第2話 百地親子と二人の居候

 

 ◇

「朝食だよーっ!」

 境内の端にある日本家屋、その玄関から顔を出した、百地ももち美鈴みすずが境内にむかって元気よく声をはりあげる。時間は七時ちょうど。

 

 いつも美鈴は六時に目を覚ます。肩までのばした栗毛の寝癖をとり、軽くメイクをする。制服に着替えてから朝食と風呂をわかすのが、彼女の日課だった。

 

 毎朝、玉緒と裕也の組み手は、美鈴の一言で終了するはずだった。玉緒がにこにこと微笑みながら、失神した裕也をかついでくるはずだった。

 

 しかし今日はちがった。裕也が自分の足で歩いて玄関にやってくる。

「あれ、もしかして玉緒さんに勝っちゃったの?」

 朝から元気な美鈴に対し、裕也はうつろな目だけで返事した。

 

 武術もケンカにも縁のない美鈴だが、勝者の雰囲気でないことはわかる。

 凄まじい汗をかいた裕也は、すれちがいざま「シャワー浴びてくる」ともらし、家にあがった。

 つづいて玉緒がやってくる。こちらも勝者の雰囲気ではない。いつもなら、にこにこと、ほがらかな玉緒スマイルで朝食のメニューをたずねてくるのに、無言のまま美鈴とすれ違う。

「どうしたの? 二人とも、らしくないよ」

 心配そうにたずねる美鈴に、玉緒はふっとはにかんで、家にあがった。

「……なんなのよ、まったく」

 ぴしゃりと戸を閉め、美鈴も居間にむかった。


 ◇

 十畳の居間、四角いテーブルを前にし、新聞を広げる男がいた。糸のように細い目、寝癖のついた短髪、袴姿の男――神主の百地ももち健三郎けんざぶろうは、つけっぱなしのテレビから流れる朝の速報を聞く。芸能人の結婚報道だった。それを聞きながら、健三郎は新聞を読んでいた。

 

 その記事は外国の、とある学者が発表した論文についての連載記事だった。興味深い内容で、毎日読んでいる。しかしテレビは芸能人の結婚会見ばかり流していた。

「お父さん、ご飯」

 朝食がならべられていた。健三郎は新聞をたたみ、テレビを消す。一人娘の美鈴が作った食事は健三郎にとって何よりの楽しみだった。さらに居候の玉緒アキラと草薙裕也との会話も楽しい。そのほかはうるさい雑音。


 美鈴から箸を受け取り「いただきます」と手を合わせる。玉緒は隣に座っていて、すでに食事をはじめていた。

「裕也くんは?」

「シャワー」

 娘のそっけない返事に、健三郎は首をかしげる。なにか怒らせることをしたかな、と。

「玉緒、今日は裕也くんから何本とった?」

「三本です」

 居候の巫女さんも、やはり素っ気ない。ゆっくりと鮭をほぐす彼女の箸使いも、いつもより元気がないように思える。

「じゃあ、学校に行くことになるか。制服が無駄にならず、何より」


――女性がこういうとき、男はあれこれ詮索しない。無難な話題を持ち出しておくものだ――


 そう考えながら健三郎はご飯を食べる。もぐもぐと口を動かしていると、その音が聞こえそうなほど食卓は静かだった。

「まあ、どだい無茶な条件だったわけだ。早朝20キロを三十分以内、もしくは玉緒からの一本取り。やってみる根性は誉めるけれど」

 言いながら健三郎は味噌汁をすすり、卵焼きに箸をのばす。

「根性は一丁前でも実力がないとなぁ」

 誰も健三郎の話にのってこない。しんと静まった食卓。


 そこに襖を開け、ブレザーの制服に着替えた裕也がやってきた。

「おはよう。似合ってるじゃないか……ねえ?」

 健三郎の発言が、しゃくにさわったように裕也は顔をしかめた。

 裕也は、心を代弁するよう、髪をワックスでつんつんに尖らせている。手を合わせ、いただきます、と言ったきり裕也も黙って食事を始めた。


「しょげることはない。俺だって玉緒には苦戦するから」

 健三郎は鮭の皮をはがし、骨を取り分けて、身をつまむ。ご飯の上にのせていっしょに口に運ぶ。その動作がうるさくおもえるほど、食卓の空気は静まっていた。

「無刀大里流は底なしだからね。それが玉緒ほどになるとさらに――」


「マジックみたいな技も使えるってか?」

 裕也の声が食事を中断させた。

「分身とか幻術とか……他にはなんだ? 空でも飛ぶ? すげぇもんだな」

 そして、かきこむように箸を動かし、裕也は朝食を一気に食べ終えた。熱いお茶も一気に飲み干し、健三郎をにらむ。

「でも、そんなの武術じゃねぇ。曲芸だろ」

 やぶ蛇だったか――と健三郎は味噌汁をすすり、考えていた。


 ――武術は強者を創りあげるものだが、強者がやるものではない。もともと非力な人間の自己防衛、もしくは立ち向かうためのすべだ。その信念に魅入られた少年は時を経て、いま、裏切られた。

 心身を鍛え上げ強くなる〝武術〟を尊敬していたのに、ファンタジックでトリッキーな技を見せ付けられ、落胆したのだろう。

 裕也はもう高校生だ。いつまでもファンタジーにひたっていられない年頃なのだ。現実を直視し、社会に適応しないと生きていけない。

 いつものサウナスーツを脱ぎ捨て、制服に身を包んだことは、そういうことなのだろう――

 

 そこまで健三郎は考え、言った。

「じゃあ、もう辞め時だな」

 静止した時間を動かすように、健三郎は沢庵に箸をのばす。全員の視線が集中しているのを感じつつ、細目と冷静な表情でこりこりと音を立てて食べる。


 健三郎は他人事のように言う。

「裕也くんは普通に学校に行って、普通に就職して、普通に生きて、おもいっきり幸せになりなさい。俺も玉緒も、それが一番いいと、最初に言っただろ?」

 すると裕也は立ち上がって、無言のまま居間から出ていった。

 

 しばらくして玄関から音がする。そのあいだ女性陣は誰も動かなかった。

 健三郎は娘の美鈴に注意を促す。

すず、お前も行かないとダメでしょ」

「あ、うん……ごちそうさま、いってきます」

「はい。いってらっしゃい」

 ぱたぱたと美鈴が去ったあと、さらに静かになった。

 

 手を合わせ「ごちそうさま」と言うと、健三郎は熱いお茶をすすって、ほっと息をつく。

 玉緒も食事を終えており、黙ったまま、うつむいていた。

「去る者は追わずってのが、俺のスタイルなんだ」

 玉緒の湯飲みに茶をいれ、なんともなしに健三郎は言う。

 障子から春の朝日が差し込んでくる。のほほんとした晴れの陽気が食卓に入ってくるようだった。

「ちょっと力を抜けば? 親離れより、子離れできないほうがやっかいだ」

 

 チチチ……と雀が囀っている。


 ――縁側に出て日向ぼっこするとすぐ、眠れそうだ。

 

 しかし健三郎の立場、神社の神主という仕事は楽ではない。参拝者がいると相手をしなくてはならないし、建物の新築や改装時には祈祷など宗教活動をする。たまに大学から歴史の講師として招かれ教鞭を振るうこともある。作家のように本の執筆依頼が来ることもある。実にマルチな職業だった。

 

 その生活の中で食事がいかに楽しいものか。たとえ血の繋がらない居候がいても、健三郎はその時間を楽しみに生きている。

すずが生まれて、裕也くんがやってきて十七年。お互い、その大半を子育てと大里流につぎ込んで……それでも人生の分岐点ってやつは直面するまで気づかないものだ。まったく」

 

 玉緒は黙って健三郎の話を聞いていた。

 庭でホトトギスが鳴いた。

 

 こんな日に辛気臭い話は似合わない、と健三郎は言う。

「趣味が変わった、と思えばいい。嫌われたと思うと、自分を嫌いになっちゃう。こんなストレス、何かに押し付けちゃえばいいんだよ」

「そうですね……」

 玉緒はやっと口を開いた。

「いつの世も、無刀大里流は嫌われ者です。そう思うと、ちょっと楽になります」

 お茶を飲み、いつものほがらかな表情をうかべた。

 家の電話が鳴る。健三郎はゆっくり立ち上がって、玉緒の肩をたたいて念のためにフォローを付け加えた。

「その玉緒スマイルを嫌うやつは、この世にいないよ」


 ◇

 電話を取ると、健三郎より先に、だみ声が聞こえた。

梶尾かじおだ。今日、空いてるか?」

 なぜ彼はいつも健三郎が出ると知っているのか、この街で最大の不思議だった。健三郎は電話機のとなりにあるカレンダーを見て、予定が書かれていないのを確認した。

「大丈夫ですけど、突然すぎませんか」

「緊急事態ってやつは神様の仕業なんだよ。尻拭いが人間の仕事だ」

「そりゃそうだ」

「じゃ、菱山ひしやま医院でな」

 それで電話はきられた。

 皮肉を言うひまもなかったが、健三郎は大体の想像はついていた。

 また“あの男”がらみにちがいないと。

 

 こった首を鳴らして、健三郎は洗面所に向かう。

 身支度を整えはじめた。顔を洗って、歯を磨いて、たっぷりとワックスをつけて前髪を触角のように二つたらし、残りはオールバックにする。鼻毛をチェックして、ムスクを体につける。


 部屋に行き、レザーパンツとYシャツ、その上から黒いトレンチコートを羽織る。三十代後半の健三郎には、若作りで酷な格好だが、美鈴のコーディネートを否定するわけにはいかない。

 出来上がった自分の姿を鏡で見ると、どこぞのマフィアかとつっこみたくなる。

 

 それを抑え、玉緒への言い訳を考える。いつも、それにさく時間がもっとも長い。


――しまった。最初に言い訳しておくべきだった――


 ◇

 台所で玉緒は洗い物をしていた。

 流行らないラーメン屋に入るように、もじもじと健三郎は声をかける。

「あのさ、玉緒、ちょっと野暮用ができて……神社を頼めないかなぁ?」

「かまいませんよ。神主が居留守をつかうよりは良いです」

 その声にたいし健三郎は後ろめたさを感じずにはいられなかった。

 振り返りもしない玉緒は、さらに冷たく語る。

「今日はどちらへ行くのか知りませんが、けんさんには、お年頃の娘がいることを、ゆめゆめお忘れなく」

 その声は健三郎の胸に突き刺さるようだった。考えていた言い訳はすべて虚空へふっとんでしまった。

 


 いつだったか、同じく梶尾からの連絡があった。問い詰められて、うっかりキャバクラに行ったと赤面のベタな言い訳をした。そのとき玉緒の怒り様は――。


「はい、肝に銘じて、いってきます……」

「お早いお帰りを」

 肩を落とし、とぼとぼと健三郎は玄関へ。革靴を履いて、外に出る。


 春一番の風で桜が舞う境内。健三郎は石田畳を歩き、ふと立ち止まった。

 顔だけ右に向く。そこに階段があり、お堂へと続いていた。


 十七年前を邂逅する――。


 百地健三郎はまだ二十代で、妻の美和みわがいた。

 美鈴を授かりすぐ、美和を亡くした。

 入れ替わるように玉緒アキラが、巫女のアルバイトとしてやってきた。

 

 それらはあのお堂に祀られている神の業。

 

 そして、美鈴が産まれた年の明け、初詣の参拝客が去った後、まだ雪がうっすらと境内にあり、玉緒がお堂で見つけた乳幼児――まるで犬猫のように段ボールに入れられ、捨てられていた裕也。



 過去から現実へ戻り、健三郎は深呼吸をした。背筋をまっすぐにして顔を前へ。足を静かに運び音も無く境内をつっきる。

 五百もの階段を降りていくと国道にでる。


 路肩にハーレーが停車していた。持ち主はシートにまたがっている。

 女性だった。煙草をふかし、健三郎に向かって声をかける。

「久しぶり。二年ぐらいだっけ。梶尾から連絡があったろ」

 健三郎はそのぶっきらぼうな言葉よりも、事の重大さにげんなりした。

 

 その女性は、くせ毛をまとめたポニーテールにタイトなライダースーツ。

咥えている煙草はマルボロのメンソール。


 健三郎は頭を掻きながら歩み寄る。

「当主代行が直々とは。どうなってんだか。まったく」

「面倒ごと」

 と、女性は携帯灰皿をポケットから取り出し、煙草をその中に入れながら言う。

「師範代クラスに連絡をつけたけど、ほとんど音信不通だった」

 そして春の空を見上げる。女性――大里おおざと流海るみの携帯電話が鳴る。彼女はでるやいなや、表情が強張った。


 健三郎は彼女の表情を見て、事態を予想し、独り言ちる。

中井なかいのやつ……何人れば気が済むんだか。まったく」

 

 


 


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