第21話 彼と元カノ

 スマートフォンの画面を見て俺は愕然がくぜんとした。 


晴海はるうみ 陽菜ひな』 

 

 昔の彼女の名前だ。

 懐かしいという感慨よりも先に、混乱が頭の中で渦巻く。

 半年前まで付き合っていて、でも左遷をきっかけに別れた彼女。どうしてそんな子から電話が来るんだ。……しかも別れた時には、着信拒否にされたのに。

 

 俺は会社の椅子に座りながら、脱力した。

 どうすればいいんだろう。電話に出るべきか、それとも無視をするべきか。

 画面をじっと見ながら、汗をタラリと頭から流す。


 正直、出るのは怖い。

 でもそれ以上に、気になった――俺と別れた本当の理由を。

 

「…………」


 つばを飲み込んだあと、通話ボタンに触れる。

 そして耳元にスマートフォンを近づけた。


「もしもし……?」


 俺のか細い声が、口から出る。

 自分の声とは思えない華奢きゃしゃな声。

  

 ……


 …………

 


『こんばんは、なかむー』


 ドキッとした。

 以前と同じ朗らかな声、それに彼女ぐらいしか呼ばない「なかむー」というあだ名。そのどれもが俺の心を驚かせるのには充分だった。


『いま、大丈夫かな』


 聞きたいことがあった。

 

「ああ、大丈夫だよ。でも少し待ってて」


 落ち着いた声がするりと出る。

 さっきまでのか細い声とはまるで別人だ。自分でも驚きながら、席を立つ。

 そして営業課の四階フロアを出たあと、非常階段の扉を開ける。

 

 ――すると、夕焼けが俺の目を照らし、風が俺の体をスーツごと冷やした。

 ここなら人に話を聞かれないだろうし、頭が熱くもならないだろう。

 

 そう思いながら、再び耳元にスマホを当てる。


「お待たせ。それで用事は?」


 普段と変わらない声。

 そして一定の音で刻む心臓の音。 

 まるでいつもと変わらない自分自身に驚いてしまう。


『お知らせだよ。内山ゼミの十四期生で同窓会するから、それの参加確認をしてて』


 用事自体は普通のものだった。

 けれど、どうしてお前が俺に参加確認なんてとっているんだ。という疑問が自分の中でわいた。


『なかむー、最近フェイクブックやってないでしょ? そっちのグループで確認とってたんだよ』


 あとは君の確認で終わり! と言葉を続ける。

 それを聞いたあと、俺は疑問を問いかけようと思って、やめた。

 おそらく彼女が俺に連絡してきたのは、周りがまだ自分たちをカップルだと認識しているからだろう。 ……こりゃ彼女には要らぬ苦労をかけたな。

 

「そういうことね。それでいつ頃やるんだ」


『年明けの三日か四日になりそうなんだよね~。あはは』

「……また随分と急だな。うーん」


『いやいや、お知らせは一ヶ月前からしてたんですよ!』

「俺が見てなかったからか。そりゃ悪いことしたな」


 二重の意味を込めて謝ったあと、遠くの山を見る。

 白く薄化粧をした山頂が、燃えるような夕日に照らされていて――とても綺麗だった。

 にしても、ゼミの同窓会か。……仲の悪くなった友人がチラホラいるし、彼女にも悪い。


『もしよければ来ない? なかむーが来れば、全員揃うんだ。先生も含めて』


「そうか……」


 迷った。

 そしてその迷いが「お前は、俺が来たらどう思う」という台詞に変わりそうだった。

 危ない、言葉に出てないからセーフ。こんな馬鹿な台詞を言ってたまるか。


「返事ってどれくらい待てるんだ」


『んー確か年を越すまではキャンセル料なしだから、それまでかな?』


 迷ってるならとりあえず人数に含めちゃうよー。という言葉が聞こえる。


「じゃあ、とりあえず参加するよ。ダメになったらブックの方に連絡入れる」


 クリスマスには、シンガポールへ行くかどうかを決める。

 もしあっちに行くとしたら長期での滞在になる。そう簡単には帰れなくなるだろう。そうなったら同窓会に出る機会なんて今回ぐらいだ。その時は出てみるのもありだろう。

 ……白月のことを含めて、問題が解決したのなら。


『よかった!』


 明るい声。

 でも、本心かどうかはわからない。


『じゃあ用事も済んだし、切るね。また同窓会で――』


 彼女が電話を切ろうとした瞬間、


「――聞きたい話があるんだ」


 俺は待ったをかけた。




『…………』


 会話の空白を埋めるように、風が吹く。

 

「…………」


 どうして待ったをかけたんだろう。

 別れた理由を知りたかったから? 知ってどうする。

 ただ、傷つけ合うだけかもしれない。彼女は知らないフリをしてくれている。それならそれに合わせた方がきっと安全だ。

 けど――それでも“確かめたかった”。俺の弱さと向き合える最後のチャンスかもしれないから。


『話がなければ、切ってもいい?』


 俺は見えない彼女に首を振りながら、口を開く。


「自分と別れた理由を教えて欲しい」


 …………


『それ、聞いちゃうんだ』


 冷たい声が、耳元から聞こえる。

 彼女の声が普段は明るい分、余計にそう聞こえた。

 それに対して俺は、


「ああ」


 迷わずに答えた。


『…………♪』


 けれど、彼女は迷っていた。

 証拠として耳元からハミングが聞こえてくる。

 数年間付き合ってやっと慣れた癖だが、彼女は迷うとハミングをする。

 しかも明るい感じでやるもんだから、最初はふざけているのかと思った。

 でも、それにも理由はあるらしくて、なんでも自分のペースを取り戻すとかなんとか……。


 昔の思い出をひっくり返していると、ハミングが止まる。

 どっちに決めたのだろうか。できれば俺の求めるものであってほしい。


『……憎まない?』


「憎まないさ」


『……最後は笑ってくれる?』


「ゲス笑いとか泣き笑いでよければ」


『普通に笑って欲しいけど……よしっ!』


 久々に聞いたな。この『よしっ』

 彼女の表面の性格を象徴しているような気がする。

 ……いつの間にか俺もこれを使うようになったしな。


『単刀直入に言っちゃうと、なかむーが好きじゃなくなったから!』


「……単刀直入ですね」


 ……思ったよりも傷ついた。

 もう失恋の痛みは薄れて、思い出になっているかと思ったのに……。

 でも、


『でも、こういうのを聞きたいわけじゃないよね』


 なら、最初から話していこうか。

 そう言い彼女は言葉を続けていく。




 ◇




 初めてのゼミの集まり。

 夕日が差し込む会議室の用な場所で、男女二十人が、ガヤガヤと揉めていた。

 傍から見るとディベートのテーマを決めているかのように、見えなくもない。

 

 けど、実際は「自己紹介を誰からやるか」なのが悲しい。

 ……俺もそのガヤガヤの一人なのが尚更悲しい。誰かやれよ! 俺はやらないけど!


 教授は毎度のことなのか、あくびをしながらこの状況を見守っている。

 ああ、誰かこのマンネリ空間を打破してくれ。そう思っていると、


「私、やります! 晴海はるうみ 陽菜ひな! 三年の――」


 一人の女が立ち上がって、堂々と自己紹介をしている。

 俺は明るい声を出す彼女へと視線を向けて、


 惚れた。


 まさしく一目惚れだった。

 夕日の薄暗い光を吹き飛ばすような、眩しい笑顔。

 それを見た瞬間、俺は彼女と付き合いたいと思った――




 ◇


 

 

「それから先の俺の努力知ってる? ゼミのグループでは必ず一緒になるように手回してさ、居酒屋では近くに座れるようにタイミング伺ったり、そうだ。ハルが、筋肉質の人が好みなんだよね! とか言うから、ジムにも通ったんだぞ」


『あーうん。覚えてるよ。特に筋肉自慢をしてきた時はちょっと……引いたね』


「マジかよ!」


 ちらりと自分の体を見る。

 スーツ越しでもわかる。俺の筋肉はもう既にしなびている。

 ああ、あの努力はいったいなんのために。


「でも、酷いよな。そんなピュアな俺にハルが告白してきて、あ、これは努力報われたな。と思ったら、単に将来性――就職先が良いからって理由」


 俺の努力を返して! という言葉に、その努力があったからこそ、あそこに就職できたんじゃない。というフォローにならないフォローが返ってきた。


『卒業間近の女の子なんて、こんなもんだよ』


 明るい彼女も蓋を開けてみればこれだ。

 女の子ってシビア。


『でも、意外かな。もっと驚いたり、怒ったりするものかと思ってた』


「ちょっと前なら驚いてたよ。……この二週間で色々と考えてたから」


 あの夜――白月に言われた言葉の数々は俺の心に深く刺さった。

 その深く刺さったそれを取り除ければ、白月と別れたあとの痛みを解消できると思った。今の自分と向き合えると思ったんだ。

 だから、その痛みの正体を知っていそうな――彼女ハルについて考えていた。だって、俺の栄光の始まりと転落の始まりを知っている唯一の人物だから。


『……そうなんだ。そうだよね。じゃないと、なかむーがこんなヤブヘビを突くようなことしないよね』


「なんか毒のある言い方をするな」

『まぁまぁ、気のせいですよっ』


 彼女は昔と変わらない、暖かい声で俺に笑いかける。

 だから俺は――懐かしくなった。


『でもね、こんな始まりだったけど、心から好きになった時があるんだよ』


 それを聞きたいんだよね? という質問に俺は小さく返事をする。

 彼女は俺の意思を上手く汲み取っていく。言葉なんて必要ないかのように。

 ああ……互いにわかりあっていることが、とても悲しかった。


『いつだと思う?』


「入社してから一年と半年ぐらいの間」

『正解! ……もう答え合わせって感じだね』


 俺は乾いた声で「ああ」と返事をする。

 

 悲しい!

 だったら、大学四年次の時によく行ってた夢の国の時も!

 別れるまでの間――二年以上、一緒に過ごしていた時間! それらの時間はたいして好きじゃなかったんですか!? 

 

 ほんの少しだけ悲しくなりながら、彼女の声に耳を貸す。 


『あの時のなかむーは格好良かったなぁ。目がメラメラっ! って燃えてて、

 あんまり会えなかったのは寂しかったけど、それでも会った時には「あぁ、こんな人と付き合えて幸せだな」って思いながら、毎回会うときは勝負下着――』


「やめて! その先は聞きたくないから!!」


 なにが悲しくて、別れた女の下着の話を聞かにゃーならんのか。

 そんなアホなことを考えながら“仕方がない”を積み重ねるきっかけに俺は触れた。


「実際さ、ハルが好きでいてくれた時の自分ってさ、凄い燃えてたんだよね。入社するまでは熱中するものもなくて、それこそお前ぐらいだったよ」


 彼女を、ハルを――もう別れた女と認識しているから、こんな話をできる。

 俺の中の思い出として存在しているから心穏やかに語れる。

 そして見ないふりをしていた自分を認め始めているから、誰かに話せる。


「仕事に燃えてた理由は親への反発心と周囲の熱に当てられた、っていう安っぽいものだったんだけど、やっているうちに仕事自体にハマっちゃったんだよね」


『知ってるよ。楽しそうに仕事の話をしてたの覚えてるもん。けど』


 そこで言葉は切れた。

 言い出しにくいのか、それとも自分で言うべきだ。と思ったのか。

 前者だと思っておこう。そこまで良い彼女だったら俺の立つ瀬がない!


「ある時バッタリ話さなくなったろ?」


『うん……あの時あたりから勝負下着は――』


「だから、その話はやめなさい!」


 くぅ、計算と天然が混じり合っててやりにくい!


「まぁ、それでだ。バッタリ話さなくなった理由は、簡単に言うと挫折したからなんだろうな。凄い情熱があったからこそ、鎮火したあとは凄い無惨でさ……」



 俺には営業の才能があったのか、努力する分だけ結果で返ってきた。

 だから仕事に没頭していったが――どうしても超えられない壁があった。

 蛇島へびしま優斗ゆうと、それに大輝だいき。二百近くいる同期でのトップ三。俺はその下にいる……万年四位。


 信じられなかった。

 金も、時間も、努力も、その全てを惜しまなかったのに、それでもあの三人に営業成績で勝つことは一度もなかった。

 交渉の最中、必要とあれば金を包んだ。時間がないというのなら、俺は一週間寝ずに働いた――二週間入院したけど。

 努力が足りないというのなら、金でできる限りの環境を用意して、惜しみなく時間を使った。


 それでも、届かなかった。

 時間だけが無情に過ぎ去っていって、ある時に蛇島が抜擢されて大企業のアドバイザーになった。その次は優斗、そして大輝にも話はあったらしいが、それを蹴り飛ばして海外子会社の社長に立候補した。

 そして俺は……なにもなかった。

 きっとあと更に一年努力できたのなら、俺にも似たようなポジションが与えられたのだろう。

 でも、無理だった。情熱を与えてくれていた存在は消えて、その存在に勝てぬまま、コンプレックスにまみれていく。


 もう立ち続ける気力はなかった。

 その先の俺は“島流しプー太郎”という名前が示す通りの存在だった。

 サボって、でもノルマは達成して、本社に居残る。俺の生きがいに近かった彼女の側にいるために。

 

 あの頃、ぼんやりと考えていた。

 あーこうやって適当な時間を流しつつ、彼女と結婚して、それなりに幸せな生活が送れるだろうって。


 でも、わかった。今日のでハッキリした。

 仮に俺が“左遷”されてなかったとしても、そんな日々は存在していなかったんだと。

 だって、彼女が好きだった俺はとっくに消え去っていたんだから。 



『私は、彼女失格だね。そんな時こそ側にいてあげるべきだったのに』


「側にはいてくれたじゃないか」


 そんな魅力を失った自分と、長いこと付き合ってくれた。

 

『……いるだけだったよ。きっと彼女だからこそ、好きな人だからこそ、触れにくい話題にも触れるべきだったんだろうね』


 別れたあとに、わかっちゃったよ。

 という言葉に、


「ままならないな」


 俺は乾いた言葉を口にする。

 沈む夕日は優しかった。


 …………


 互いに感傷に浸っていると、


『ねぇ、もう一回付き合おっか?』


 という信じられない言葉が飛んできた。

 俺はそれを冷静に……


「ふぁ!? なななななにを言ってるんです! お前さん!」


 めちゃくちゃ動揺していた。


『今の私たちなら、上手くいくよ。自信は……ある!』

 

 目をピカーンと光らせている彼女が想像できた。

 そして俺も、今の俺たちならそれなり上手くいくだろうと思った。

 だから、




「ノーサンキューだ。俺にはもう好きな人がいるからな!」


 堂々と宣言した。

 もう迷わない! 何度か迷ったけど、気にしない!

 いいよ、こいよ! ポリスメン、手錠なんて捨ててかかってこい!


 頭の中で寸劇を広げていると、“元”彼女は口を開く。

 そしてその言葉は俺の予想通りに違いない。


『ふふっ、やっぱり好きな人ができたんだ。早いなぁ』


 どこまでも俺のことを知っている元彼女。俺専用のエスパー。

 そんな彼女もいつかは俺専用じゃなくなる。でも、それでいい。今の俺にはそう思えた――




「……でも、どうして俺に好きな人がいるって、わかったの?」


『なかむーがヤブヘビを突いてまで聞くんだよ。『次の恋に備えて』ぐらいの理由しかないよ!』

「それほぼ始めからわかってたってこと!?」


 やっぱり俺の元カノはエスパーに違いない。

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