第8話 キリオだけが見ていた
◇
キリオは裕也の過去を俯瞰していた。
景色は目まぐるしく動き、赤ん坊時代から高校時代まで瞬く間に流れ行く――キリオにその全てを理解する事などできないし、文句も言えない。
『流れる景色』
キリオの耳に声が聞こえた。女性の声だった。
これは、玉緒アキラの声――キリオは理解できた。
『もし、極みなんてものがあるなら――』
次は男の声だったが、誰の声かキリオには理解できない。
ただキリオと同じかそれ以下の歳、声変わりを思わせない声だった。
『これが俺の答え。構えろ――』
『わかってよ! 私をさ!』
女の声がかき消すように入る。その声が誰のものか、キリオには理解できない。
『クレイ、イド、そして――』
『理解される戦い。最も難しい戦い――』
『イズナ――』
『エンジャ――カナキリ――』
『金色の稲穂が揺れる――』
声に被さる声、声、声。
キリオが理解できたのは、それらは裕也が体験したものでないということ。
時代が変わり行く――どこかで裕也とすれ違った者の記憶だということだけだった。
◇
キリオの意識が定まる。
眼前は、汗臭い、古びた道場の中。
その畳の上で、組み手をする男女――草薙裕也と、玉緒アキラがいた。
情景を理解できるのもカムイの力だとキリオは理解して観ていた。
◇
何度も投げられ、蹴られ、殴られても反撃できない。今、草薙裕也のボディに玉緒の左拳が当たったがダメージは無い。
祐也はカウンター、右拳を玉緒の脳天目がけて振り下ろす。
玉緒は、まってましたといわんばかりにその右を掴み、一本背負いで返した。
裕也は受身を取る。すぐに起き上がって体勢を整えるべく――それを制するように顔面へ、拳が打ち下ろされる。
裕也の顔に拳が起こした、そよ風が当たり、同時に殺気と敗北を悟る。
拳を寸止めした玉緒は、和やかさと厳しさを備えた表情で見下ろして宣言した。
「左
散打とは、いってみればジャブ。背投げは柔道の一本背負いのこと。これらは無刀大里流だけの名。しかしどの流派でも使われる技。
基本こそ奥義なり――幼少から叩き込まれた理念と技。だが、裕也には理解しがたい。技で無くたった150㎝、50㎏程度の女性に、どうして負けるのか。もちろん、キリオにも。
柔良く剛を制する――そんな格言めいた迷信と、現実が、いつも裕也を悩ませていた。
「人間には芯があります。体幹のことですね」
玉緒アキラは今年で二十五になる。
今年で高校生になる裕也にとって彼女の言い方、姿勢が古風だ。板張りの道場で正座した彼女は先ほどの組み手について説明する。
「裕也くんのお腹に一発当てる。すると、裕也くんの意識はお腹を庇おうと、少し前のめりになる。この芯が崩れたまま放たれる拳、どんな剛拳であろうと威力が落ちてしまう」
「逆だろ。むしろムカついて力と勢いがつく」
腹をさすりながら裕也は反論するが、先ほどまでの組み手のように、笑顔でいなされ返された。
「来る瞬間と狙う場所がわかれば避けて、返せます。芯が崩れると、隙が如実に現れるものです」
「あっそ……」
口をあひるのように尖らせて、面白くないという素振りで裕也は道場の壁を見た。歴代の無刀大里流高位有段者の写真を眺めつつ、突然、蹴りを放った。
――お互い、座ったまま。だが距離は裕也の制空権内。玉緒、裕也、キリオの三名は同時に思った。
伸びきった裕也の足が玉緒の顔面に当たる寸前、ぱしん、と軽い平手で叩かれる。が、裕也の足は止まらない。
玉緒は上体を少し後ろにのけぞり、空しい風きり音が響く。
「人は横からの攻めに弱い。平手で一寸ぐらい逸らせます。また不意打ちは裕也くんの十八番ですから、最後まで気は抜きません」
唇を噛み締めて、裕也は赤面した。玉緒は立ち上がって一礼をする。
「ありがとうございました」
裕也は足をもどし、立ち上がって背を向ける。何も言わずにそのまま道場を後にした。キリオの意識と反して情景が裕也を追いかける。
◇
ラジオ体操する子供たちの声が聞こえる、夏の朝。道場をつっきり、日陽神社の社を降りると、石畳の境内で小学生がスタンプを押してもらっていた。
「皆勤賞はお菓子だから、明日も来くるんだよ」
スタンプを押している男は、ここの神主、百地健三郎だとキリオは理解する。袴姿に金髪の彼は、ぽんぽんとスタンプを押し、最後に裕也を呼びつけた。
「お疲れ様。ご褒美だ」
裕也の額にぽんと花丸のスタンプを押しつけられる。小学生たちはけらけら笑ったが、裕也はうんともすんとも言わない。健三郎は糸のような細い目で、のんきに言ってのけた。
「笑っちゃあいけないぞ。このお兄ちゃんは、十年以上も四時に起きてランニングしてから、トレーニングしてるんだ。雪でも台風でも、ずっと皆勤賞なんだぞ」
「え、ホント?」
「嘘つきに、花丸スタンプは押さないよ」
そう言って健三郎は裕也の顔中にスタンプを押し付ける。小学生は笑いながら見ていたが、やがてまじまじと裕也を見つめた。
裕也の体から、乾いた汗が蒸気のように上がっている。腕は贅肉がなく、隆々とした筋肉と血管が浮き上がっていた。スタンプだらけの顔を拭うシャツは汗で濡れており、洗いたてのように汗の雫が滴り落ちていく。垣間見える腹筋は六つに割れて、岩を思わせた。
「すげぇ」
感嘆の声をもらした子に健三郎が顔を向けた瞬間、裕也の拳が、健三郎めがけて飛んできた。
子供たちの顔が強張り、注意する間もなく健三郎は自慢げに言う。
「俺ほどじゃないけどね」
ごん、と裕也の顎がかちあげられた。裕也の拳は空振りし、代わりに蠍の尻尾を思わせる健三郎の背面蹴りが裕也に当たった。
裕也は顎を押さえて悶絶する。
健三郎はバレエダンサーのように片足で立ったまま、子供たちの拍手に答えている。
「これは正当防衛、やってもいい攻撃だ。こうでもしなきゃあ、俺は死んでいた。政治でも専守防衛が日本のモットーなんだぞ」
「イジメじゃないの?」
痛みに苦しむ裕也を指差し、女の子が指摘する。健三郎は体勢をもどして、仁王立ちした。
「もちろん、あのお兄ちゃんが泣いたり、口を利かなくなったら俺が悪い。理由はどうあれ謝る。でも加減もしたし、本当に嫌がることはやらないよ」
「だったら謝れ、こら」
裕也が顎を押さえて抗議した。
健三郎は頭をさげて「ごめん」と言う。
裕也は再び殴りかかる。健三郎は頭を上げ、その拳を額で受け止めた。またも裕也は悶絶し、右拳を押さえてうずくまる。
「いまのは不可抗力っていうんだ。この場合は、お互いに謝るんだぞ」
子供たちは素直に返事し「あの兄ちゃん、見かけ倒しだ」と言いいながらやがて神社から去っていった。
◇
八月の蝉が鳴き始める。
午前七時。百地美鈴が、境内の奥にある居宅から声を張り上げたとキリオは理解した。
「朝食だよーっ!」
その声に引かれるように健三郎と裕也は百地家へ向かう。
キリオもそれに続く。
「俺の芯がずれてたのか?」
右拳をさすりながら裕也は問う。
「玉緒だったら、ぶん投げるところだ。相手が俺で良かったね」
「
祐也の右拳は赤く腫れあがり、痺れていた。
「俺が芯を保ったのさ。ほら、立ち上がりは一番不安定だもん」
「ついでに人体で一番硬い場所で受けたってか?」
睨みつける裕也に対し、健三郎も前髪を分けて、受けた額を指差しうったえた。
「俺だって痛かったんだから。ほら、血が出てる」
「ほんとだな。蚊に刺されたみたい」
「夏だもの。ああ、かゆい、かゆい」
ぽりぽりと額を掻く健三郎に、三度襲い掛かる裕也だが、返り討ちに合う。
キリオはその争いを見届けずに、情景が変わる。
◇
――美鈴がキッチンから居間へ料理を運んでいく。キリオは見ていた。
料理を運び終え、それぞれの茶碗に米をよりわけると、傷だらけ、泥と汗まみれでぼろぼろになった裕也が千鳥足でやってくる。
続いて健三郎、こちらは袴が乱れているものの、ひょうひょうとして「今日は干物か」と呟き、席に着く。
庭へ出入りできる大窓から太陽が射し入り、朝食が始まった。
美鈴は、きょろきょろと二人を見て、尋ねる。
「玉緒さんは?」
裕也は返事もできないほどへばって、でもがつがつと食ていた。
健三郎は鯵をほぐしながら、首を横に振る。
美鈴は席をたって、玄関まで歩き、玄関から境内へ、境内から社へ、社の奥にある道場まで探した。キリオもその姿を追った。
◇
汗臭い道場にも玉緒の姿はない。美鈴は首をかしげ、来た道に振り返り声を出した。
「玉緒さーん、朝食ですよーっ」
◇
情景が変わる。キリオは玉緒アキラを見ていた。
彼女は境内の端に立っていた。美鈴に返事はしたものの、動かない。
離れたくなかったのだ――そうキリオは理解した。
「玉緒さん、どうしたの」
サンダルを履いた美鈴が歩み寄って、玉緒アキラは振り返る。
「いいえ、何でもありません」
「ここ……裕也くんが捨てられたところ?」
美鈴が見渡す。
境内の右端で、山に直面した狭い区画だった。犬や猫しか通れないほどの草むら。
こんなところに子供を捨てるなんて、と美鈴。
「どんな事情か知らないけど、最低だよ。せめてお父さんに相談すればいいのに。まったく」
「ええ、そうですね……」
玉緒はくぐもった返事をする。
キリオは思い返す――生まれて間もない裕也が、十五年前に置かれていたと。
玉緒アキラはその地に眼を据えていた。
美鈴は、玉緒のお団子にされた後ろ髪を見て、一言「今日は鯵です」と伝えて、自宅へ戻った。
サンダルの音が蝉に消され夏の朝日が、玉緒の背を照らし影を作っていく。小さな身体から伸びた影は、やがて境内の影と同化していった。
「最低だって……お姉ちゃん……雅也くん……やっぱり嫌われちゃったね」
独り言ちる玉緒アキラ。
彼女の背後にはキリオが立っていたが、彼女の両脇にも人でない者が二ついた。
左には女性、右には男性がいた。美鈴には見えなかったし、玉緒とキリオのみが知っていた。
そう理解してキリオだけが見ていた。
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