第26話 彼と家族

 白い浴槽に体を沈める。

 入浴剤の心地よい香り、それと効能が俺の体を癒していく。

 やっぱり入浴剤と言ったらこの緑色のやつだな。なんていうのかは知らないけど。


「ふぅ」


 久々のお風呂は気持ちいい。

 一人暮らしを始めてからというもの、シャワーだけで済ませてばっかりだ。

 夜、仕事が終わってから浴槽の掃除するなんて面倒臭くて叶わん。休日の朝も同様。昼も同様である。

 

 多くのサラリーマンも似たような感じに違いないと思いながら、浴室を見回す。


「ひのきかぁ」


 ハーフバスとかいうオシャレな作り。

 父さんが珍しくこだわりを見せたと言われる部分だ。

 ……ぶっちゃっけ入浴剤の匂いでひのきの匂いは感じられないが、見た目はいい。こだわっただけはある。


「この浴槽も小さくなったよな」


 パシャパシャと足先を軽くパタつかせる。

 中学の時は伸び伸びと全身で浸かっていたのにな。今じゃあ膝を少し曲げないと入れない。

 でも、それは自分の体が大きくなった証拠だから! ……年老いたらまた伸び伸びと浸かることができるのだろうか。それは悲しいような、嬉しいような。

いや、老人になったとしても俺は今の身長を維持してみせる……!


 心の中で密かに決意を固めていると、母さんの声が聞こえてきた。

 もう飯の時間か。


「はいよー」


 母さんの言葉に返事を返したあと、浴槽を出る。

 

「いい加減に話さないとな」


 俺は濡れた手で顔を叩く。

 昨日は話せずじまいだったけど、年を越す前に――左遷させられたことをしっかり話そう。

 じゃないと白月しらつきに格好がつかないからな。……白月に会いたいぜ、へっ。



 



 浴室を出て、飯田いいだ営業副部長の『年明けライブに行かないか?』

 というメールに『ちゃんと家族サービスをしてあげてください』と返信をしたあと、俺は食卓に着いた。

 そして家族三人で紅白を見ながら、年越しそばをすする。そばうまし、なめ茸うまし。


「今年は赤組と白組、どっちが勝つかしら。私的には白だと思うのよね~。パパはどっちだと思う?」


 暖かいオレンジ色の光に照らされた食卓。

 そこへ皿に盛られた揚げたての天ぷらをドサッと置きながら、母さんは父さんに尋ねる。

 にしてもこんなに食べれないだろ……毎年、毎年なぜこんなに多く作るのか。そう思いながらサクサクのえび天を食べる。うまし。


「そもそもの仕組みを知らん」


 黒い作務衣さむえに身を包んだ、父さんが口を開く。

 和装か。着心地は良さそうだなって、見るたびに思う。

 けど、父さんと同じ格好をするのがイヤで一度も着たことがない。あ、でも旅行の時には着たことがあるか。


「ええー私もその辺は知らないけど、絶対白だと思うのよね」


「母さんの好きな歌手がいるもんな」

「あ、わかった?」


 母さんはカラッとした笑顔で言う。

 去年も、その去年も、あのシャンブレーさん似の歌手がいる方を勝つと予想していたからな。そりゃわかる。


「それで信太郎しんたろうはどっち派? パパは赤ね」


「……俺は何も言っとらんぞ」


 父さんは湯飲みに口をつけながら抗議する。

 抗議する、といってもヒトコトを口にするだけなんだけど。


「別に俺は赤でも白でも、どっちが勝とうと興味ないさ」


 なめ茸を口にしながら言った。

 やっぱり家で食べるなめ茸は最高だな。このしょっぱさと辛さの具合がたまらない! 俺が気持ちを良くしていると、


「信太郎もスレたわねぇ。昔はママのいる方を必ず選んでたのに。ほら、女湯と男湯のどっちに入るかって話になったら必ず……」


「ごほっごほ」


 相当昔の話を持ち出してきた。


「いつの話をしてるんだよ! 俺が幼稚園とか小学生の頃の話だろ!」


「この話はそうだけど、他のことでも私の方を選んでたと思うのよねー」

「そんなの母さんの妄想だ! ったくもう」


 俺は親の視線から逃れるために、スマホを取り出す。

 おっ白月しらつきからメールだ『この時期は気になる番組が多いね。お兄さんはなにを見てるの?』か。こういう会話が彼女から送られてくると嬉しいなぁ。付き合うまでは俺が内容をひねり出してたし。

 返信、返信と……


「信太郎。食事中に携帯は触るな」


「わかってるよ。へいへい」


 口喧くちやかましい父さんの言葉に従ってスマホをしまう。

 しまう時に気づいたけど、あと一時間で今年が終わる。早く話さないとな。

 そう考えていたら、父さんが箸を置いた。


「ごちそうさま。今日も美味かった」


「あら、もう終わり? もしかして体調が悪いんじゃないの」


 母さんが不思議そうに父さんを見る。

 確かに今日は食べている量が少ない気がする。いつもは運動選手かっ! ってツッコミたくなる量を食べるからな。


 俺も不思議に思いながら父さんを見てしまう。

 すると、


「俺だって歳を取る。今度からは天ぷらの量を減らしてくれていい」


 いつもと変わらない無愛想な声でそう言った。


「いやねぇ、パパはまだそんな歳じゃないでしょ。というかパパが歳だって言うなら、私も年寄りになっちゃうじゃない」


 勘弁してよねーと母さんは明るく軽口を叩く。

 母さんの明るさと打って変わって、自分はそのやりとりを見て心に苦いものを感じた。そうだよな、当然だ。俺が大人になったってことは父さんが老人に近づいたってことだ。

 

 そして父さんが席を立った時に思った。身長だってもうとっくに俺のほうが高くなっているということに。

 俺が父さんの身長を越したときは密かに喜んだ記憶があるけど、今はどうしてか……胸が痛かった。


 って、話だ! 左遷させられたことを話さなくちゃ。

 慌てて父さんを呼び止める。


「と、父さん。ちょいと話があるんだけど」


 焦りと緊張で口がどもってしまう。

 だが、声はちゃんと聞こえていたようで、


「どうした」


 こちらをゆっくりと重々しく振り返る。

 ――重々しいなんて、ただの錯覚だが。




 新年まであと三十分。

 俺は一向に話が切り出せなかった。

 ……まず友達に話をしておくべきだったかもしれない。予行演習的な感じで。


 親に話すのはどうしてこうも緊張するのかと考えていたら、母さんが「キャー」と黄色い悲鳴をあげる。


「やっぱり細永ほそながさんは最高ね! あの男らしさがたまらないわ」


 最初は俺の話に興味を持っていた母さんも、今では紅白に夢中だ。

 ……こんな母だからこそ、重い話もするするとしやすかったりする。

 

 それとは対照的に父さんは茶を飲みながら、ジッと俺を見ている。

 ……こんな父だからこそ、重い話がしにくい。


 仕方がない……で終わらせるものかよ。

 話そう。話してやる!


 曲の流れが止まったところで、俺は口を開く。


「実は今おれ、夏から田舎にある支社の方で働いてるんだよね」


 会社は変わってないんだけど。そう言葉を付け加える。

 よしよし、いつも通りの感じで言えた。

 

 でも――ぐぅ、なんて聞かれる。なんて聞かれるんだろう。と胃をこわばらせていたら、


「そうなの!? どこどこ? なにがおいしいところ?」


「えっ、なんだろうな。魚介類系の――イカとか。あとは山菜もおいしいな」

「いいわね~。それ系のお土産は買ってこなかったの?」


 買っていたら最初に渡してるよ。

 と言ったら母さんは「おばあちゃん、信太郎が気のきかない子に……よよよ」とひとり芝居を初めた。

 

「わかった、わかったから! 次は買ってくるから」


 俺がそう答えると母さんは一瞬で笑顔になる。

 そして、

 

「生ものを買うならクール便を使うのよ!」


 グッドポーズをしながら言った。

 俺はそれを見てついため息が出てしまう。なんだろう……緊張して損をした。と思って、父さんを見ると体がまたこわばる。


「信太郎」


「あ、ああ。なんだよ」


 喉が緊張で絡まる。

 父さんの目は俺よりも重みがあり、力強かった。


 ……


 幼い頃、この目が恐かった。

 目が怖いというよりも、父親の憮然ぶぜんとした態度がこわかったのだろう。何を考えているのかもわからなかったし。

 だからまぁ母親のそばに引っ付いていたに違いない。


 思春期――中学生とか高校生の頃。

 父親に反発をしていた。とりあえず父親の言うことの反対側をやっていた。

 高校生の間はバイトをするなと言われれば、バイトを始めた。それと食事中に携帯を触るなと言われたら、やることもないのに触っていた。

 ああ、乗るなと言われていたバイクにも乗ってたっけ。……それで怪我をしたのだけど。


 大学生の頃。

 この頃には適当に受け入れるようになった。

 といっても就職活動の時『お前にあの企業は無理だ。やめておけ』という言葉に反発して、いま働いている企業を受けた。


 社会人になってからは……



「……仕事はどうなんだ?」 


 父さんは腹から低い声を出す。


「どうって、どうなんだろ」


 悪くはない。

 一時期の狂った情熱はないけれど、元々営業という仕事は性に合っていた。

 だから気持ちが晴れている――白月が側にいてくれる今なら、悪くないと言える。


 私生活全般で言ったら楽しい。

 でも、今は仕事について聞かれてたっけ。だったら答えは最初にもどる。

 

「まぁ……悪くはないよ」


 髪をかきながら、そっぽを向きながら、それでも本心を口にした。


「そうか」


 なら、いい。

 と口にしたあと、席を立つ。

 そして髪をポリポリとかいたあと、寝室の方へ歩いていく。


 以前よりも小さくなった背中。

 それを見て、俺はなにかを喋らなくちゃいけないと思って、


「あーっとだ。もし旅行とかでこっちに来るなら、言ってくれれば、その……案内とかするから」


 いままで考えもしなかったことを口にする。


「…………」


 父さんはさっきと同じような速度で歩いていく。

 聞こえたのか、聞こえていないのかはわからない。なんにせよ、年を越す前に話せてよかった…………。


 


「新年まで残り五分! 神林選手は走り終えることができるのか!」


 テレビの番組は紅白からマラソンへと切り替わっていた。

 母さんはシャンブレーさん似の歌手が歌い終わるや否や、チャンネルを変えてしまった。

 それを毎年するものだから、紅白を見ながら年越しをしたことはない……って紅白は年を越す前に終わっちゃうんだったな。


 デザートのイチゴを食べながらそんなことを考えていると、


「これはどうにかクリアできそうね」


 母さんは机に肘を置きながら願望を口にする。


「いやいや、これは難しいだろう。まだ距離もあるし」


 俺の見積だと十分はかかる。

 こんなボロボロの走り方じゃあ、五分でゴールするのは厳しいに違いない。


「信太郎より神林君歴が長いのよ。見てなさい!」


 歴ってなんだよっ。

 と思いながら、テレビをぼーっと見る。


「それにしても、父さんも自分で聞けばいいのにねぇ」


「ン、どういうことよ?」


 イチゴの思わぬ酸味に目を閉じつつ、聞き返した。


「信太郎がこうして家に帰ってきて、また家を出たあと必ず聞くのよ『信太郎とはどういった話をした』って。聞くのは構わないけど、寝る前にしなくたっていいと思うのよね」


「ああ、まだ父さんと母さんは一緒に寝てるのね」


 俺はそっちに驚いた。

 相変わらず仲が良いな、この二人は。

 例えば自分が白月と結婚しても、流石に寝室は別にする……だろう。


「今更いびきがうるさいぐらいで変えないわよ。パパも、もう少し素直に生きれたらいいのにね」


「母さんみたいになられても困るけどな」

「あはは、確かにそれは困るわ」


 両手を叩きながら元気に答える。

 母さんは深夜だろうが元気百パーセントだ。元気担当の俺ですら勝てん。


「それにあの人の不器用さは根っからだし、変えられないか」

「……父さんって、昔からあんな感じだったの?」


「そうよ~。学生時代のコンパで出会ったんだけど、その時もひらすらにご飯とお酒を飲んでるだけだったもの」


 まさかの両親の馴れ初めはコンパ。なんか若干ショック! 


「あー想像つくな。でもなんでそんな人と付き合ったのさ」

「一目惚れよ! それに話をしたら面白かったし。あとは私がガンガン押して、社会人の時に結婚して、信太郎を生んだの」


 その時期にね、と母さんは言葉を続ける。


「お父さんがいま働いている会社の一個前。家具のメーカーの営業をしてたんだけど、そこの会社から長期の海外赴任をするように言われたのよ」


 その会社、空気読めてないでしょ? と笑いながら言う。

 俺は確かになと頷いたあと、


「初耳だな。長期ってどれくらいの期間?」

「短くても五年はって話だったみたい。長いでしょ? だから私もついていくって話たんだけど」


「俺、もしかして海外育ちだったのか」


 冗談めかして言うと、母さんは呆れながら、


「そんなわけないでしょ。父さんはその命令を断って、いまの会社に転職したわけ」


 命令を断った理由、知りたい?

 という言葉に、断っても聞かせるくせにと返答する。


「ふふふ、その理由とは! 家庭を大切にしたい――信太郎に苦労をさせたくないって」

「……」


「昔はパパも、いまの信太郎みたいによく海外転勤してたけど、生まれてからは日本一筋よ。パパは行動に迷いがない分、口に出さないから困るわ。心配なら心配って言えばいいのに」


 母さんは呆れたように両手の平を肩の位置まであげる。 

 ……いつも父共々、苦労をかけています。と思いつつ、言葉では生意気を言う。


「俺だってもう大人だし、心配されてもあれだから。うん」

「あら、それはフリ? 定番の“親にとって子供は~”やっちゃう?」


「勘弁してくれ……」


 自分も母親と同じポーズをした。



 ……

 

 わかっている。

 就職活動の時に父さんが言ったあの時の言葉。

『お前にあの企業は無理だ。やめておけ』という言葉の意味を。


『最初はお前じゃ受からないから。やめておけ』なんて意味かと思っていた。

 でも、いまはそういう意味じゃないと知っている。父さんの行動のひとつひとつを振り返っていくと、意外なほどに自分を心配してくれていることに気づいた。


 あの言葉にある父の真意はこれだろう。

『あそこは仕事が大変なことで有名だ。体がもたないから、やめておけ』って。


 ……

 


「神林選手、ゴール! 新年を越す前に、無事にテープを切ることができました」


 母さんと話をしていたら、テレビからそんな声が聞こえてきた。


「ほら、言ったでしょ。神林君は体力を残しておいて、最後にスパートをかけたよのよ。さすが私! 神林君歴が長いだけあるわ」


 だから歴ってなんだよ、と思っていたら、


「おおっと。神林選手、ゴール後に倒れ込んでしまった。大丈夫かァ!」


 膝を抱えて倒れ込んでしまった。

 俺はそれを見たあと母さんに笑顔を向ける。


「ほーん、歴が長いね。そうですね、ゴール“は”しましたもんね」


 皮肉マシマシで発言すると、母さんは「そうそう。嘘は言ってないもの」と軽く流した。手ごわい。

 なにか追撃の手はないかと考えていたら、テレビから「新年あけましておめでとうございます」という声が聞こえてきた。いつの間に新年を迎えていたらしい。


「なんの風情もないわね」


 母さんの笑う声に俺は「毎年こうだろう」と答える。

 新年をしっかりと迎えた記憶がない。


「まぁ、改めましてあけましておめでとう、母さん。今年もよろしく」


「こっちこそよろしくね、信太郎。……ところで、今年も陽菜ひなちゃんと初詣行くの?」


 大学生の時は新年早々、夢の国に行ってたものね~。

 という言葉に焦るおれ。そうだ、母さんはハルもとかのと別れたことを知らないんだった。


 自分が冷や汗を流している間にも「結婚とか、もう考えてたり?」なんて言葉を投げかけてくる。

 どうしよう……ぶっちゃっけるべき? いやいや、新年一発目の話題にこれはキツイ!

 俺はお茶を濁すことにした。


「は、はは。父さんもそろそろ下に降りてくるだろうから、お茶の用意したら?」


「おっと、それもそうね。信太郎ナイス!」


 グッドポーズをしたあと、母さんは台所に向かった。

 ふぅ、なんとか危機を乗り越えたぜ。自分ナイス! と思ったところで、ポケットの中にあるスマートフォンが震える。

 この振動からして電話だ。……この流れだともしかしてハルなんじゃ、と冷たい汗を再び流す。


 一度深呼吸をしてから、スマートフォンを取り出して――喜んだ。

 俺は自室の方へ歩きながら電話に出る。


「もしもし」


『お兄さんだよね。……新年あけましておめでとうございます。去年は、その色々とお世話になりました』

「こちらこそ。ふふ」


 白月の堅苦しい言葉につい笑いが吹き出てしまう。


『……どうして笑うの』


 むすっとした声にまた笑いそうになるが、なんとか我慢をする。

 ……最近は彼女の声を聞いて機嫌を判断できるようになったな。最初はふてぶてしいふつう声とむすっとした声の違いがわからなかったのに。仲が深まっていることを感じながら、口を開く。


「ごめん、ごめん! ついな。あけましておめでとう、去年は白月のおかげで良い年になったよ」


 ところで、どうして電話したの? と尋ねたら、


『声、聞きたくて。もう一週間近く聞いてなかったから、なんか調子がずれる感じで……あ、でもお兄さん忙しかった? メールも送ったんだけど』


 …………


 “声を聞きたくて”


 その最初の言葉だけで撃沈!

 自室を前にして、身悶えるおれがいた。ぐぅおおぉ。

 声にならない声を出しながら、スマホに口を近づける。


「おれも……俺も白月の声が聞けなくて、禁断症状を起こしていたところだ」


 扉に手をつけながら喋る。息は絶え絶えだ。


『お兄さん、大げさ。私も声が聞けてうれしかったけどね』


 電話越しに聞こえる彼女の微かな笑い声。

 はぁ、癒される。と思いながら、体制を整える。


「それとメールのこと悪かったな。内容は見てたんだけど、返信するタイミングがなくって」


 ちなみに見てた番組は紅白とマラソンのやつな。

 と白月に答えた。


「うちは母さんがリビングのチャンネル権を握っているけど、そっちはどうよ?」


『私の家は、弟かな。……そうは言っても長期休みの時にしか帰ってこないんだけどね。寮で生活してるから』

「へー弟くん、寮暮らしなのか。これまたどうして」

『中学受験をしてボクシングの強豪校に行ったんだけど、家から離れてて』


 白月に技をかけられてたという弟くんは、ボクシングの道に行ったのか。

 いま何年生だろうと思いつつ、大みそかの夜、白月が見ていたであろう番組に思いあたった。


「そうだ、白月が今日の夜に見てた番組を当てようか?」


『たぶん正解だと思うけど、どうぞ』


 弟君がチャンネル権を持っていて、なおかつプロレス・ボクシングに興味を持っている。

 なにより! それがなくても、弟より姉である白月が権力を持っていのは明白。

 ――そこから導き出される結論は、


「あけ○のvsボブ・サ○プが戦ってたあの番組だ」


 俺の言葉を聞いた白月は『正解』と短く答えた。

 ……あえて間違ってみて彼女の反応を見るのもありかと思ったが、真面目に答えた。そして自室の椅子に腰掛けたところで、再び彼女の声が聞こえてきた。


『……ところでお兄さんって、いつごろ――』


 そこで声が途切れ、白月と誰かの声がわずかに聞こえてきた。


『お母さん?――夜勤――……ん』


 いくつかの言葉が途切れ途切れに聞こえる。

 想像するに、母親と話しているみたいだ。


 待つこと一分ほど、話し声が静かになったところで喋りかける。


「白月、話しても大丈夫そう?」


『……お兄さん、一回電話切るね。居間の方に行ってくるから』


 声が聞けてよかった。という言葉を最後に電話は切れた。

 ……なにもないと、いいのだけれど。あとでメールしてみるか。


 俺は眉間を強く押さえたあと、リビングの方へ引き返した――






「あ~」


 正月ボケ。

 今の俺をこれほど正確に表現できる言葉は他にない。


 ボケるのは決して良いことではない。

 でも、こうなりますって! だって、仕事は年末年始の休み、それと有給を重ねることによって、八日まで休み。急ぎの案件もないから、仕事について考える必要はなし! ……昨年までは正月まで仕事のことを考えていたからな。あれもあれで悪くはなかったけどさ。

 

 あと!

 それに加えていまは実家での生活だ。掃除・洗濯・炊事すいじどれもやる必要はない。俺がやることと言えば、せいぜい車を出すことぐらいだ。一人暮らしと比較すればやっぱり楽! といっても自分はまともに炊事――料理はできませんが! 


 同じソファーに座っている父さんを見る。

 普段は厳格なオーラを出しまくっているマイファザーだが、この時期に関しては別だ。俺と同じく呆けた顔をしている。

 よそには見せられない顔だなと思いつつ、スマホを見る。


「……はぁ」


 通知なしか。

 今日はもう三が日の最終日だ。ここまで連絡がないと心配になってしまう。

 夜からは大学の同窓会があるから、あまりスマホも見れないし……そうだ、同窓会といえば、元カノと久々に会うだけじゃなく、嫌悪な感じで別れた友人とも会うんだったな。ちゃんと謝らなきゃだ。四時間後が心配になってくる。


 けど、それ以上に心配なのが――白月だ。

 新年の電話、そしてそのあとに一回メールをしたっきり、返信が来なくなってしまった。

 今まではメールを送れば当日、遅くても翌日には返ってきてたのに。


 ……わかってる。わかっているんです。返信が遅くなっているぐらいで心配しすぎだと!

 でも、不安なんです。だって白月の家、色々と複雑そうだし――なによりあの時の電話の終わり方が不穏すぎる。


 くぅぅ、だがなにもできない。

 家の事情もわからないし、住所もわからないしな……

 いや! 本当にそうか。俺にできることがあるんじゃ、と考えていたら、


「お昼できたから、準備よろしく~」


 台所から母親の声が聞こえてきた。

 とりあえずご飯を食べてから考えるか。


 俺はソファーから立ち上がり、返事をする。


「「わかったよ」」


 ……父親と声をハモらせながら。






 肺を通る空気は新鮮だった。

 雨が降り続く中、俺は繁華街に寄って、いつもの店で酒を飲んだ。

 酒を飲む目的であそこへ行ったわけじゃないが、ついつい手が伸びてしまった。

 ……きっと自分の行動が馬鹿げていると感じたからに違いない。


 そのお店で常連と熱々の日本酒を飲み交わしたあと、彼女と訪れた場所をもう一度見回る。

 が、当然いなかった。やはり俺の杞憂だったのだろうと思った。


 電車に揺られる。

 窓に張り付く雨を見ながら考えていることは――彼女のことだった。

 どうして連絡を寄越さないのだろう。もしかして俺に愛想を尽かしたのだろうか、そう考えているうちに自宅へと着いた。


 去年の夏から生活の足場となっている二回建てのアパート。

 近くにマンションがなく、しょうがなく住み始めた所だが、住めば都。

 左遷させられたショックや失恋の痛み、それに仕事の疲れを緩和してくれる場所だ。


 といっても実家に勝るものはないのだが。


「ふぅ」


 同窓会をキャンセルして、俺はいったいなにをしているのだろう。

 あと何日かは実家でグータラするつもりだったのにな。

 これが……恋愛脳ってやつか。


「……」

 

 自分の行動が少し恥ずかしい。

 そう思いながら、鉄筋コンクリート造のアパート、その階段をゆっくりと上る。

 ……今日の天気が雪じゃなく雨なのが救いだ。この前、雪が降っていた時はツルツルと滑っていて大変だった。というか滑って転んだ。

 あの時の間抜けな様を白月に見られてたらと思うと……ひぇぇ。今日のこの行動も同様だ。とても話せん。


 そうこう考えているうちに、階段を登り切る。

 蛍光灯のほのかな明かりを頼りに一番奥の角部屋を目指す。

 


 目指し、目指し歩く。

 けれどもたどり着かない。



 なんてことはなく、着実に自分の部屋へと近づいていた。

 久々にギターでも鳴らすかなと考えていたら、ある違和感に気づいた。

 なんだろう……俺の部屋の前に物体Xが存在している。


「荷物か?」


 ありうる。

 ここの配達員は時々サインを取らずに、荷物を置いてくことがある。

 あんな適当で大丈夫なのかと不安にはなるけれど、たいして人いないし、田舎だし。きっと大丈夫なのだろう。


 でも、あれは荷物にしてはデカすぎる。

 というかあれ、白月だ。暗がりにいたせいでわからなかった。


「って、白月!?」


 俺は傘を放り投げて自分の部屋――白月へと近づく。

 彼女は洗濯機の身を潜ませながら、冷たい床にすわり込んでいた。


「おい、白月!」


 俺はもう一度声をかける。

 すると彼女は濡れた体を抱きしめたまま、こちらを見上げる。


「お兄さん……?」


 弱々しい瞳が、俺の胸を刺した―― 

 

   

  

 


 




  

 


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