら感じさせないものと成っていく。
もはや人ならざる者たちによる、人外の攻防、そして思考――これらをもし不特定多数の人々に見せたなら、注目や興味を多大に惹きつけるかもしれない。だが時として突き放される危険も多くある。
肉眼で観戦、防御行為、熟考をこなし天根光子は思った――戦闘の観戦や考察はカムイたちに任せる、ボクは周囲を駆け巡る現実世界の情報の解析、他の仲間たちの状況把握、そしてほぼ無関係のスズチンへの配慮が優先――彼女の興味をそれほどまで突き放す、健三郎ら四名は正に縦横無尽に駆け巡り、三十分が経とうとしていた。
人は、突き放した方も、突き放された方も共に落胆する。
そして落胆すると反省し、何が原因かと考え、導き出す。
天根光子はこんなときでさえ判断力、経験、知恵を賭し、新しい情報をかき集めてじっくり導き出す。過程が独特なだけだと自覚していた。
◇
流海はやや直感的、野性的な節がある。彼女の口癖がそうであるように、他人への説明するのを嫌い、そして理屈を押し付けられるのも好まない。
だが思考力は決して光子に劣らない。知識量は違えど、頑なに譲れない持論を持つ。
口で諭すのが光子の分野で、流海は拳で諭す。
たとえ対戦者が人を超えていてもそうする。愚かな喧嘩に見えても――もし対戦者が子供なら虐待だと言われても――非が無い場合、罰を受けても指導だと言い切る。
◇
光子とはちがって、百地美鈴の視線は釘付けだった。もっとも、その目で捉えられないほど四名は速く、あらゆる場所で乱打戦を繰り広げていく。さらに人玉のような炎、氷の龍、見えない衝撃、守ってくれる壁など――それらへの興味が強くはたらいて、きょろきょろとし、子供じみていた。
何故、人間にこんなことができるのか。
何故、人間はこんなことをするのか。
美鈴の興味は関心になれども疑問までにはならなかった。
つまり、答えを求める姿勢ではなく、戦っている父、女だてら三名相手に臆しない流海、倒れないキリオ、対戦者へ均等に敬意を持ち始めた。
◇
美鈴の想いは神居での‶光〟たちと、やや違った。
その‶光〟たちは地を離れ、遥か上空からさんさんと輝き、四名を観察していた。
この四名を導いた理由、意味、手段は‶光〟たちのみが知る。
◇
まるで砂漠を思わせる熱量だと、光子が汗を拭って呟く。
彼女の言う熱量は激化する戦闘に対してのものでは無く、神居の〝光〟のことで、その瞳は玉緒アキラと宮田啓馬の状況を見るのみ。
この二名の情報、状況を得て数分ほど検討し、あえてまだ、百地美鈴に黙っておこうと口をつぐんだ。
天根光子は右の掌を開け、緑色の
「ようやく辿り着いた、ケンチン――名付けて太極式体、光撃改、答案用紙型」
光球が健三郎、流海、対戦者に飛んで行く。彼らの頭に当ると吸い込まれるように消えた。
残り一つの光球は浮かんですぐに消えた――遠くで健三郎が光子に向かって親指を立てて見せるが、すぐキリオと対戦者に囲まれ、乱戦に巻き込まれた。
流海が、疾風と共に光子の眼前に駆け寄って来ると、彼女は地に足を沈めるほど力を入れ前かがみになる。両手を右腰に添えるように構えた。
光子は尋ねる。
「それ本当に無刀の発氣掌なの? 構えが往年のアニメっぽいけど」
流海は短く「現実世界じゃ使えない」と答え、手を突き出す。
地響きと共に流海の全身から両手を通り、黄色い大蛇が口を開けて迫り行くよう――流海は鼻をすすり「名付けて、発氣双掌、蛇ノ姿式、邪道の打ち。ガキの頃の夢が叶ったよ」と独りごちる。
「ならさぁ、もう良くないかな?」と光子は問う。「そろそろ現実に戻らない?」
流海は「あと半日ぐらいやらせろ。百地のレベルまで追いつく」と告げて走り出し、姿を消した。
光子も流海も百地健三郎、大里海馬、中井一麿の思惑に至った――だが神の恩恵、己の強運、悪運、知恵、推理、邪推、妄想、邪道、違法、時間、経験などあらゆるものを総動員してのもの。美鈴に伝える時期では無いと悟る。
その理由は天根光子の独断で独特――まず直接的には玉緒アキラの戦闘を観ることができなかった。この直接的にとは肉眼では無く万物の法則を操作できる‶アマツ〟の能力を駆使しても、という意味であり、カムイ使いでなければ理解できないこと。それゆえに言葉での説明、ましてや理解には限界が在るから。
さらにこの不可侵領域――光子は、己自身が口にした表現、『変形・万仙陣』に当てはめ、先ほどの光球に意志を込めて健三郎に送った。
健三郎の返事は親指での合図だった。
『正解』なのか光子はわからない。
彼女の知るなかでの万仙陣にさしたる効果は無い。仙人たちが集まり文字通り体を使って外と内を剥離するものだと伝え聞いていた。
そんな結界の中で繰り広げられるのは、仙人のトップによる一対一の真剣勝負。おそらくカムイを使っても閲覧不可能な、最も古く最も強固な仙陣――これを健三郎が企んだと天根光子の推察していた。
ミスの始まりだと悟れば、今朝からの戦闘はとたんにするっと解けて行く。
これこそが百地健三郎の奸計。
観えない人間へのコンタクトを計るのは、その相手によほどの執着が在る証拠――つまり、天根光子のような『味方』。
コンタクトを早々に放棄するのは『第三者』――この『味方』と『第三者』をコンタクトどころか認識すらしない相手こそ『敵』。
今の対戦者は『敵』ではない。
光子の中では、現実世界で宮田啓馬が登場するまでその誤解が生じ、ミスを続けていた。
光子は修正し、己にとっての『敵』は闇の組織でも無い、元古巣でも無い。因縁渦巻く師でも無いのに、そう思わされていていたと気づく。
『敵』が『悪』とは限らない。そんな単純なことすらも光子は失念していた――彼女はもう一度情報を手繰り始めた。
◇
現在の光子は現実世界の情報を誰よりも早く、多く集められる。現実世界の情報は
青井市、喫茶店Bob――
宮田啓馬の取った行動は、余りに平凡だった。
初対面の草薙裕也に対して、挨拶、名乗り、握手を求めて右手を差し出しただけだった。
このとき、神居では対戦者が徐々に追い詰められていた。光子は健三郎が予想外の攻勢、状況の好転に浮かれて気づくのが遅れた。
裕也は宮田啓馬に睨みをきかせ、席を立った――裕也は歩み寄って表情を曇らせ、差し出された右手を掴まず、宮田啓馬を蹴り飛ばしていた。
突然すぎる行為だった。裕也とは旧知で喧嘩も修羅場も共にくぐった菊池正美さえ、その行為が幻かと目をしばたたくほど。
裕也の蹴りは、いわゆる前蹴りやヤクザキックなどとは呼べないものだった。一旦、両足を地から離し、数センチの跳躍中に宮田の鳩尾へ左足をぶつける。
華奢な体躯の宮田啓馬は微動だにしない、声も出さず、視線が裕也の足に向く。
裕也の左足が地に着くまでの間に、右足が彼の顔――鼻と口を同時に潰そうとして、放たれていた。
宮田啓馬は全く動じずに、直撃を許した。その体は後ろに跳ばされ、外界を見渡せるガラス窓にぶつかり、体ごと突き破り店から飛び出していく。
吹き飛ばされた宮田、舞い散るガラス、派手な音――正美はまるでカンフー映画のようだと思ったが、すぐに払拭して改める。
口が、早朝で、店の中で、暴れるなと言いたくて開く。
だが声が出なかった。
いや、出せなかった。
正美の背後でしゃっくりのような小さな悲鳴が一瞬上がる。その悲鳴は安藤康子だったが、彼女もそれ以上、声を出さなかった。
裕也が誰よりも大きく、荒く息をしていた。正美には裕也が、余裕など全く無く、昨日まで観ていた早朝のランニングよりも辛そうに、また、怯えているようにも思えた。
裕也は水泳選手のように、大きく素早く何度も呼吸しつつ、視線は割れたガラス窓の外――道路で何事も無かったように立つ、宮田啓馬に向けられた。
正美は唾を飲み込む。そして感じた。
蹴りを受け、ガラスの破片を浴びても宮田の顔は鼻血すら出ていない。宮田の服に付着したガラスの破片で光沢を帯びているようだった。
宮田が、ふ、と息をついて頬を指で軽く掻く。
決して言葉にしなかったが『さっきのが挨拶か』と落胆したように思えた。
裕也は動かなかった。正美も動けなかった。
正美の思考が、悲劇から悲劇へとどんどん暗転して過去を想起させ警告し始めた。
その警告は二年前に百地健三郎から言われたこと――
『ミノムシ程度のチンピラごときが。群れて人間様にチョーシくれんな』
普段、柔和な言葉を遣う健三郎が荒くれた言葉、声、表情で言ったこと――
『世の中にゃ、人の型をした化け物が要る。必要っつー意味だが、お前ら、裕也と徹がそっちに行くと仲間意識なんて消えるぞ。雌でも雄でも、幼虫でも成虫でも死ぬよりツレェことされんぞ? それがどーゆー意味か、全員、半年ほど菱山んとこでバイトして知れ。そんで北口公園で腹切ったヤツの、心を知れ。スカスカのアタマと財布にジョーシキを叩きこんで鏡を見てから、詫びろ』
その菱山病院で直視した惨状は、正美にとっても、康子にとってもトラウマを超えたものとして残っていた。
あの惨状を作った経緯、原因を知っていなければここで裕也に加勢か仲裁に入っただろう。
動けない理由は――神様気取りの人間が最も恐ろしい人種だと知っているから。
宮田啓馬の立ち振る舞いが、あまりにも裕也、徹たちの見せる行為と似て思えた。裕也が無言で蹴りつけたのは、本能で『自分と似た境遇と扱いを受けたヤツ』と判断したのだろう――ならば、もう自分たちの手には負えない。それほど、正美と康子にとっては重い。
◇
宮田啓馬から天根光子へ、照れの籠った念が送られたのはこの時、頬を掻き始めたころ。
その念の意図、照れを含む余裕は裕也の蹴りを受けて押し貼った力量と、もう一つ――天根光子は読み解くが‶勘〟の域を出ない。
玉緒アキラへのコンタクトを取る方法や、会話にズレが無いよう最新の情報を集めていたときにはほぼ全て、彼女の中でのみ『解』が産まれたが、そちらの真偽はまだ計れない。
◇
青井市でも神居でも無い世界――そこは一面が桜の木々に覆われている、天根光子には知ることも見る事もできない異世界。
人間は二人。玉緒アキラと十文字エイタ。
だが『人の形をした存在』は無数に居た。
銃を手にした女性らしき存在、武士のように甲冑を身に纏った存在、祈祷師のような衣を纏った存在――ほかにも多数。
百をくだらない多数のそれらは、エイタに明確な殺意を抱き、敵視して攻撃をしていた。
さながら軍隊VS一人。
追われるのは十文字エイタ、二十六歳、既婚者。住処はビジネスホテルを転々としているが今年の夏には父親に成る。
己が三兄弟の長兄のため、兄弟の有難みよりも煩わしさを知っている。『子供は一人で良い』と思っていたが、日に日に大きくなる妻の腹と笑顔を見ていると『もう一人、兄弟がいても』と思い始めていた。
そんな幸せを享受しつつも、人の命を絶つことを生業としている。シャンハイ・パオペイに属し、無刀大里流を学び、訓練の為に人を殺める。カムイを使い始め、約三年経つ。セキュリティーが強固な重要人物を相手にしたのが十件。組織内では、新米から中堅に足を掛けた程度の実績――だが、年下のキリオらが駆け上がり組織内の毎日のように序列が変動し、降格も有り得る事態に立たされてしまった。
表も裏もピラミッド型組織は、上に行くほど実力が認められた証で違い無く、仕事も金も舞い込んでくる。
妻子持ちの彼らと未成年のキリオらにとって仕事の意識は全く違う。
他人のため、己のために人の命を絶つ――エイタらにとって命は、重要な世界の要素。己の生活のために尽きることは望まない。死者を供養などはしないが、ときどき思い出して邂逅する。
そんな彼の妻はよく泣いていた。子供ができる前は――足を洗ってくれと、堅気になってくれと、罪を償ってくれと泣き付かれていたが現在は違う。
去年からよく『この子も殺し屋になるのかしら』と笑って言われるようになった。妻は冗談だ、パパに似てほしくないと大きく笑ったが、そのときからエイタは‶揺れた〟。
ささいな‶動揺〟だった。ほぼ素人の妻は見破れなかった。食事をしていても、酒を飲んでも、ましてや仕事に支障をきたすほどでも無かった。
だが組織の人間にはすぐ看破された。面と向かって忠告されたり、指摘されても、彼はすぐには理解まで至ら無かった。
理解へのきっかけは去年の暮れ、冬から始まる。
帰国した彼は来日したばかりのキリオとの仕事の打ち合わせ中に――その仕事は同業者への忠告という意味での殺し――初対面、先輩にあたるエイタに向かって、報酬の分配の件をキリオはあっさりとけった。
『ちょい前に次男さんと仕事しててん。暗い話よりメデタイ話が好きなんで。入用でっしゃろ? 今回ぐらいは先輩の総取りっちゅーことで。後輩からのご祝儀代わりです』
これでエイタは自覚し、瞬時に猛省した。
常日頃から他人への視線がキツくなっていたこと、態度が横柄に成っていたこと、さらには仕事への集中力がほんの少しだけ欠けていたこと。思い返せばきりがなく、それら凡ミスが積み重なっているため、皆が忠告したのはエイタの身を思ってではなく、組織の質を下げることを懸念したもの。
元々‶殺し〟は自ら不安定な足場に飛び移り、しがみつき、誰にも罵声を浴びせられぬように、崩れ落ちないように怯える――それを繰り返すのなら、考え無いほど楽。
ミスなど許されない。さらには生活臭、存在感が無いほど良い。
後輩や一般人に中途半端な権威を振るっても、また弱腰になってもいけない。組織からの制裁、社会との断絶された前例は有り過ぎる。
エイタはそれを‶自覚していたはずなのに忘れていた〟。
同時にエイタは悟った。
『人は特別だから殺される』
何も持たない者でも‶特別〟という事で殺害対象と成り得る。
人で在る、という事ですら‶特別〟。
エイタはカムイ使いであり、無刀の有段者であり、キリオの先輩であり、惚れた女の夫であり、親――この自覚の有無は、人によってプラスになるかもしれない。
だがエイタにはマイナスとなった。
『守るものが在るから負けられない』
『負けられない。死ねない』
『死にたくない。殺されたくない』
『ならば……』
この先をエイタは考えないようにしていた。
だが玉緒アキラとの戦闘によって引き起こされていく。
痛みとは何か?
勝利とは?
何故、このようなことを戦闘中に考えてしまうのか。それは百地健三郎が言った脱出の条件と玉緒アキラのカムイ能力の分析――エイタは空を駆けながら眼前に迫り来る『人の形をした存在』を見る。
それは全身が緑色に発光していて、袴姿の男性の形をしており、左手には十手のような曲がった鈍器、右手には一振りの刀剣を持っていた。
すれ違いざまに刀の先がエイタのもみあげを斬り削ぐ。肉は無傷だったが、髭を剃ったような音が耳奥に響く。
そのあとに聞こえる、恐怖心を煽るような冷たい、玉緒アキラの声。
「タケヒトシヨウ、二の型、
エイタはその直後に地面に降下し、地に足を着けて思考を切り替える。
心身のクールダウン。そして、目的達成へ向かう。
まずエイタは玉緒アキラが降下して来るのを眺めた。彼女が桜の枝に捕み、その枝を折って右手に持つのを観察した。
エイタは唾を吐き、なるほど、と呟く。
そして玉緒アキラに声を掛けた――相手の行動を止めるために。
「神社でもそうだった。桜の枝――植物を手に取ると
一気に決めりゃ良いのに決めない理由はその最初の言葉を悔やんでの能面ヅラ……戦闘中の間で対処法を見っけられたが、そりゃあんたのワガママ……あんた、『鏡』を見ろよ」
玉緒アキラの歩みが止まる。
エイタは続けた。
「カガミ……古典的な呪詛。真実と虚構、さらには相手の氣の質、心を浮き彫りにする、マジもんの呪文。もちろん無刀の操氣術、もしくはカムイ使いならだけど。
あんたの内氣はどっしりとした
俺ごときが複数の分身を同時に相手にしつつ実在してる本体を狙うのは至難だし……もうあんたを天災って割り切り、カムイ共々、凌ぎきるしかねーし」
右手をこれ見よがしに差し出したエイタ。
彼の腕から血管とともに白い蒸気のような煙が上がった。
彼の周りには桜。
そしてのその陰には無数の『人の形をした存在』。
百を超える軍勢に取り囲まれるものの、先ほどより幾分か楽でエイタにとっては格闘技の
笑みを浮かべて、エイタは言った――
「‶
十文字エイタ、カムイ召喚と同時に‶禁歌〟詠唱す――その心中は二つの文字のみ。
それはとても便利な言葉だった。鼓舞とも自虐とも、いかようにも取れる――『必死』の二文字。
◇
玉緒アキラの汗、心が息を吹き返す――それは彼女の心の中、内氣でのできごと。
正気に返ったと言うよりも遥かに奇跡に近いこと。
自ら殺意の海に堕ち、カガミという言葉で深海の底からの急浮上させられた――彼女の経験では、この場合、戦闘が終結して亡骸を見て悔やんだ場合に限っていた。
が、今回はまだ相手に息が在る。
むしろその相手は生き生きとして、右手に外内氣を練り始めている。
彼女は文字エイタの声、姿に己のやった事を思い出す。
自責の念と共に殺したはずの五感が、心が、全身麻酔の解けたような疲弊感、罪悪感ごと押し寄せた。
体から力が抜けた。地に両膝を付け、息を整える――それでも彼女は顔を伏せずに十文字エイタを見て、さらにその‶禁歌〟も聞く。
「‶春夏秋冬、鳴り響く、
十文字エイタの詠唱が終わる。彼の右手は力が入り、血管が浮き出て脈を打っている。
――今、はっきりと彼は‶ウチガネ〟と言った。詳細はわからないけれど、文言からは物を創る、または造り替えることを想起する。短いことからほぼ最下級。彼が使い渋り、ここで披露するその理由は――
考察中、玉緒の視界はぼやけ、意識が飛びそうになった。彼女は思わず頭を下げた。
その頭上をかすめるように音速を超えた物体が通り、ドン、と音を立て背後の桜に幹に当る。彼女の背後で、メキメキと音を立て折れる桜の音。
玉緒は事態を確信した。
――理由は私の氣の質、カムイの情報を得て、確実に殺せる得物を探ること! 流石にここで、こう来るとは!
十文字の左手には、大口径の拳銃があった。
銃器に詳しい者が居れば――そんな銃など存在しない、人間の腕力で扱えないと思ったほど大きく、黒い。
玉緒アキラの思考は日本の古武術が、銃火器の掃射を想定していない常識を引き出し、すぐさま逃走を選ぶ。
肉体には、反映されなかったが、心は慌てふためいていた。
――蓮さんのように指からの羅漢銭なら軌道も読めた、でも、銃器に意など無い! さらには弾丸ではなく圧縮した内氣を撃ち出すとは、私の外氣に気付いてる?
玉緒アキラは立ち上がれない。疲弊しきって、体が震える。
エイタはもう一発を撃ち、彼女の右膝、そのすぐ近くに穴を空けた。
すると彼は惜しみなく銃を宙に投げ捨てる。銃が、空中で分解されていく。
玉緒の目に、分解の様子が映る――同時に、白い髭をたくわえた老人が宙に浮かんでいた。彼が手を、振るう。
ガシャガシャと小さな金属片が宙で舞い、無数の破片が地に刺さり、地面に潜り込んで行く。
残った部品は老人の手で揉まれたあと、十文字エイタに渡された――エイタは自慢げに、それを見せる。
先ほどまで大口径の銃だった金属が、四角い小さなスイッチのようになっている。玉緒アキラは立ち上がろうとしたが、体勢は正座のまま、つま先だけに力と体重を預けるのみに止める。
「賢明だし」とエイタは言った。「低級だからって勘違いすんなよ? 俺にはジャストフィットだし――俺が使わなかったのは召喚の最低条件、武具の設計図を脳内で引くためと、同じ属性とか似た能力のカムイ同士がぶつかる懸念から――前者は仕方ないが後者はかなりマズい。相手と同格なら相殺、相手が格上なら即吸収されるのがカムイ戦の基本ルール。逃げながらあんたは俺より格上だと充分わかった。
あんたのカムイは基本的には常時憑依型。でも魅入・残と合わせて出来るっつー多様性も在る……空歩で逃げ続け、やっとであんたの体から全部抜けた。今はそいつらに内氣を喰われ続け、正気を取り戻してバテてる。‶禁歌〟詠唱済みとも暴走とも言えない、かなり中途半端だし。
どえらい人数、いや、歴史的偉人を人神としてこれだけ宿して、一気に解き放つなんて……中井さんでも‶禁歌〟無しでやれねえっつーほど。カムイに全てを喰われて吸収されちまう。俺には勝て無いかも。
ただし正面衝突を避け、アタマを使えば
周りをよく見な。俺ら雑魚でもアタマはあるんだぜ。お座りは辞めた方が良いぜ」
それらを聞いた玉緒アキラの心中は――
――ここは最初の襲撃地点。彼が潜伏していた場所。知らず知らず誘導された。何か仕掛けがされているはず。
――見誤っていた。体術やカムイ、それらを限界まで引き上げ、勝つのが彼の武。手の内を読み、心の駆け引きを放棄するのは、私の悪癖。彼が命を賭したなら、‶禁歌〟詠唱の有無、性質を探ることなど当たり前なのに。そして、それらに拳もカムイも不要なのに。
――彼は途中まで保身だった。いつからか使命に変わった。分岐点は、おそらく私が作っていたのだろう。疑念を持たせて戦闘すれば、心変わりして当然。
――彼は、私と同じものを抱えてる。家族、友人、師、そして敵。私より情が有り、また人として出来ている。
玉緒はすうっと息を吸い込み、言った――
「‶馬鹿と空歩は使いよう〟……これを足掛かりにして越えた、と?」
「それどこの諺? あんたの呟きなんて知らねーし」とエイタは笑ってスイッチを押した「俺はただ百地の言葉通り、‶カムイを思う存分に使って脱出する方法〟を模索し、突っ走った。あんたは出だしから勝負に走り、目的から逃げた……反省はそこからじゃね?」
玉緒アキラの周囲、地から槍が飛び出していく。
――正論だ。彼は勝利よりも、生を選んだ。その渇望は本能、無意識、どちらにも働きかける凄まじい欲求。そして甘かったのは、私の方だ。初見の彼を、勝手に格下と見なして自滅した。成り行きとはいえ真剣勝負で敗れ、心を挫かれた。もう、これで――
そう諦観し、玉緒はその槍に射されることを選んだ。
◇
びぃんと、その槍はバネ仕掛けのように突き出た後、すこしその実を震わせる。
エイタが笑いをこらえ、玉緒はまるで腰を抜かしたように地面に転がっていた。
「惜しい! もうちょいで串刺しだったし!」
玉緒アキラの右足から出血――その血は少量だったが、アキレス腱の近くをかすめていた。
玉緒アキラの顔が歪む。痛みよりも、恥をさらすことが悔しく、声にもならない。
――私、まだ生きたいの? どうして? 内氣での攻撃では無いから、などと勝手に高をくくったの?
少し力む、とたんに激痛が走りいく。まるで足首が『これ以上動かすと、切れる』と言うようだった。玉緒はゆっくりと正座の体勢に戻す。意味はほぼ無く、あるとするなら習慣。
――死よりも時間、年齢、習慣、これらが怖いはずなのに。現状が生きてきた証なら、これが、私の人生。逃げたくて、逃げたくて仕方無いはずなのに。
周囲を見渡す。
現実世界の青井市内でも、これほど桜に囲まれた場所は無い。
日陽神社の境内でも、ここまで桜の匂いはない。また玉緒アキラにとって、忌むべき存在と、愛しい存在が勢揃いすることもない。
壮観だと、先ほどのエイタを声を思い出した。玉緒アキラは周囲を囲む『人の形をした存在』たちの中に見知った男性に気が付く。
彼は声を出さずに口の動きだけで、言葉を伝えようとしていた。
玉緒アキラはそれを読み解く。
『いない』
『いない』
『ばあっ』
『いない』
『いない』
『ばあっ』
玉緒アキラは声にした、いないいないばあと。
自然に舌が出て、顔は笑みになる――無理矢理な笑顔なのに彼女の中で、彼との思い出が溢れ出していく。
その思い出は、彼女があまり語らない、彼女だけのもの。
そしてその思い出に浸る時間を彼女は、現実と同時に観て、愛でる。
もし、誰かがその思い出を、現実を、汚す行為をするものなら――彼はまた隠れてしまう。何度、その名を呼んでも、泣き叫んでも、彼は出て来てくれない
「いないいない……ばあ……」
途切れるような声を出し切り、玉緒アキラは正座したまま、両手を腰に当て肘を横に張り、背筋を真っ直ぐ伸ばした。
眼前の十文字エイタは、顔をしかめ、呟く。
「ふざけて無いし、死ぬ気じゃ無いし、狂っても、無い……なんかまだカムイ、いや、無刀の技を隠してる? 百地が言った条件――あんたがぶっちぎりで勝つか、惨いことをする。オリジナルでも持ってるなら出して俺を負かしてくれんとさ、互いに一生、この世界で暮らす羽目になるかもだし。
俺は情けじゃなくて、個人的な事情でエグい殺しを封じてる。そっちが降参しても助からねーし、俺だって意地も在るから生半可な技じゃ負けらんねぇし。出し惜しみせず、やってみろよ……時間は有限だし、早くしねえと惨殺するしかなくなる」
すると玉緒は深く頭を下げた。地に額を付けんばかりに、深い、礼。
そして、言った。
「ありがとう、十文字エイタさん。あなたが相手で気付くことができました。今なら、弟子にも師にも胸を張って言える……これが私の武、無刀大里流で学んだことと、人生で学んだことだと。この二十八年、思い返すと、無駄なことなんて一つも無かった……あなたを制して中井に近づきます」
◇
十文字エイタは、それを観て聞いて、数秒間は瞬きを忘れた。
玉緒アキラはまるでこれから何か始めると、告げたものの、その後はゆっくり背を戻し、元の正座に戻っただけ。
だが、静寂では無かった。
周りの『人間の形をした存在』たちは、ひそひそと話して、エイタ自身も動揺が激しくなる。エイタの心中は――
――俺は武術のみならずどんな勝負でも凡人。だからこそ見分けられる、天才か秀才か。
――この女、そのどっちでも無い。まだこれからだ。心を殺したり、余裕かましたり、意味わかんねえ言動でブレがでかすぎる。戦闘中にあれほどブレてもまだ正気を保ち、潰れる寸前に伸びた。
――片足でも立てるはずだけど、それを同情を買う行為、油断を誘う行為としてあえて正座。傷をやせ我慢してやがるし。周囲のカムイに媚びず、自分の退路を塞がせた。
――多くの回避方法を棄て、それでも未来を考えやがる。俺、噛ませ犬と再認識されるし。で、ガン飛ばすより、笑ってやがるし。
――ここで退いたら男が廃る。
エイタは両手を振り上げる。玉緒アキラの周囲、地面から刃が天に向かって突き出た。
玉緒アキラの座る地下からも――彼女はそれを知ったように立ち、足を引きずるように少し歩く。
エイタは目を疑る。瞬時に出てきたはずの刃が、アキラの周囲のみとてつもなくスローモーションに思えた。
素早く消えた残像なのか、幻覚の類かと思うほど、彼女は悠々と歩き、座る。
エイタは叫ぼうとした、何だそれはと――アキラはそれより早く、丁寧な口調で言った。
「二十八年で至った私たちの極地です……無刀大里流、序列二位、玉緒アキラ……全身全霊で、いざ」
もし、全ての武道や武術に共通のルールを付けるならその一つに『現役が限界など言うな』と義務付けられる。
己の限界、流派の限界などを口にしたならば、それは敗北以上のものとなって跳ね返されてしまう。
十文字エイタもそれを意識的に封じている。日常会話でその話題をするなら決まって他流への嫌味程度に使っている。
だが、己の認めた相手、しかも天才と表した相手が眼前で限界を口にするのは極めて稀だが、彼の人生でも在った。
必勝宣言、もしくは引退宣言。
これ以上、戦え無いと公言する――エイタにとっては近代的で平和的な降参、負けを想定した、聞き飽きた常套句。
無論、エイタがそれを良しとする理由など無い。
かえって、酷たらしく、殺害以上の苦痛、辱めてやろうと働く。
なけなしの武術への信念、心構え、同門としての憤り。
逆鱗に触れ彼を悪鬼にまで墜としていく。
禁句を吐いた玉緒アキラに、地中に仕掛けた全金属を鉄の球に変えて地上へと放出する。
小型の地雷が、連続して爆発するようだった。
土が盛り上がって爆ぜると同時に掌ほどの鉄球が飛び散る。
エイタの背後から白髭の老人が手を振り、さらにその鉄球を全て操作していく。
玉緒アキラのカムイに当たらないように、総数三千もの鉄球の雨を彼女の肉体へ、全方向から浴びせていく。
◇
玉緒アキラは心の中で、同じ言葉を一定のリズムで反芻していた。
――いない、いない……ばあ。いない、いない……ばあ。
それは口で呟くよりも速い。百地健三郎の言葉で表すと、心は口の百倍速。
玉緒アキラは心の中で、『いない』と呟き、エイタと、飛び散る鉄球を目視、左足の爪先に力を込め、立ち上がりと駆け出しを同時に行った。
次の『いない』で鉄球の隙間をかいくぐる。だが、ほぼ面のように襲い掛かってくる。
当たれば重傷確実、絶命もあり得る。
前方も後方も。
彼女は臆さず駆ける。
ほぼ前屈した状態、低空飛行する燕のように、臆さず鉄球に向かう。
彼女の肉体と心は違う質を持つ。
有り体に表すなら、彼女の肉体は意思によって綿のように柔らかくもできるし鋼鉄よりも堅くできる。
油断さえしなければ、防御に専念すれば出血もしない。先ほどのような油断さえしなければ。
もし百地美鈴がいたら昨日の発言を撤回しただろう。玉緒アキラは裕也との組み手で被弾したとしても傷を負うことが出来ない。それがエイタの見極められなかった彼女の肉体、
◇
エイタの目は殺意を帯たまま、玉緒アキラの動きを捉え続けていた。
不可思議極まりない光景だった。
徐々に迫り来る玉緒アキラの歩みは遅い。
鉄球の動きも遅い。
エイタ自身の視線、口、心臓、心すら遅い。
スローモーション、全てが、世界が、時間が遅い。
玉緒アキラは鉄球の中を歩き、当たりそうなものを払いのける――一つ一つを手で、触れて少しだけずらして、歩く。
エイタの意識、経験が、この事態を把握しきれず対処すらままならない。悠々と間を詰められ、玉緒アキラの接近と接触を許す。
エイタは彼女に左手で己の右手を掴まれ、己の顎下を彼女の右手で押された。
そこで気づく――エイタの耳、聴覚は何一つ捉えてない。
鉄球を飛び散らせたあと、風切り音も玉緒アキラの動きの音も、己の耳は何一つ拾わない。
また右手と顎下を掴まれた感覚、触覚が鈍い。テンポがずれているような、妙な感覚。
視覚と嗅覚は、玉緒アキラに集中している。彼女の姿、匂い、それらが他の感覚とずれている。
それら五感のずれは、第六感のようなものが集中し過ぎているときに起こる。
過度なまでに、愛憎や敵視などとは生温いほど向けられている場合のみ、起こりえる。
この時間の差異を感じるのは、初めてではない。
死の間際の走馬灯――だが今回はもっと違う。
狂気も恐怖も無いまま、思考まで遅い。
呼吸を忘れているほどだが、苦しくない。
想いだけが錯綜し、言葉に成らない感情に胸が、頭が締め付けられていく。
時間が遅く感じる。
とてつもなく遅く。
掴まれた己自身の右手と顎下から、玉緒アキラの体温が伝わって行くことも氷の溶解を観察しているよう。
エイタは言葉を心で組み立てるのに、これほど時間を賭したことなど初めてだった。
その心に、浮かんだこと、言葉は――
――緩から急、急から緩。俺のカムイと俺の意識と
するとエイタの五感が高速で元に戻る。
まず聴覚が飛び散った鉄球が周囲の桜に当たる音とともに、玉緒アキラの声を拾った。
「技名、『流れる景色』――参ります」
触覚が戻る。エイタの右手から激痛が走り、顎下、喉もとが圧迫され、忘れていた呼吸を許されないまま、顔がぐっと上げられる。
玉緒アキラの体重が足にぶつかり、伸びきったエイタの足をさらう。
エイタの思考が戻る。そくざに投げを意識して、右手首の関節、骨がきしむまま、彼は力任せに掴み返す。左手で玉緒アキラの襟首を掴み体重を彼女に預けた。さらわれた足が地に付く――上体を被したエイタは玉緒アキラを懐まで引き込み、絞め技を試みたが――視界が動く。
玉緒アキラの背中を見た後、スライドするように地面が映り込み、次に桜、周囲の『人の形をした存在』たちの姿、そして、空。
目まぐるしく動く中で、エイタの手から玉緒アキラが脱出する感覚。
掴み直すエイタの眼前に拳が迫った。
小さな拳。
和やかな玉緒アキラの顔。
高い青空、桜の花弁。
それらを同時に視界に収め、エイタの耳が声を拾う。
「――ばあ!」
玉緒アキラがそう言った。
呆気にとられ、十文字エイタは言葉を失う。
「いない……いない……ばあ!」
と、玉緒アキラはもう一度言った。無邪気さと、母性を含んだ笑顔の、玉緒アキラ。
エイタが顔をしかめ、言う。
「張り詰めた空気に混乱させられた? ……これが、奥義? ……不可解だけど受け身が取れなかっただけだし……あやされるほど可愛いツラしてたか?」
玉緒アキラは、奥義だなんて、と告げた。
「私の『流れる景色』はまだ未完成の欠陥品。あなたと組み合い、最後に一部だけ、やっとで体現できました。でもこの先、技を磨く驚異や窮地が無いなら、このままそう成るのでしょうね――納得できませんか?」
納得できるかと、エイタは想う。互いにほぼ無傷。血を流したのは玉緒アキラだけなのだから。
だが、ほんの少しだけ、晴れた。
久しぶりに叩きつけられた地面。
久しぶりに受けた知らない技。
久しぶりに聞いた、必勝宣言。
そして、必殺技を告げてから掛けるという、ある種の粋。
これらはカムイなどではない、人が起こした奇跡の技、武、そのもの。
エイタはため息をついて、告げた。
「ダメージだけが勝敗を決めるわけじゃ無いし、ボス攻略の研究のため、たまには良いかなって感じ……もうかれこれ二時間ぐらいか。そろそろ大人らしく夢から覚めて仕事をしなきゃ……今日のとこは『敗北した』って上司に頭下げる」
何故かと聞かれるとこう答えただろう。
――死ぬよりマシだし。
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