第35話 彼と彼女の母親
暗く静かな屋内。
非常灯の明かりだけを頼りに、暗い廊下を五分ほど歩く。
すると、薄緑色の明かりは消えて昼白色の明かりが受付からこぼれていた。
受付の近くには大きなロビーがある。
おそらく二百人以上は座れるであろう椅子の数々。
だが、今は誰も座ってはいない。――ひとりの女性を除いて。
自分は女性の存在に気づき足を止める。
するとナース服を着た女性が立ち上がり、こちらを振り向いた。
「……」
女性は頭を深く下げる。俺もそれに習い頭を深く下げた。
……
顔を上げ、そして女性を見る。
スラッとしたモデルのような体型。そして長い髪、白い肌、街を歩いていたら振り向いてしまう風貌。
その姿を見たとき胸を焦がすような感情がわきあがる。自分の感情を強く揺さぶる女性の正体は、
「娘がお世話になっております」
彼女の母親というだけあって、その風貌はとても似ていた。
しかし、大きく違う点がある。それは雰囲気の違いだ。白月は蠱惑的で鋭さを感じさせる雰囲気を持ち合わせている。だが彼女の母親からは寛容的で穏やかな雰囲気を感じた。
……だからこそ思う。どうして彼女が家出をするまでの事態になってしまったのか。
そう考えていたら、彼女の母親から「こちらへどうぞ」と声をかけられる。
俺はその声に従って母親の元まで歩いていく。そして母親との距離があと少し――椅子いっこぶんの距離まで近づいたところで止まり、
「本日はお忙しい中、お時間を頂きありがとうございます」
株式会社――営業一課の
と挨拶をしたあとに、名刺を渡した。
「ご丁寧にありがとうございます。県立総合病院で看護師長を務めさせて頂いております――」
彼女の母親――白月さんはそう言ってまた深く頭を下げる。
すると、前で結った髪がさらりと動いた。その動きを見送ったあと、話を本題に移す。
「お時間をとって頂いた理由についてなのですが」
俺はそう言ったあと一呼吸を置く。
そして話を再開しようとしたところで、
「娘の、
白月さんがそう聞いてきた。
予想外の言葉に光のない方へ顔をそらす。動揺を見せないためにも。そのあと俺は心を落ち着けながら「元気ですよ」と答えた。
すると白月さんは「そうですか。安心しました」と穏やかな笑顔で言う。
だが、彼女の穏やかな笑顔とは対照的に、自分の心は困惑に満ちていた。
白月さんにアポイントを取ったのは今日の昼過ぎだ。
勤め先である病院を経由して、直接電話で本人と会話をした。
……経由するまでに「白月さんとは昔からの知己なんです~」とか「仕事のお話をしたいため、公式的な連絡手段を用いました(彼女の母親の連絡先なんて知らないし)」とかがあったかもしれないけど、気のせいだろう。
なにはともあれ白月さんと直接電話で話をした。
その時に話した内容は『会社名・名前』それと『用件』のみだ。
用件といっても白月のことは一切触れていない。
だから驚いた。
白月さんが娘の様子を聞いてきたことに。
そしてなによりも驚いた、いや困惑したのは、その態度だ。
娘に変な虫がついているかもしれないのに、なぜそんなに穏やかな笑顔を浮かべていられるんだ……
「理沙さんがいまどちらにいるのかご存じ、ですよね」
俺は言葉を詰まらせながらたずねる。
この質問は、白月さんが俺と白月の関係・事情を理解しているかを確かめるためのものだ。
……いまの質問をしたことによってもう引き返す道はなくなったな。
「ええ」
白月さんは首を縦に振ったあとに答える。
そのあと「お疲れでしょう。椅子に座りませんか?」と聞かれ、俺は椅子に腰掛けた。
そして白月さんも椅子に座ったところで彼女はゆっくりと喋り始める。
「メールでは友達のところに泊まっていると聞いてはおります」
ですが、と言葉を続ける。
「想像をするに中村さんのところにいるのでしょう」
あの子が一週間以上、友達の家に泊まり続けるとは思えませんから。
白月さんはそう言って苦笑いをする。
「その通りです。なら、わかっているのなら、どうして娘さんのことを心配ならさらないんですか」
言葉に若干の怒りを込めた。
だが、白月さんは穏やかな表情をしたまま口を開く。
「理沙を信じていますから」
信じてる……?
信じてるって、なにを信じているんだ。彼女はまだ高校生だぞ。
間違えることだって多くある。なにより……
そう考えていたところで、
「理沙の“行動”を信じていますから」
白月さんは言葉を重ねた。
まるで俺の考えを読むかのように。
「行動を信じている、ですか。だったら彼女がなにをしていたかご存知なんですか」
「存じていません。ですが、あの子にとって必要な行動だと信じています」
白月さんはそうハッキリと言った。
そしてどこかで見覚えのある意志の強い瞳を俺に向ける。
……きっと娘を信じているのは本当なんだろう。だが、白月の全てを理解しているわけじゃない。なにより、彼女がどういう気持ちで家出をしたのかまでは知らないはずだ。
だから、俺はあの夜の言葉をぶつける。彼女がやっとの想いで言えた『親とどうありたいのか、親にどうして欲しいのか』その答えを――
俺は向けられた視線に怯まない。
ここで彼女の言葉を曲げるわけにはいかないから。
……
静かな病院のロビー。
虫の音一つしない館内で俺は腹から声を出す。
「……理沙さんはこう言ってましたよ。親ともっと一緒にいたいって。
でも、忙しいのはわかってる。だから、年末年始ぐらいは家族みんなで一緒にいたい。約束を守って欲しかったって。……寂しそうに、苦しそうに、言ってましたよ。お忙しいのはわかりますが――」
更に言葉を続けようとする。
だが、その先の言葉はあえて言わなかった。
なぜなら俺はあくまでメッセンジャーに過ぎない。自分の言葉を盛り込んでしまったら、きっと意味がなくなる。
……彼女の気持ちを正確に伝えることが一番大切なはずだ。
沈黙が続く。
白月さんは優しげな瞳を閉じて、なにかを考えている。
俺はそれを黙って見守っていた。彼女の気持ちが少しでも伝わってほしいと思いながら。
そこから更に数分間の沈黙のあと。
白月さんは静かに口を開き「理沙がそんなことを」と言った。
そしてそのまま、
「母親、失格ですね」
表情を落としながら耳に残る声色で言った
「それは……大げさでしょう」
俺がそうつぶやくと、白月さんは首を横に振る。
そしてそのまま言葉を吐き出す。
「私は仕事が好きです。看護師という仕事に誇りを持っています。夫と結びついた切っ掛けもこの仕事をしていたからこそでした。……結婚する前も、結婚をした後も、仕事への情熱は消えていません。娘や息子を産んでもなお、です」
だから、と彼女は言葉を続ける。
俺はそれを黙って聞き続けていく。
「娘が中学に上がったころにはまた仕事に復帰しました。復帰して、緊急の呼び出しなどがあって、娘や息子とは顔を合わせる機会はもう……あの頃からめっきりと減りました。寂しい、申し訳ないと感じましたよ。それでも仕事への想いは尽きませんでした」
母親に向いていないのでしょう。
自分の想いを抑えられないのですから。
「……娘さんたちのことはどうおもっているのですか」
「愛しています」
ただ、
「それと同等に仕事も愛しているのです。……血は争えませんね。仕事に熱中をする母を見て、そうはなりたくないと思っていたはずなのですが」
そつなくこなす娘に甘えてしまった情けない親です。
白月さんはそう言って瞼を落とす。まるでこれからの全てを“諦める”かのように。
……この人が自分に酔っているなんて思わない。でもムカついた。だから問いかける。白月のために、自分のために!
「娘さんのことをどう想って、いらっしゃるんですか!」
俺は立ち上がって問いかける。
母親の気持ちを心底から確かめるために。
「愛しています」
あの。
母親は眉をひそめながら、いぶかしむ。
だが、止まらない。こいつなにやってるんだって視線を受けても問い続ける!
「娘さんのことをどう想っていらっしゃるんですかっ!」
「あの、ですから愛していますと……」
「本当は理沙さんのことをどう想っているんですか!! 俺は彼女が大好きですよ!」
病院にふさわしくない雄叫びが響き渡る。
もうメッセンジャーとかどうでもいい。俺が唯一心配しているのは病院を出禁にならないかどうかだ。
家の近辺にある総合病院はここぐらいしかないんだぞ! 出禁になったらどうしてくれる!!
そんな想いを込めながら白月さんに叫び、問いかけ続ける。
それを何度か繰り返しているうちに、
「私の方が娘を愛しています!」
白月さんも立ち上がり、叫び始めた。
よしっきた! さっきまでの落ち着きはとっぱられわれた。
ちょっとそのギャップにクラリと来たものがあるけど、気にしない!
次へ次へと話を進めていく。
「でしょうね! そしてその気持ちは娘さんも同じなはずです。だって、いまだにあなたから貰ったペンダントを大切にしているんですよ! あれ何年ものですか!? 正直大人びた彼女には似合いませんよ!」
「十年ものですもの! いまの理沙には似合わないかもしれません。……でも、まだ付けてくれていたんですね。私は、気づけませんでした」
娘の
そう言って白月さんはテンションを落としていく。
いかん!
ここで気持ちが冷静になると、約束を取り付けるのが難しくなる。
俺は白月さんに考える間を与えないよう話を進めていく。……まるで詐欺師の手法だ。いや、白月のためなら詐欺師だろうがなんだろうがかまわん!
少しだけ声のボリュームを落として、ささやくようにたずねる。
「土曜、日曜の間にお時間を作れますか。娘さんの気持ちを直接聞いあげてください。自分も立ち会いますから」
俺はそう言ったあと、自身の可愛らしい腕時計に視線を向ける。
時刻はもう朝の0時を回っていた。もう土曜日だ。
……
ほんの少しの沈黙。
そのあとに白月さんはナース服の裾を整え、口を開いた。
「よろしく、お願いします。時間は必ず作りますから」
白月さんは頭を下げる。
この人の信念の強さを感じさせるような――深く、整ったお辞儀だ。
俺はそれを見て、白月の親は間違いなくこの人だと確信した――――
……
…………
春の匂いがする。
匂いにつられて近くの土壌に視線を向けた。
すると、そこには雪が微かに残っている。
俺は足を動かす。
そしてコンクリート地面の先にある土壌へ、もう一度視線を向ける。
そこには土と雪と、それに花が咲いていた。雪を頭の上にちょこんと載せた花は愛らしかった。
空を見上げる。
輝く太陽、雲ひとつない青空が広がっていた。
いや、それだけじゃない。うっすらと透き通るような月も顔を見せている。
今日は最高の一日になるに違いない。
そう予感していたら、大好きな――ひと月ぶりに聞く――声が聞こえてきた。
「おまたせ。お兄さん」
花にも勝る愛らしい声。
それを久々に生で聞いたものだから、逝った。
……間違えた。感動ですぐには声が出てこなかった。
「ふぅ」
俺は腹から空気を吐き出す。
そのあとに新鮮な空気を肺にたくさん取り込む。
そして振り向いた――!
「おはよう! 白月!」
最高の笑顔、最大の声量で彼女を出迎える。
彼女はそれを見て、少し驚いたあとに笑顔を浮かべてくれた。
俺たちはお互いに笑顔を浮かべながら、遊園地の入口へと一緒に歩いていく。
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