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 ◇

 帝都大学の食堂は午前八時から午後九時まで開業している。給仕職員は元有名ホテルのシェフを揃えており、学生だけでなく近隣住民も利用できる。値段と味には定評があった。特に日替わりのA定食、B定食は人気があり、食券の争奪戦もしばしばある。学生たちより先に近隣住民が食べ尽くすこともある。よって、今、雅也とアキラの目の前にある冷やしたぬきなど単品をいち早く購入するのが帝都大学内で飢えをしのぐ最善策といえた。

 二人は食堂の真ん中に陣取り、冷やしたぬきには手を付けず、来客を観察していた。雅也は入り口を、アキラは食事を持って歩く人を――同時に映画の話をして。


 ◇

「――ここまでが四部。次の五部から八部は相手の組、四部で殺された新人が主人公になるの。同じ抗争、立場が違うだけなのに全く違うものに思えて、考えさせられた。ただの任侠映画じゃないから、雅也君も観てね」

 ひとしきり喋り終えたアキラは、のびる前に食べましょう、と提案し観察も中断した。

 雅也は呟く「ネタバレされた作品を観るのは、ちょっとなぁ」と。

 頬杖をつきながら、雅也はアキラの食事を見ていた。

 彼女は左手で割り箸を使い、冷やしたぬきを静かにすすった。汁を飲むときは、割り箸を丼の上に置いてから、両手で丼を持ち、ゆっくり、大きく喉をならして飲み込む。


「依頼主、女の子だよね」と雅也が言う。「僕の出番は無いんじゃないかな」

「どうして?」丼を置き、箸を左手にもつアキラが問うまで、数秒時間が掛かっていた。

「僕が働き出してから、このパターンは恋愛相談か浮気調査が多い。正直なところ、僕に他人の恋愛なんてわからない。ろくな恋愛してないから」

「私だって苦手。でも相談に乗るぐらいはできる。そうと決まったわけでもないし、別の仕事かもしれない。七月はまだ三件しか仕事をこなしてないから雅也君も苦しいでしょう。選ぶ余裕は無いはずです」

「でも、たつみ姉さんから肉体労働は禁止されてるから、僕のやれる事は限られてる。やっぱり詐欺みたいで気が引けるなぁ」

 足音が増えていき入り口を見ると、どんどん生徒らしき同年代の若者たちが入って来るのを見て、雅也は息をついた。

 雅也も割り箸を取り、冷やしたぬきをすする。味は悪くないが、雅也はこの時間帯なら定食を狙えたのに、と悔やんでいた。

「雅也君、前から思ってたんだけど……雅也君は中井一麿を見たんだよね」

 そう言ってアキラは冷やしたぬきに唐辛子を、ざんざんとふりかけていく。その唐辛子は市販のもので、アキラは終えるとバッグに詰めた。

「それマイ唐辛子? 中井はもちろん見たけど?」

 アキラは唐辛子の件についてはうなずき、

「中井は幽体。つまり幽霊とほぼ同じ……なのに戦えた。きっと雅也君は」


「すみません、よろしいですか?」続きを遮るように、アキラの背から声が掛けられ二人はその声の主に顔を向けた。

 明るくブリーチした髪。前髪は眉毛の辺りで切りそろえ、残りはさらっとしたストレート。服装はフリルの付いた白いブラウス、下は赤いロングスカート。湯気が上がる丼をトレイに乗せ、両手は塞がっているものの、地面と直角に立つ姿はどこか気品が見える。

「違っていたらごめんなさい。さっき電話した者です。万事屋さんですか?」

 電話とは打って変わって至極冷静でつっかえることもなく丁寧だった。

「匿名希望の方?」

 アキラの問いに彼女は微笑みを浮かべて頷いた。

 雅也が己の隣に座るよう、促す前に彼女は、アキラの隣に座った。

 トレイをテーブルに置いてから、彼女は自己紹介をした。

「初めまして。ひさし咲弥さやです。一年で、かなり方向音痴で……まだ校舎に馴染めなくって」

「私は玉緒アキラ。彼は大里雅也君。二人とも三年生」

「えっ、こんな大切な時期に、大丈夫ですか?」

「別にかまわない。仕事だから。それに私たちもう就職が決まっているから……ね?」


――え? 僕、まだ考えてもないのに?


 雅也の戸惑いを見透かし、かつ挙動を制するようにアキラが睨みつけて言った。

「私たち玉緒万事屋で働くから……ね?」

「そうなんですか?」

 咲弥のぱっちりとした目が雅也を見つめた。

「……まあ、それもありかなと」

「すごーい! 万事屋なんてそうそうありませんよ? 探偵みたいな仕事もするんですよね? かっこいいなぁ」

 苦笑いを浮かべながら、雅也はアキラを見た。彼女はペンとノートを取り出し、左手でペンを走らせながら右手で箸を操り冷やしたぬきを食べていた。


――アキラちゃんは何かを感じ取っている。任侠映画に染まってるし、僕が聞き役になるか。


「食べながら話しようか。咲弥ちゃんって呼んでいいかな?」

 割り箸を割りながら、はい、と言って咲弥はきつねうどんを食べ始めた。

「まずお金の話から。うちは初めての人で相談だけなら無料。でも行動するなら玲さん――上司の言い値になることが多い。一応基本料金は三万円からなんだけど、場合によってかなり増額する。そっちの方で揉めたく無いから先に言うけど、百万を超える場合もあるから。大丈夫かな?」

「用意します。足りなかったら親に頭下げますので」

「じゃあ後日、店で詳しい話をしよう。案内は僕たちが。契約書にサインしてもらうから、実印を持ってきてね。話だけなら今でも大丈夫。でもプライバシーや個人情報が不安なら、親とか友人、警察や弁護士でもいいから、第三者同伴で店で話するのがおすすめだけれど?」

「大丈夫です。信用できるって友達が言ってて……できるなら、今、相談したいんです」

「うん。どうぞ」

 すると咲弥は辺りをきょろきょろと見渡してから、小声で喋った。

「こんな話、信じてもらえるか不安なんですけど……先輩方は幽霊って信じますか?」

「そりゃあ」と雅也はアキラを見る。彼女は割り箸を丼の上に置き、まだ左手でペンを走らせていた。雅也の視線に気づくなり目を合わせて頷く。

 雅也は口を開いた。

「ケースバイケースかな。僕に霊感は無いけど、アキラちゃんにはあるみたい。その手の依頼に携わったこともある。

 だからといってこの世の不思議は全て霊の仕業だ、なんてアキラちゃんは言わないし、僕も思わない。咲弥ちゃんが決めれば良いだけで、さしたる問題では無いんじゃないかな」

「ですよね……すいません、肝心な部分を言わなくて」

 咲弥は蓮華でうどんの汁をすくって、口に含み、飲んでから説明を始めた。

 その間もアキラは左手のペンを走らせ続けていた。


「私、大学に入るまでずっと箱入り娘だったんです。何もかも親の言いなりで……今年実家を出て一人暮らしを始めました。全部が斬新ですごく楽しかったんです。ご近所の方も優しいし、マンションも居心地がいいし……恋人もできました。片思いですけど」

「そんな中、赤信号が灯った?」

「はい。先月の……ほらテロみたいな集団殺傷事件があったじゃないですか。あの後、隣の部屋に、男の人が引っ越してきたんです」

 雅也の眉間に皺が寄った。

 そして脳裏には中井一麿の姿がよぎり疑問が声になる。

「ハットを被った大男?」

「いいえ。ぽっちゃりした背の低い男の人です。どんぐりみたいな」

「どんぐり……」

 雅也の頭から中井の姿は消え、かわりに首と肩の境がつかない脂肪の塊のような、ずんぐりむっくりした男を思い浮かべていた。

 咲弥は続ける。

「その人の部屋がちょうど角部屋で……あ、ちなみに私の部屋は二十階にあるんですけど」


 ――二十。僕はアパートの二階を間借りしている。単純に考えて彼女の経済力は僕の十倍以上もあるのか。


 日常会話なら嫉妬もするだろうが、雅也は今は仕事の話だと割り切り、声にしなかった。

「そのお隣の人、毎日うるさくって。まるで工事してるような音が――ドリルでこう、ガリガリと穴を開けるような音とか、溶接してるような音が」

「他の住人にも聞こえてた? 大家さんに相談した?」

「もちろんです。三日も続いて、耐えきれなくなって管理人室に押しかけました。すでに他の人が集まってて……そしたら」

 そこで一旦口を噤み、咲弥は唾を飲み込んだ。

「そしたら、管理人さんから『その部屋に住人はいません』って言われて……でも聞こえるんです、毎日毎日」

「ちょっと待った」

 雅也はテーブルに肘をついて、小さな声で言う。

「失礼は承知だけど、咲弥ちゃん、もし過去に通院歴があるなら、信頼できる人を連れて店で話したほうが良いよ」

「大丈夫です。私、ちょっと覗いてみたんです……音の鳴る時間に、ベランダからその人の部屋を……悪戯なら警察を呼ぼうと思って……そしたら」

 冷やしたぬきに手を付けず、雅也は咲弥の言葉を待った。

「部屋が真っ赤だったんです。最初は照明の灯りだと……でも、ベランダのドアが開いて、そこからあの人が出てきたんです。どんぐりみたいな男の人がバケツを持って……その人も真っ赤でした。私の方を見て、にやっと笑って……バケツの中身をベランダにぶちまけたんです」

 一旦、目を伏せて天を仰ぎ咲弥は言った。

「バケツの中身は赤ちゃんでした……頭の潰れた蛙みたいな奇形児……へその緒もついていました。そしてその男は、赤ちゃんを足で踏み潰して〝また失敗だよ、咲弥ちゃん〟って言ったんです……そういう相談なんです、けど……やっぱりダメ、ですよね」


 雅也に返す言葉は見つからなかった。まず咲弥の話を自分が体験するのは無理だと感じ、何が問題なのかを考える。


「この人物に心当たりはある?」

 アキラが先ほどから書いていたノートを咲弥に見せる。それを見るなり咲弥の顔が恐怖ではなく、いぶかしげな表情を作った。

 

 視線が合った咲弥とアキラ。

 しかしアキラはすぐ視線を逸らす。ほんの少し、咲弥の右肩へ視線を移して言った。

「私にはあなたの右にこの顔が見える。雅也君は見えないみたい」


「なるほど」と咲弥「さすが玲の妹。試合とは言え、中井を破った噂は本当らしい。その気になれば父親の――」

 するとアキラは遮るように強く言う。

「あれは奉納のための演舞みたいなものだった。しかも運とか目に見えない多くの要素が味方していた。彼だって手を抜いていたし、覚えてないはず。言いふらしても私が恥をかく」

「多くの武術と舞踊は密接な関係がある。下手な謙遜は嫌味になるぞ。玲や中井はそういうところが無いぶん、ひねくれてる。仙道としてみれば尊敬できるがね」


 正に豹変した咲弥に、雅也は少し、驚きつつ、聞き役から傍観に回った。

 やはり自分の出番では無いと感じて、アキラと咲弥の会話を聞く。


「……きっとヒカルちゃんが悪く育つと、あなたみたいになるのでしょうね」とアキラが言う「でもその体は赤の他人ものでしょう? 大陸からわざわざ魂だけで来日した目的は?」

「色々ある。一番は中井だ。やつを探したいが、しかし大里流にも興味があるな。まさか『シャンハイ・パオペイ』の副産物――」

「その呼び方は止めなさいっ、吐き気がするっ!」

 アキラは怒声を上げ、同時にテーブルを叩いた。他の学生の視線が集まり、雅也は

席を立つ。

「え、演劇の練習中です。このように玉緒万事屋は何でもやりますので、ごひいきに。今ならサマーセールで、三割引きで請けますから――」と、人払いを始めた。

 その間も言い争う二人。

「ヒカルちゃんは人間。でもあんな非道なこと、人のすることじゃないっ」

「それは、遠回しな私への自己否定の強要か? そっちは後回しだ。まず玲に会わせてもらおう」

「それが人間に頼む態度? さっきの失言を謝罪し咲弥ちゃんから出てくるなら案内してもいい。けど、しないなら――」

 アキラは拳をつくり、席から立ち咲弥を見下ろす。

 咲弥は鼻で笑い、

「ここは食堂だろう? 大声を上げたり、まして暴力行為など野生の獣でもやらない。だが、嫌なら無理矢理でも案内してもらおう」と言って、アキラと雅也に、座れ、と言う。

 アキラは座らない。

 雅也は弁解を終えてから、着席した。咲弥の視線が向く。

「おまえ、中途半端な大里の――いや、本当は違うのか。複雑な血統だな」

 雅也は、疑問が多すぎて声に出せず己の顔を指さす。

 咲弥は口元を緩めて笑った。金色の前髪を右手で払い、言う。

「ついでに中井の魂も混ざっている……これ以上、中井に聞かれると面倒だ。眠って、玲のところまで案内しろ」

 咲弥の耳には、大きなイヤリングがあった。


 それがリン、と鳴る――雅也には確かにその甲高い音が聞こえた。

 食堂の喧騒など一切が消え、イヤリングの音、視界に写る風景だけ知覚できた。

 体は勝手に動き、それに抗う意識すら雅也には無かった。


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