六月下旬。細かな雨が降っていた。


 帝都大学で講義を受けていた大里おおざと雅也まさやは、走らせていたペンを止めて視線を宙に向けた。

 前列に座る学生も、ホワイトボードに向かう講師も視界に収まっていたのだが、雅也の思考には入ってこない。

〝昼を下ると雨が降ります。お体を大切になさって‴

 この言葉に雅也の思考が傾いていた。これは雅也の姪――といっても雅也とは十も離れていない歳――が今朝方、それだけのために電話をかけてきた。


 雅也の住んでいるのは東京だが、姪は関西に住んでいる。今やネットの天気予報で全国の天気を知るのは容易い。

 雅也は電話でのやり取りを思い返す。

 

 朝食を買うためにコンビニに入ったころ、雅也の携帯電話が鳴ったのだ。

「ゲリラ豪雨かい?」と雅也が返すと、姪は「いいえ、それほどひどくはありません。傘をお持ちではないのでしょう、売り切れる前に買ってください」と言った。

 雅也は「ビニール傘は売り切れ易いし、ありがとう」と言って電話をきった。

 このやりとりが今になって不思議に思えて来た。姪の予報通り午後の講義前から降り始めており、同級生らが雅也の持つ新品のビニール傘を見て、準備がいいねと女生徒から感心され、五百円で売ってくれ男子生徒から拝まれ、傘一本で少しの優越感が味わえた。


 ――礼を言っておこう。しかし、体を大切にとはどういうことだろう。雨に濡れて風邪をひくなってことかな。


 雅也は意識を講義に戻した。講師はボードに書いた人物の論説を解説していた。


 ◇

 長く濃密な講義が終わった。

 生徒たちは会話をしたり、帰り支度を始めた。

 雅也はノートを読み直し、要所要所に蛍光ペンで印をつけていく。

「よっ。何やってんの」

 雅也の肩を叩き、男子生徒が雅也のノートを覗き込んだ。そして「すげぇな」と漏らす。

「大里、速記とかやってた? ながーい話、全部書いちまって」

「ストックが多いとレポートもはかどるだろ」

「俺にとっちゃ民俗学なんて子守歌……それより」

 男子生徒は小声になって周囲を見渡した。雅也はノートを閉じて、腰を浮かし左に席を移す。座れるスペースを確保したことを告げるために、椅子を叩いた。

 素早く彼は座るなり、雅也に尋ねた。

「頼んだ仕事、どうなった?」

「うん」と言って雅也はポケットから一枚の紙を取り出した。雅也はそれを渡そうとしたが、急に喉の水分が失われ背筋に悪寒が走った。

「どうした? 顔色が悪いぞ」

「ん……かなり、いや、もの凄く大変だった……」

 周囲の声より、雅也は自分の唾を飲み込む音が大きく感じられた。

「それで?」

 せっつくように言う男子生徒の顔も、強張っている。

 雅也は息をつき、絞り出すように言った。

「君の今後が心配なんだ。僕はね、世の中には知らない方が良い事だってあるんじゃないかと思う」

「大里、わかるだろ? 俺たちは男だ。やると決めたらやらなきゃいけない。お前は俺の頼みに応えてくれた。ならこの先は俺自身の問題だ。違うか?」

 雅也はうつむき、再びポケットから紙を取り出し男子生徒に渡した。受け取った男子生徒はそれをゆっくりと黙読する。

 雅也はぽつりぽつりと暗記していた内容を喋った。

玉緒たまおれい……下町で万事屋を経営している。誕生日不明、年齢不明。趣味は骨董品収集。交友関係は広く、特に男関係は不明」

「なあ大里。住所が〝玉緒万事屋‴になってるんだが。あと電話番号も店のものみたいだが?」

「店舗兼住居らしいよ」

「なあ大里。お前、バイトしてたよな? 確か〝なんでも屋〟で」

 雅也は返事せずに立ち上がって、男子学生に背を向ける。右手にバッグ、左手に傘を持っていた。

「さいなら!」

「待て、こら」

 歩き出す前に肩を掴まれ、雅也は苦笑いを浮かべる。

 振り返ることはしなかった。呪詛めいた声が聞こえる。

「俺が依頼したのは〝お前が合コンに連れて来た女のプロフィールと連絡先を教えろ〟だ……これ、ただの求人広告じゃねぇか」

 雅也は咳払いして、

「今は人手が足りてるから求人はしてないよ。でもそれがあれば、玲さんに会えるだろ。ちなみにあの時は、連れて来たんじゃなくて勝手について来ただけ」

 すると雅也の後頭部を叩き、男子学生がぶっきらぼうに言った。

「メアドとかケータイ番号とかスリーサイズの情報は?」

「セクハラ覚悟で聞いてみた。すると無言で胸倉掴まれて……目が怖いんだ、あの人」

 すると雅也の首を締め上げて男子生徒は叫んだ。

「つまり失敗してんじゃねぇか! 前金返せコラァ!」

 学び舎が一瞬にしてプロレスのリングになった。周囲の学生たちは雅也たちを避ける者もいれば、もっとやれとはやし立てる者もいる。

〝お体を大切に‴

 雅也の脳裏に姪の言葉が蘇った。〝雨が降る‴こととは全く関係ないが、ちょっとした事件だと雅也は気づく。

 酸欠のため緩やかに雅也の意識が遠のいていく。やがて睡魔に似た感覚が雅也の視界、意識を断ち切った。


 ◇

 雅也が意識を失っていたのは三分ほどだった。その間に加害者である男子生徒はサークル活動へ向かった――これらは雅也の頬を叩き、意識を現実へ戻してくれた女子生徒から聞いたことである。

「彼、柔道の黒帯ですって」

 校舎から校門に向かって滑らかな弧を描く道。雨は弱弱しく、女子生徒の小さな声をかき消すほどもない。

「上手く落としてくれたみたい。私の張り手で起きたから。一般人ならどうなっていたことか」

「その時は慰謝料を取るから、いいけどね……」

 そう言う雅也は傘を持っておらず、頭や肩が濡れ、服から素肌まで徐々に雨に浸食されていた。

 朝に買ったビニール傘はこの女子生徒に、口止め料として受け取ってもらった。

 彼女はあってもなくても、お構いなしの性格であると雅也は知っていたが、同時に嘘をつけないことも知っていた。

「良くない」彼女が雅也の方を向く。

 じっと雅也を見つめる鳶色の瞳。華奢な体と静かな声からは伺えない〝強さ〟が宿っていた。

 雅也が目を逸らさずにいられたのは、彼女の背が低いことと、彼女がやせぎすであったからだ。そうでなければ頭を濡れた地面に何度も叩き付けていただろう。

「お姉ちゃんのこと詮索しないでって約束したはずです」

「はい」

「自分の体を大事にしてって約束もしたはずです」

「ごもっともです」

「もう一回、約束」

 雅也に向かって出せれた左手。小指以外は傘を握っていた。

 彼女――玉緒アキラの小指を雅也は自分の右手小指で握った。

「指切りげんまん――」と雅也。

「今度、嘘ついたら仕事を四件もらってくる――」

 雅也は小さく「リアルなペナルティだ」とぼやくとアキラの目が睨み返してきた。雅也は息をついて、

「指きった!」

 同時に雅也はアキラの傘の中に潜り込んだ。彼女の首の高さに雅也の顔がある。彼女はそれを嫌がる言葉を出さずにゆっくりと歩いた。

「今日、仕事が入ってる」とアキラ。

「よかったぁ。今月ピンチでね。これ以上、悪行をしたくないから」

 涙を拭うフリをして雅也は言う。

「ケータイ止めようかと思案してたんだ。ホント助かった。で、どんな仕事?」

「さあ……お姉ちゃん、機嫌が悪かったから。多分……」

 アキラは口を噤んだ。

 雅也はその、噤まれた口を見て「ああ」と視線を前に向ける。

 

 人間の姿より、黒ずんだ地面の方がよく見える――今回の仕事もこんな感じだろう。誰もが歩く道ではあるけれど、どこかずれた視点で見なければ発見できない。視界にも耳にも入ってこないような、些細で、奇妙で、好きな人なら好んで飛び込み出てこない。


 そんな世界に係る仕事であると雅也は考えていた。

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