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 ◇

 七月に入り、空気は湿気四割、熱気六割という気候の中。人々は今日という日を生きている。

 

 大里雅也は帝都大学の磯山教授の研究室にいた。雅也は度々、この古びた書店のような埃っぽい(かつタイトルの無い書籍が乱雑に床にまで置かれている)研究室に顔を出していた。

 磯山の専門は民俗学であり、雅也が玉緒万事屋で働き始めて知ったこと、理解し難い事象に遭遇したことを、さも他人から聞いた風にやんわりと尋ね、過去にそういった事例が無いかなど、疑問を解決してもらうこともある。

 今回はいささか事情が違っていた。

「調べたんだよ。カムイについて」

 やや前髪が後退しているのを気にしてか、磯山は髪の毛を全て剃っていた。髪以外はすべて四十代とは思えぬほど若々しく、日焼けした顔にたるみはない。体はほっそりとしているが、今日のように半袖のシャツをきていると腕の筋肉が鍛えられているとわかる。しかし喋る事柄は理系の教授たちに鼻で笑われるほどオカルトめいていた。

「やはり北海道の土着信仰にぶつかるけど、動物のような守護霊、かたや不幸を願うものなど地域によって違う。まあわかっていたことだが……驚くべきは関西の日本海側の村にも同じような信仰があるんだ。改めて調べれば調べるほど興味が湧くね」

 調べれば調べるほど――雅也にも聞き覚えがあった。

 先月の仕事で出会った謎の男、中井一麿。彼はカムイについての研究をして、おそらく最もついに近い人間。いや、人間と呼ぶのはいささか違うかも知れない、と雅也は感じた。

 腕をもがれても、五体を切断されても数秒で元に戻る人外の者。

 また中井は未だメディアを賑わせている〝若者による同時多発無差別殺傷事件〟を引き起こし、さらには雅也の上司、玉緒万事屋の店主、玉緒玲と因縁があるらしい。雅也はいつ彼に襲われるかわからないので、対策が無いかと自らカムイについて調べ、レポートにまとめた――同時に実の姉、たつみからの師道も受けた。こちらは相手が社会人だから、ほぼ休日、たつみの手が空いた時だけ大里流の鍛錬を受けた。

 開始したのが先月の土曜日だった。

 その日、たつみと組み手をして、やはり、と雅也は思った。


――僕に武術の才能は無い。きっと相手が小学生でも、こうやって負けるだろうな。


 それはたつみも察した風に言った。

「マサヤん、体の半分が中井に持ってかれてるんよ。だから私の拳でもK・Oできる……ただし、しばらく筋トレとか外氣がいき系の鍛錬は禁止。瞑想、お勉強とか内氣ないき鍛錬のメニューを考えとくさかい、公私ともにバトル禁止。無理したらアカンで。お陀仏やからね」

 たつみの顔と、あだ名で呼ぶ声は笑っていたが、服装や雰囲気から、洒落で無い事は雅也にもわかった。


 後日、瞑想や大里流の歴史などの勉学によってまず行き着いたのが、レポートの草案だった。本文は磯山が食いついて来ることを願いながら書いた。こちらも雅也には、やはりと言うべきか磯山のライフワークと繋がったのを確信した。

 磯山のライフワークとは日本のオカルト話を収集すること。

「しかし君のいう不死をもたらすという記述は文献を漁っても、ネットの噂にも無かったね」

「そうなんですか?」と言いつつ、雅也はそりゃそうだろうと考えていた。

 雅也の考えでも中井が不死身であることと、カムイという日本古来のいわれに関係はない。しかしレポートにはあえてその関係性について書いた。磯山の興味を惹き、あわよくば中井からのカムイによる攻撃を回避する方法を得るためでもあった。真実を知っているであろう玲やたつみに頼っても「そんなことより交通事故に気を付けろ」とか「次第にわかるから」と返されてしまったので誇張が過ぎた気もあった。

「教授が駄目なら、諦めて鍛錬に専念した方が良い」これは玲の妹、アキラの言葉だった。

 正論だけど、と雅也はこの研究室で磯山の話を聞いていた。

「君のレポートには、犬神もあるね。呪いを行使した者は死ぬとある。諸説あるが、言い伝えの多く……特に四国から九州側では術者の家の守り神になるんだ。ただ」

 磯山は湯気の立つマグカップを右手に持ち、左手で一枚の紙を持つ。マグカップに入ったコーヒーを啜りながら、ちらと紙を見て、雅也にそのA4サイズの紙を渡した。

 受け取ってそれに目を通すと、雅也には解読不能な漢文がずらっと並んでいた。

「先日、四国に出張してね、その時にいくつか田舎の郷土資料館をはしごして見て回ったんだ。そこで見た資料論文のコピーなんだが、読めるかい」

「古文は苦手でして……」

「中国の地方語だよ。あちらの地方訛りは関西弁とフランス語ほど違う。それを文字にするともう……だからここの講師でも読める人がいなくて。中国人の知り合いに和訳を頼んだが、第一声が暗号かときたもんさ」

 そう言って磯山はマグカップをデスクに置いた。そして少年のように意気揚々と喋り出した。

「不思議だろう? 四国の田舎にそんなものがあるなんて。しかも内容が内容なんだ。これは〝犬〟のカムの術式――術を行う方法が書かれているんだよ。君は犬神の術式を知っているかい?」

「犬を拘束して、ぎりぎり届かない距離に餌を置く。餓死寸前に犬の首を切り落として、その首が餌に向かって飛び、生きているように餌を食べたらその頭を焼いて、遺骨を箪笥や軒下に祀る……」

「そう。出回っている術式がそれだ。でもその後は犬の霊が術式を行った者に憑りつくとか、首が憎い相手に噛みつくとか地域によって異なる。

 そこに書かれているのは別格と言っていいね。術者が遺骨を食べ呪文を唱えることによって、犬の霊……いや神様を呼び出せるようになるとある。予言したり、吉凶を占ったり、邪念から守ってくれたり、人を呪い殺すこともできると。そして術者の命を代償にするとも書かれている」

「僕が書いたことと、似ていませんか?」

「そうさ。裏が取れたんだよ。君のレポートでは北海道の土着風習から派生した噂で、仮説の域でしかない。でも誰かさんにとってはそれが犬神の正しい儀式だった。中国に犬神信仰は無い。こうなってくるとレポートを書き直してもっと詳しい説明がほしいね」


 うっ、と雅也は唸った。予期せぬ災いが降り掛かり、これも呪なのかと少し後悔した。


 夏休みまであと二週間をきった。帝都大学は九月に上半期テストがある。まだ成績が決まる段階ではない。だが単位をギリギリでパスした雅也にとっては夏をキャンバスで学問の徒(大里流のしごき、万事屋の仕事付き)として過ごすか、悠悠自適なモラトリアム人間として過ごすか(友人数名およびアキラとの旅行付き)この岐路が迫り、専攻する民俗学のレポートに掛かっていた。

 義務付けられている訳ではないが、長期休み前に磯山にレポートを提出するとフィールドワークと銘打った旅行の誘いが来る。磯山が自腹をきって格安の値段で日本各地を回れるのだ。これに食いつかない学生はいない。(大半は観光目的だが)民俗学に興味のない学生もこぞってレポートを出しにくる。

 

 アキラは今回、見事にその権利を得たという。


――きっと、たつみ姉さんから逃げる口実だ。このままではたつみ姉さんにしごかれ、玲さんにこき使われて夏が終わる。


 毎年毎学期、アキラはこのイベントを無視してきたが、今回はきっちり提出していた。雅也はこの緊急事態を回避するためにレポートを提出した。

 だが書き直せとはイコール〝権利なし〟の判を押されたことになる。うなだれ、背を少し丸めて雅也はため息をついた。


 マナーモードの携帯が揺れる音がする。磯山はデスクにおいてあった己の携帯電話を手に、雅也に言った。

「民俗学は歴史を掘り起こすだけじゃだめだよ。現代社会にどう反映されているかを検討、実証しないと。その資料コピーはあげよう。他人から聞いた話を元にするならネットロアでどのように拡散、改変されているか調べてごらんよ。良いものが書けるさ。じゃ」

 磯山は雅也の返事を待たずに携帯で話し始めた。

 小耳を立てていると、どうやら旅館の部屋状況が変わったらしい。磯山は笑いながら男女の部屋割りを廃止して、大広間に雑魚寝すると提案していた。

「ありがとうございました」蚊のような小さい声で礼を述べ、雅也は足取り重く研究室を出て行こうとした。

 すると磯山が、

「ああ、言い忘れていたけど」と引き留める。雅也が振り返ると、携帯電話を厚い胸板に押し付けた磯山が、先ほどより真剣な顔つきで言った。

「その資料、まだ全てを解読できてないんだ。さっき言った実証っていうのも実際に術をやれって意味じゃないから……新たな発見があればすぐに連絡しなさい。危険かもしれない」

 はい、と雅也は頷いてから研究室を出た。

 


 帝都大学の校舎内はすでに夏を意識しているようだった。教員たちはクールビズ、学生は半袖のTシャツや二分丈パンツ、薄いスカート姿が目立つ。日焼けしたにこやかな顔でお喋りし、特にカップルは校舎内でも腕を組んで歩いていた。窓から梅雨空を眺めているシングルもぼーっとした感じではなく、早く陽が見えるよう願っている風だった。


 廊下を歩きながら、次の講義を受けるか図書館でレポートを書き直すか思案していると、玉緒アキラの姿を見つけた。

 彼女もやはり夏を意識してかショートデニムを履き、本来のサイズより少し大きなTシャツを着て、襟首からアンダーの肩紐が見える服装だった。髪もさっぱりとしており、ヘアワックスでざく切りの毛先を遊ばせている。

 

――毎日会ってるから気づかなかったけど、アキラちゃん、かなり締まってきてる。僕でも辛いあの修業、いや、拷問によく耐えるなあ。


 アキラは廊下の壁を凝視していた。

 驚かそうと雅也は気づかれぬよう歩み寄り、背後から声を掛けようとしたが、

「雅也君、これ見える?」とあっさりすかしを食らった。

 アキラが見ていたのは学生アルバイトの掲示板だった。毎期末、長期休日が近づくと家庭教師、塾講師などの求人広告が学校から張り出されてくる。またボーイスカウト、ガールスカウトの募集や弱小部の助っ人募集まである。

 彼女が見ていたのはそのどれでも無い。雅也にはわかっていた。


『恋愛相談、仕事相談、人生相談、素行調査、万事承り候。

 千客万来。創業六十年、安泰安心、実績上々。磊磊楽楽。

         玉緒万事屋090・XXXXX・XXXXX』


 と、短冊に使うような細長い緑の紙に書かれている。その隣にセロハンテープでもう一枚張られていた。こちらは黄色い紙だった。


佐久弥さくや


 雅也は腕を組んで言った。

「どういうことだろ?」

「きっと、仕事の依頼」

 アキラはそう言って二枚の紙をはがして丸め、パンツのポケットに突っ込んだ。

「よくわかるね。たったあれだけで」

「お姉ちゃんが、本当に悩んでる人にしか見えない術を掛けてるって。紙は念を込めやすいって……ほら、映画であった陰陽道。あれと同じ術式体系らしいの。すごく悩んでると、返信用紙が見えるって。見た事ある?」

「無いね……なんだか、不幸を知せる新聞屋みたいでだな。僕らもそう思われてるのかな」

 頬を掻いて、雅也は「これが仕事の来ない理由かも」と呟く。が、けたたましい携帯の着信音に消された。

 アキラはリノリウムの床に置いたバッグを漁り、年季の入った折り畳み式の携帯電話と、イヤホンのコードを取り出した。

 折り畳み式携帯電話にイヤホンを取り付け、雅也がそれを右耳につけるとアキラが携帯の通話ボタンを押して応答した。

「万事屋です。あなたは?」

「あ、えと。匿名希望で……」

 アキラの声を左耳で聞き、右耳で電話を掛けた主の声を聞きつつ雅也は周囲を見渡す。

 歩きながら電話する学生は多く、とても把握できない。立ち止まって掛けている人間はいなかった。

 アキラが淡々と言う。

「佐久弥さんじゃないならきるから」

「ちょ、まず話を……」


――体は鍛えられたけど、相変わらず不器用というか、口下手というか。


 雅也はペンで己の左掌に文字を書いてアキラに見せる。

『本名を晒すはずない。悪戯かテンパってる。カマかけて』

 それを見たアキラは軽く頷き、掲示板に背を向けて話を始めた。

「どこでこの番号を?」

「大学の掲示板です。何でも相談できるって張り紙が……」

「その紙は何色だった?」

「緑……私のは黄色です、けど」

 アキラが雅也に信憑性を訴えるように目を向ける。

 雅也は右手の親指を立てて見せた。

 彼女はまた頷き、

「これから食堂に来て。私は男の人と冷やしたぬきを食べてるから、そっちはきつねうどんを持って探して」

 そう言ってアキラは返事を待たずに電話を切った。雅也もイヤホンを外し、彼女に手渡す。

「ねぇ、アキラちゃん。もうちょっとスマートにやろうよ。映画みたいにさ」

 バッグに携帯とイヤホンを入れて、アキラはそれを担いで雅也を見た。

 鳶色の瞳が力強く光って、雅也を捉えている。

「映画の真似をしたつもりだけど」

 彼女の迫力に押されながら雅也は言う。

「どんな映画? もしかしてハマった?」

「うん。勉強の意味で観てたら、こう、熱いものがこみ上げて来て……かなり、どっぷり」アキラはそう言って右拳を握った「連作もので、まだ途中まで。昨日観たのは〝極道家業、第十三部・硫黄島はウチのシマ〟――以前出て来た親分の、過去の話。今回は部下に外国の情報を盗ませて、旧日本軍でのし上がっていく。隠れた名作だった。でも私は九部から続く昭和中期の話が好き。だからさっきは十一部の真似。老いた親分が、学生運動をしている若者を説得させるために――」

「熱弁中、ごめん」と雅也が言う「もろもろ含めて、まず参考が現代ビジネスの真逆、いや闇だと思うけど」

「そんなことない。雅也君も観ればきっとわかるから。でも最初からじゃなく、まず四部を観て判断してね。あそこで一つの区切りが――」とアキラの口が止まらなくなった。


 肩をすくませ、雅也は「Vシネマ……完全にたつみ姉さんの趣味だ……プライベートまで干渉するなんて。押しが強くなるわけだ」と呟いた。

 その呟きは学生たちの雑踏に消され、アキラは見どころを語りながら食堂方面へ向かった。


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