K・A・I 2

秋澤景(RE/AK)

一章

第1話 主人公様VS最強の女


 青井あおい市――。

 総人口三十万人、面積五百平方キロ強。地方都市としては比較的人口密度が高く、商業都市として発展し、とりわけ犯罪は少ない。

 めまぐるしく過ぎる日々、どこか、のほほんとした安心感につつまれ人間が住む。


 街の朝。まだ出勤ラッシュまでほどとおい時間。


 三車線の道路を、牛乳配達のバイクが走る。反対車線には新聞配達のバイク。この二台の排気音がすれ違うと、チチチと雀の声が聞こえる。そして静寂。

 

 午前五時。いつもどおりの青井市はゆっくり昇る太陽に照らされ、やがてその姿を現す。そびえるビル群、つつましい時間をすごす人の家。

 そして何百年も変わらず、ゆうゆうと流れる青井川――その土手には早朝からジョギングをする中年男性が二人、真新しい白いジャージとスニーカーを装備してのろのろと歩く。

「だいぶ走りましたな」

「そうですな」

 体重、百を超えるぶよぶよとした腹は、一歩を踏み出すたび、波打つように揺れる。たった二キロの土手を走る、というより歩いただけで長年、仕事以外の運動をしなかった二人は息をきらしていた。

「おや、先週より痩せておられる?」

「お互い様ですよ。なにせ毎朝二キロですからな」

 そう言って互いに笑いあう二人。確かに先週よりも痩せていた。5グラムほどだったが。

「酒も減りましたしな。やっぱり運動はよい」

「それにこの静かな空気、リフレッシュにはもってこい」

 青井川に架かる鉄橋を始発電車が、カンカンと独特の音をたてて走っていく。二人は立ち止まって一息つき、眺めていた。


 すると、のんびりと趣味の世界にひたる二人にむかって、人影が猛スピードで走ってくる。二人は気づかない。電車が鉄橋を渡りきるころ、ようやく“それ”に気づいた。


 車の爆音のような足音。二人は振り返ると、上下、黒のサウナスーツを着込んだ人間が疾走してきた。

 おどろいた二人は、道を開けるように両脇に避ける。

「あざーっす!」

 その男が礼を言うのと姿が見えなくなるのは、瞬く間だった。

 撒きあがる土ぼこりが尋常ではない身体能力を物語っていた。



 ◇

「二十一、二十、十九……」

 朝早くから日陽ひよう神社を竹箒で掃除する、小さな女がいた。

 白衣に緋袴で、髪を後ろでお団子にしている彼女は、にこにこと微笑みながら、数を数えている。

「十一、十、九……」

 彼女が数えているのは階段の数だった。

 五百段もある神社の階段。寄り添うよう立ち並んだ桜の木、その散り落ちた花を、彼女はあえて下から竹箒で掃除して、最上段までの残りを数えていた。


 そして最後の一段にたどりつく。

 

 十をきったころから階段を駆け上がってくる爆音が、彼女に聞こえていた。

 

 微笑みながら彼女は、最上段の掃除を終えた。

「最・後・の・ひーとつ!」

 竹箒を大きく振り上げ、掃除してきた階段へ振り返りざま、勢いよく振り下ろす。

 と、ちょうど駆け上がってきた男の脳天に直撃した。

「がっ!」

 声をあげて男がうずくまる。男は彼女より一段下にいた。

 にこにこしながら彼女は、男に声をかけた。

「時間切れです。約束どおり、今日は学校に行ってくださいね」

 

 男は頭を押さえながら不満げに彼女をにらみつけた。息もきれぎれ、汗が滝のように流れ、乾いた汗は蒸気になっている。

 目は血走っていて、体力の限界を超えた男は、正常な人間の瞳ではなかった。しかし、彼女は受け流すように微笑んで言う。

「そんなに睨んでもダメです。約束は約束です」


 舌打ちして、男は立ち上がり、最後の一段を上る。男は中指を立てて、勢いよく声をはりあげた。

玉緒たまおさん、忘れてねぇか? このあとの組み手で一本取ったら、俺の勝ち! 学校行かずに修行続行!」


 男と女は向かい合った。男の身長170に対し、女は150あるかないかという小柄な体格。

 普通なら彼女に勝ち目はない。普通の女性なら――

「そんなに学校が嫌ですか……」

 小さな巫女――玉緒アキラは微笑みながらも、すこし落ち込んだようだった。

「わかりました。じゃあ、いつものようにやりましょう」

 玉緒が男に背を向け、石畳の境内に向い、踏み出す。その小さな背中に、男は殺気をまきちらし躊躇なく殴りかかった。

 

 とった――男は確信した。距離、スピード、タイミング、すべてが完璧だと。


 ごうっと、春の強風がふく。すると、とらえたはずの玉緒の背中が消え、男の視界がぐるっと回る。一転して春の明け空が見えた。

「あ――がっ!」


 直後、背中に痛みが走る。そして、石畳の冷たく硬い感触。

 玉緒アキラの、絵に描いたような一本背負い。


 さらに男が起き上がるひまもなく、顔面に拳が打ちおろされる。

 殴りかかった相手の右手を取り、投げる。あえて受身をとらせておいたうえで、死に体――行動不能状態にし、その隙に止めをさす。

 玉緒アキラの定石だった。

「はい。背投せなげから右真打しんうち、一本」

 そう宣言する玉緒の拳は、男に当たっていない。鼻先で寸止めされていた。しかし本気で打ち下ろされていたら、いくら女の拳といえ、男の鼻は顔にめり込んでいた――冷たい汗が男の背を流れていく。

 

 玉緒は男から手を離し、今度こそ境内に向かって歩く。

 男は起き上がって、頭を振った。

 顔を軽くたたき、気持ちを変え、そして考える――


――息をゆっくり吸って、吐く。

 左手を下げ肩ごと前に出し、右手を腰に添え握りきらず、かるく開けておく。

 足は左を前に出し、右は後ろに。体の左だけを相手に見せることを心がける。

 頭は顎を引いてやや、視線を下にむける。足元から相手の全体を見るように。

 そして心を、体を、静かに保つ。波のない海のように、静かに――


「……なかなか、どうして」

 男の構えを見て、玉緒は思わず感嘆した。基本を極めると奥義になるという玉緒アキラの持論を彼は、実践しようとしている――。

裕也ゆうやくん、様になってきましたね」

 玉緒アキラは、向かいあう男――草薙くさなぎ裕也ゆうやに対し、その小さな体を真っ直ぐ正面に置き、対峙した。

 表情は、ほがらからだが、桜がはじかれるように逃げていく。

「今回は、ちょっと本気でいきますよ」

「……押忍おす

 

 何年間も繰り返してきた組み手。いま玉緒のとった、一見して無防備なたたずまいこそ、最も恐ろしい、最強の構え――裕也は、嫌というほどわかっていた。


 それから数分がすぎ、突然、裕也が風のごとき俊足で、一気に玉緒の懐に入る。


 裕也の左拳が玉緒の顔にとんでくる。ためらわず玉緒は、右手でそれを払う。

「あまい!」

 そう叫ぶ玉緒は、裕也の右拳が己の腹を狙っているのを見透かしていた。体をひねりそれを避けると、払った勢いを利用して、すっと裕也の左に移動する。そのまま裕也の左肘を掴んで、同時に足を払い、死に体とする――水の流れるような静かな動き。だが裕也に読まれていた。

 ジャンプして、玉緒の足払いを避ける裕也は、掴まれた左腕を軸にして、玉緒の顔に蹴りを放つ。

 それもむなしく空をきる。すでに玉緒は手を離し、一瞬にして距離をとっていた。


「こ、この、化けモン……」

 裕也が苛立ち、愚痴をこぼす。

 玉緒は、にこにこして4メートルも離れた場所に立っている。


――あの体のどこに、そんな瞬発力があるのか。人間じゃない――と裕也が心で呟く。


「人間ですよ」

「へ?」

 マヌケ声をあげて、背後から衝撃をうけ、裕也はふっとばされた。

 トラックに跳ね飛ばされたように裕也の体は飛んでいく。にこにこしている玉緒アキラに向かって――。


――ぶつかる! でも、受身もくそもあったもんじゃねぇ!


 接触した瞬間、玉緒の姿は煙のように消えた。裕也はそのまま地面に落ち、わけのわからない状況と打撲でくらくらした。

「はい。魅入みいれから右真打、合わせて一本」

 玉緒は裕也の、ふっとばされた場所にいた。

 いつものように、にこにこと微笑んで右拳を裕也の顔に――


――むちゃくちゃだ。さっきのは眼の錯覚か、白昼夢だ、一本でもなんでもない――裕也は飛び上がり怒鳴った。

「ふざけんな! なんなんだ、今の! 無効だ、無効!」

無刀むとう大里流おおざとりゅう操氣術そうきじゅつしょの段、魅入みいれ。一種の幻術ですが、れっきとした技です」

 夢か幻のようなものを技といわれ、激怒する裕也を、平然と玉緒は笑って受け流す。

 歯をくいしばり、裕也は再び玉緒に立ち向かった――が、魅入なる技のまえになすすべもなく、玉緒の髪にすら触れられず、敗れた。


 今日、三本とられて一万回目の敗北となる。無刀大里流の歴史で最も負けた男として名が残った。

 0勝10,000敗。この記録は世界記録かもしれない。しかも連敗。対戦相手は全て玉緒アキラ。


 負けが大台にのった裕也は不満と怒り、さらにインチキじみた技をみせつけられ、ついに感情をぶちまけた。

「こんなもの武術でも格闘技でもねーよ! やってらんねえ!」

 裕也は血の混じった唾を吐いて、もうおしまいと玉緒に背をむけ、いじけた。

「玉緒さんのひきょーもん。もう、やらね」

「卑怯ですか。否定はしません」

 裕也から組み手を止めるのは、初めてだった。


 ◇

 いつもあーだ、こーだと言いがかりをつけて挑戦してきたのに――その時間は玉緒にとってすこしだけ辛く、何よりも楽しい時間だったのに。


 彼女は無理な課題をこじつけ、裕也を追い込んだ神主をすこし呪った。

「裕也くんは格闘家になりたかったのですか? 何でもありの無刀大里流で強くなるのではなく、決め事に縛られた、限定世界での強さを求めていたのですか?」

 

 ◇

 限定世界での強さ――裕也はその言葉に反応して、振り返る。

 風に吹かれて、やや遅めの開花をむかえた桜が揺れる境内、そこに悠然とたたずむ玉緒アキラ。


 その小さくて最強の巫女さんは、微笑んでいるが、すこしさびしそうな瞳で裕也を見つめている。

「私は、そういったものに敬意をもっていますが、教えることはできません」

 彼女は一礼すると、ほったらかしの竹箒を拾い、境内に振り散った桜を掃除しはじめた。

「やっぱり裕也くんは学校にいって、授業や部活動を通し、強さを学ぶべきです。今日で私は、お役御免ですね……」

 舞い散る桜。その無数の花は、朝日に揺られて乱反射しているように輝いている。

 そのなかで彼女は、涙をぬぐうように眼をこすった。



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