2
◇
雅也は最初、妙な都市伝説の類だと思っていた。この、時間軸も手間もめちゃくちゃなネット求人サイトを閲覧し、帝都大学の誰に言っても信じてもらえなかった。雅也自身、信じていなかったのだから冗談として話したが、たった一人だけ、この話を信じた者がいた。
姪であった。
雅也が夏休みに帰省したさい、この話をすると「手の込んだ結界ですね」と信じてしまった。
そして「雅也さん、そのお店はきっと素敵なところでございます。千年の都に匹敵するほどの華やで、カゲロウの命ほど儚い。足を運べるならば、私は嬉々として向かうでしょう」
「そんなもんかなぁ」当時の雅也は返事した。
姪は夢見がちな少女ではあった。しかし作り話とそうでないもの、つまり全くのデタラメと真実を見分ける力があった。そうでなければ一高校生として痛々しく、友達に恵まれなかっただろう。
姪は友達が多く、地元で知らない者はいないほどの人気者だった。病弱ではあったが、体調が良いときは活発に年頃の遊びをし、恋をし、失恋をし、友に励まされ、また友を励まして――なんてことのない普通の女子高校生として生ている。そう感じないのは、雅也が家にいる姪しか見たことがないせいだった。
その姪の言葉を信じ、実践したら来れてしまった。決して高級ではないけれど、車に乗せてもらい玉緒万事屋の門を初めてくぐった――二年前の話。
雅也とアキラはいつもの順序をふんで、車に乗せられ万事屋まで送迎された。運転してくれるのは毎回同じ人。声をかけても返事をせず、ただニコニコと笑っている(ように見える)初老の運転手は車を路肩に停めた。時間は、帝都大学の最寄り駅を降りてから三十分ほどしか経っていない。
――さて。今日はどんな客なんだろう。
車から降り、雅也はそっと首に触れてみた。失神させれた後遺症や痛みは無かった。
――多少激しい運動でも耐えられるか。しかし、ここのどこが千年の都に匹敵するんだ? ただの二階建て住宅じゃないか。庭なし、車庫なし。閑静な住宅街にある一件としか見えない。築十年ぐらい。カゲロウの命のように儚い? 三日で潰れたら大問題だ。あと三十年はもってくれないと日本の建築士の威信が崩れてしまう。
そんなことを考えながら玄関の前、庇の下で雨露を払っていると突如、扉が開いた。
現れたのは黒いコートにハットを被った巨漢だった。身長百七十五センチの雅也が顎を上げてしまうのだから、男の身長は二メートルぐらいあるだろう。
じろり、と男の目が雅也を見る。曇天の薄暗い外界とハットの影が相まって、顔がよく認識できず、何より瞳の色が暗い穴のようでそちらに気を取られた。
男は無言のまま、雅也を見つめていた。
「お客様ですか? 僕はここで働いている大里雅也と申します」
自己紹介しながら、ポケットを探る。名刺を取り出して男に差し出したが、男は受け取ろうとしなかった。
「彼女は同じくここの……」
雅也の隣に立つアキラを紹介するが、男は無言のまま雅也を見つめていた。
「……」
「……」
決して広くない庇の下で三人は黙って、身動きすらしない。
「……」
「……」
「……」
「……シンタが揺れた」と男がぼそりと呟いた。
その声は雅也の胸をえぐるようだった。思わず目を背け、雅也は名刺を握り潰してしまった。
「そこの
「冗談じゃない」と雅也は声を強くした。
すると男は何かを呟いてから、ゆっくりと庇の下から出て行った。
男の足音が消えた後も立ち尽くす雅也に、アキラが声をかける。
「彼、人を殺してる……去り際、私たちに
「塩でもかけるかい」
皮肉っぽく雅也が言うとアキラは首を振った。
「いらない。私たちのカムイのほうが強い。あっちもそれをわかって、軽い呪をかけた。
「子供みたいだね。何をしたいんだろ?」
「喧嘩売ってるだけ。気にするだけ損よ」
アキラはそう言うと玄関の扉を開けた。
◇
外装が一般住宅の玉緒万事屋。中も大した変りはない。ニスで光るフローリングの廊下。リビングには大型テレビを囲む三つの白いソファ、壁は書棚となっている。
玉緒
――相当、怒っている。
「来ました」と雅也は八つ当たりされるのを覚悟して声をかける。
玲は「おう」と返事したが振り返りもしない。雅也はゆっくりとソファに歩み、腰を降ろす。
怒りは落ちなかった。玲は目をふせてソファに身を委ねたまま、言葉を発しない。時間が過ぎる。
「アキラは?」
やっとでた言葉は妹のことだった。
「着替えてくると……いつもの着物に」
「お前から言ってやれ。せめて振袖にしろって」と、そこで玲の瞼が上がり、瞳は雅也を捉えた。
「あたしの言うことなんか聞きやしない。特にファッション。あたしがダサいからか?」
彼女は白いブラウスに黒のパンプス。両手首に金色のリングをつけ、耳にピアスをつけている。
「普通ですよ」雅也が言う。
「おまえ、モテないだろ」
ぐさりと胸に突き刺さるようだった。こらえて雅也は苦笑いをして言う。
「故郷に操を立てた人がいますから」
「こういう話知ってるか? 男は筋力と生殖能力が極めて進化している。一方、女は感性が突出して進化した。その理由についてだ」
玲は立ち上がってキッチンに向かう。
雅也が返事をあぐねていると、給湯ポッドのスイッチを入れる音がする。そして水が沸騰し始める音。
玲の声がそれに混じった。
「女の感性は種を存続させる重要なファクター。子作りにはまず女の同意が必要だろう? お前がいくら頭を下げ、拝み倒してもあたしが首を横に振れば子供は作れない。基本、決定するのは女であり、促すのが感性なんだ。
容姿、言葉使い、雰囲気……意識せずとも女はそれらを感知、頼りにして性的営みの相手を決める。恋愛感情はその副産物にすぎないんだとさ」
「何の話ですか?」
「今回の仕事の前口上」と玲は声を強くした。
「一昔前、このような話をするのは男だけだった。女に学は必要無しとされ、意見を述べることも許されなかった。
そんな時代を疎ましく思った女たちは男社会を断罪するため、改革を進め社会的地位を掴み取った。おまえより頭のいい女が大勢いるのはそのおかげだ」
雅也はこめかみを押さえ、目をつむった。思考するものの理解に苦しみ、玲の声はさらに続く。
「女の感性は性的なことばかりに働くわけじゃない。ビジネスにだって反映されている。女の購買意欲を駆り立てるよう宣伝するのは当たり前。作り手や営業に女を使うのも効果的……おい、聞いてるか!」
キッチンの方からついに怒声が上がった。
「聞いてます。男の存在価値は廃れてきている。子供をつくるという最大の仕事が奪われつつあるから――読んだことがありますよ」
雅也は目を開けてキッチンの方に顔だけ向ける。玲の姿は見えないものの、何かを探っている音がかすかに聞こえた。
「男性の生殖機能低下より、女性が性的営みを求めないことが大きい。育児に対する不安を払拭するために社会へ進出したはずなのに女性自ら経済的、社会的に出産と育児が不利だという状況を証明してしまった……とか何とか」
「〝養われるということ‴ M・J・パーソンの著書だな。ずいぶんマニアックだが、読んだのか」
玲の声が途切れ途切れになった。
「読めって言ったのは玲さんじゃないですか。でもあれは破綻してませんか?」
「ど・こ・が?」
彼女は話とは別なことに力を入れているようだった。
「手伝いましょうか?」
「いい。続けろ」
「最初からですよ。男性の労働を女性が行うのは無理がある。デスクワークでも一年周期でみると男性の方が安定してるんですよ?
日本では内需の功とか、男子厨房に立つべからずという言葉がありますよね。女性は自身の場を与えられていたし、役割もわかっていたと思うんですよ。女性がそれを差別と捉え、改革運動を起こしたのは事実ですし、当然の流れだったと思います。でも世の中の女性、全てが男性に取って代わろうと画策していたわけではないし、今も昔も相応の待遇を得られて満足している人だって少なくないはず」
ふう、と玲が息をつく。キッチンでの仕事は一段落ついたようだった。
「おまえの言いたいことはわかる。書物は現実の模倣。真に受け論じていると実生活に支障をきたす」
「そうですよ。早く仕事の本題に移ってください」
「もうちょっとだけ」
ピー、と給湯ポッドが沸騰の音を上げた。玲はぱたぱたと歩きながら、ようやく仕事の話を始める。
「女の感性は、つきつめると脳の一部分の肥大化だ。すると千里眼まではいかなくとも、近い能力が芽生えたのさ。相手の風貌、匂い、表情、言動など五感を全て使い
「何ですか、論理飛躍って」
「閃き。あたしは直面した問題を解くだけではなく、突然湧いた仮説を立証する行為も同じとしているが。
例えば彼女とデート中、突然、浮気したと言われて問答が始まる。やがて彼女に矛盾点を片っ端から指摘されて、動揺していると別れ話になってしまった。なんておまえにも身に覚えが……」
湯気の立つマグカップを持ち、リビングへ戻って来た玲。雅也を見下ろす格好で止まった。
「あるわけないか」
またも胸に刺さる言葉を吐かれて、雅也は反論するのが面倒くさくなった。マグカップを受け取り、コーヒーをゆっくり啜った。
「論理飛躍は男にもある。発明家などクリエイティブな職業に多い。そして口論、喧嘩、事件にまで発展する場合もある。それらを踏まえると閃きなんて安っぽい言葉では足りないだろ」
玲も先まで座っていたソファに再び身を委ねてゆっくりとコーヒーを飲む。少し落ち着いたように、雅也は、彼女が微笑みを浮かべるを見た。
「合理的な女性だっていますよ。逆に感覚的な男性も」
「合理的か感覚的か、この二択は女にだけ許された選択だよ。男が感覚的であったなら、また合理的であったなら必ず社会的な制裁を受ける。程度はそいつの権力で決まるが。
世相を読み、無難な言動ばかりの政治家もいれば、反感をかってまで我を通す政治家もいる。そこで女が、やれ無能だ、エゴイストだと訴えたなら世論を味方に付けやすい。
世論。この不可視なものを動かすのに力など必要無い時代なのさ。ほんの少しの言葉や行動で揺さぶることができる……するとだ。現代の社会は呪の幇助装置を含んでいると思わないか」
「それは極論です。でも……セクハラ、パワハラ、モラハラとか比較的新しい単語は女性寄りですね。男性を打ち負かす強力な武器になります」
「だろ? 言霊という最も古い呪を誰もが使えて、効き目は抜群。そういう時代なんだ……さて、仕事の内容だが今回は女の監視をしてもらう。ずば抜けて勘の良い、猛禽類のような女だ。気づかれたら死ぬと思え」
「急に……女性の論理飛躍って怖いなぁ」
雅也は記憶を手繰って、玄関で出会った男を思い出す。大里家を知った風で呪詛を吐いた大男。
――あんな奴が女性を監視とは。ストーカーの類だろうか。
雅也の考えを見透かしたように、玲は言った。
「
玲の口元が笑っていた。雅也は頭痛を覚えながら尋ねる。
「羽振りが良いんですか?」
「馬、船、自転車、銀玉、牌、札。博打でも喧嘩でも、無敗神話を更新中だ。あいつのカムイは未来が見える、なんて噂もある。でも盛者必衰が世の常。身を亡ぼす前に貰えるものは貰っておく」
とん、とん、とん……階段を降りてくるアキラの足音が聞こえてくる。雅也は相変わらず湯気が立つコーヒーを一口啜って、言った。
「具体的に何をすればいいんですか? 犯罪行為は嫌ですよ」
「一日一枚、相手の写真を撮り、その日の行動をレポートにして提出する。それを三日続けろ」
――ストーカー代行か。犯罪だ。
雅也はうんざりしながらも確認を続ける。
「依頼者の目的は何でしょう?」
「カムイの実験ってとこだろう」
「実験って……下手すれば命に係わるじゃないですか。その相手はどこの誰なんです? 耐性が無い人間だったら僕はこの仕事、やりません」
「わかってるわかってる。あたしを誰だと思ってる。シンタがあり、おまえもあたしも監視しやすい人物を紹介して、きちんと了承させたよ」
――まさか、この人。
雅也の顔が強張っていく。
「監視するのは、うちのアキラちゃん。手を出したらお仕置きしちゃうぞ?」
突如、声を豹変させたた玲は、舌をペロッと出して微笑んだ。
――笑えない。全く笑えない。
雅也の頭痛がひどくなった。
「なんだその顔は。茶目っ気を出してやったのに」
しかめっ面になった玲が雅也を睨んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます