第20話 初雪

 雪が、夜空をひらひらと舞う。

 風が吹けば消えてしまいそうな、淡い雪。

 そんな雪だからか、駅へ向かう人のほとんどは傘をさしていない。


 俺だってそうだ。

 円形のベンチにぼーっと座ったまま、暗い空を眺めている。


 白月しらつきはいつもなにを考えているんだろう。

 こうして待っているとき、なにを考えて、なにを感じているのか。

 それを知りたくて、待ち合わせの時間よりも早く来たけれど……


 寒い! 寂しい!

 それぐらいしかわからなかった。

 十二月の初めでこの寒さって、二月とかはどうなっちゃうんだろう。


 にしても、


「寂しいなぁ」


 西口は人が少ない。

 薄暗い高層ビルの群れを見ると余計にそう思う。

 でも、休日のビジネス街なんてこんなもんか。むしろ人がわんさかいたら驚くに違いない。都会ですら土日はサラリーマンの数が減るんだし。


「ふぁあ」


 あくびとため息が混じり合う。

 わかっていたけど、俺って待つの苦手。白月マジ尊敬。

 時間的にもう少しで来そうなんだけど、どうにもこの人の少なさが好きになれない。

  

 ……好きにはなれないが、俺たちの待ち合わせ場所としてはうってつけか。

 警察に目をつけられるのはもうコリゴリだ。せめてクリスマスデートを終えるまでは逃げ切らないと。


「デートが終わったあとに逮捕。あると思います」  


 ふぅぅ! ドラマティック!!


 って、そんなことよりも目の前の問題だよ。

 どうにも仕事の調子がよろしくない。なにが原因だろう。

 はっ、まさかプロレス技じゃなくて、マッサージを受けたのが原因なんじゃ。


 ないな。

 まぁ原因なんてどうでもいいか。

 ノルマは達成してるし、特にどうこうする必要もない。適当にサボりながらやろう。

 

 と考えていたら、 


「お待たせ、お兄さん」


 待ち望んでいた人が駅の方から来た。




「そういえば、待ってた時に考えてたんだけど」


 白月と肩を並べながら駅の構内を歩く。

 広い駅の構内は暖房の熱で満たされいて、暖かい。

 そんな気温だからか、あくびがついついこぼれ出てしまう。


「寝不足?」


 白月がこちらを見上げつつ、そう尋ねてくる。


「んーなんか気が抜けちゃってな。しっかり睡眠はとってるつもり」


 と言いつつ、またあくびをしてしまった。

 本当に気が抜けてるな。正月ボケにはまだ早いってのに。


「クリスマスとか勘弁してほしいよな」


「言えてるってお前は彼女いるだろうが。いいよなぁ」

「……先週別れたんだよ。好きな男ができたとかでさ」


 景気の悪い話が俺たちの横を通り過ぎる。

 でも、そこなんかに意識は向かず――


「あの学生もかわいそうだな、はは」


「……そうだね」


 ――クリスマスという言葉に反応してしまった。

 それは白月も同様なのか、お互いの視線が混じり合わない。

 

「そうだ。さっき待ってた時に考えてたんだけどさ」


 さっきの話題を掘り返す。

 このドギマギとした空気を少しでも変えるために。


「どうして最初だけ、白月は西口にいたのか考えてたんだよ」


「また変なこと考えてたね。理由はわかった?」

「ああ。西口って交番が――」


 口はペラペラと喋る。

 でも考えていることはあの夜のことだ。



 ――クリスマスデートを取り付けた夜。

 あの時からどうにもお互いその話題が出せずにいる。

 こうやって会っている時やメールをしている時も含めて。


 あれ以降、毎日のようにしているメールの中でさりげなぁく……


『くーっ!

 リンゴのパイを作ってみたんだけど……

 スっぱくって仕方がなかったよ。

 マズイとかじゃないんだ。

 酢を食べているような、そんなアップルパイになっちまった』


 触れてみたが、気づかずに、


『ちゃんと残さずに食べてね』


 素っ気ない返信のみが返ってきた。

 ……いや、ウソ。自分の心にウソつきました。


 白月はその文面のあとに、


『もし次も作るなら』


 と前置きしたあと、アップルパイのレシピを載せてきた。

 十行以上の長文に動揺しつつも『完成』の文字を見て、やっと終わりだ。

 なんて安堵したのも束の間。


 少しの空白を置いたあと『オーブンなしVer』も書いてくれていたのだ。


 それを見た時に懺悔したね。

 すまん……白月、実はアップルパイなんて作っていないんだ、と。我ながら罪深いことをしてしまったので、いつか作ろう。うん。このいつかは永久に訪れないかもしれないけど、それは気にしない。

 

 それよりもだ。

 クリスマスだよ! あの夜以来それについて話せていない。


 あの夜はこう衝動というか、決意が俺を駆り立てた。

 でも時間が経つとそういうのって薄れていくんだよな。その代わりに理性とか倫理観が働いてくる。

 つまりはクリスマスに女子高生とデートするなんてどうなんだろう。みたいな考えが浮かんでしまった。


 それで俺はデートの話題を出せずにいた。

 白月もそんな俺の態度を見て、話題に踏み込めずにいるんだろう。

 もしかしたら不安にさせてしまっているのかもしれない。


 いい加減しゃんとしないとな。

 警察がなんだ! ビビって営業ができるもんかよ!

 今日こそ話を進めよう。……技をかけてもらったあとに。

 

 雰囲気の力がないとダメなんです! そんな情けない気持ちを胸の中で吐き出していると――



「やっぱり外は寒いね」


 東口――繁華街のある方へ到着した。

 天気はさっきの状態となにも変わらない。冬の到来を告げるような、淡く、量の少ない、ゆき。

 そんな雪だから傘なんて必要はない。けれど、 


「傘使う?」


 そう尋ねた。

 俺は左手に持った傘をぶらぶらと動かしながら、道行く人を見る。

 傘をさしている人はほとんどいない。一部のカップルを除いて。

 

「どうしようかな」


 白月は星のない空を見上げた。

 そして赤いマフラーから――口から――白い息をこぼす。

 今日は前の反省もあってかコートを既に着込んでいた。いや、単純に寒いから着ているのかもしれない。

 

 そして、初めてのマフラー姿につい惚けてしまう。

 長髪が姿を隠してしまうのは残念だけど、それでも魅力的に感じる。

 ――だからこそ思った。これ以上ふみ込めば取り返しがつかないと。


「そもそも私、傘持ってきてないんだった。……お兄さんはどうするの」


 猫のような目が俺を見る。

 ちらりとなにかを試すようにして。


「俺は……やめておこうかな」





 

 失敗だった。

 いつものように、大げさに、強引に「相合傘をしよう!」

 って言えれば、きっと彼には見つからず、こんな気持ちにはならなかったのに。


 ああ、なんて俺は運がないんだ。






「おいッ、オッサン!! なんで理沙りさと一緒にいるんだよ!」


 繁華街と駅を結ぶ――公園の中。

 人が多く歩いている場所で、俺は長身の男に胸ぐらを掴まれてしまった。


 乱暴だ。と彼を切り捨てることはできない。

 俺が彼の「白月こいつとはどういう関係なんだ」

 という簡単な疑問に答えられなかったから、怒った。一瞬で、信じられないほどに。


 でも、そんなことはどうでもよくて。

 俺と白月っていったいどういう関係なんだろう。他人に聞かれて、改めてそう思わされた。


 いつかゲームセンターに行った時もこんなことを考えていた。

 けれど、その時の答えなんて覚えちゃいない。ただ、あの時と今では関係が大きく変化しているのだけは確かだった。


 知人にしては近過ぎて、友達というにはどこかもどかしくて、取引相手というには利害関係が薄い。恋人といったら嘘になる。


 なら、俺たちはどういう関係に当てはまるんだ。

 そんなどうでもいい、とてもくだらないことに、心が支配されていく。


すすむ、やめてよ。その人がなにか悪いことした?」


 そんな心を開放してくれたのは、やっぱり白月だった。

 怒っているような声で、彼の動きを止める。

 

 すすむ……どこかで聞いたような、見たような顔だ。

 確か文化祭で――


「わかんねえよ! ……クソ、噂が本当だとしたら」


 俺を投げるようにして振りほどいたあと、彼はボソボソと呟く。

 その間に彼の顔を改めて見る。イケメンだ、文句なしに。そこじゃない。この顔は、そうだ。白月と揃ってバカップルって言われていた彼だ。


 どうして彼がここにいるんだろう。あのバカップルって言葉もただの冗談、って話だったのに。

 もしかしたら本当に付き合っているんじゃ。弱気な心に、どんどんと不安が入り込んでくる。

 そして粉雪が俺をせせら笑うように降り続く。


「はぁ」


 隣にいる白月のため息が聞こえる。

 なにを思ってため息をついたのかは、考えたくなかった。


「というか進こそ、どうしてこんな場所にいるの。土曜日はサッカーの練習じゃなかった」


「そうだよ、普段ならな! 今日は大会の前日だから休息日になってて……クソ」


 彼はそう言い歯を強く噛みしめる。


「大会が始まってからじゃ確かめられないからって、来てみりゃあなんでいるんだよ。こんなっオッサンと一緒に」


「……確かめるってなにを?」

「なにってそりゃあ、噂、だよ。お前がここで、よくねーことしてるって……」


 俺は黙って話を聞くしかない。

 でも、わかった。他人から見れば俺達の関係は“よくないもの”だって。

 

「よくないこと、ね。例えば?」



 そしてもう一つわかったことがある。それは俺が自己中心的だってことだ。

 俺はいい。大人だ。そんなよくないものに触れる機会だって多いし、いざとなれば逃げられるし、責任だって取れる。

 でも、白月はどうだ。もし俺たちの関係がバレたらどうなる。

 未成年じゃ今の環境から逃げることなんてままならないし、責任だって取れない。

 行為の責任を取れないってことは、白月の後ろにいる親にも迷惑をかける。その親と白月はたぶん仲が良くない。下手をしたら亡くなっているのかもしれない。

 もし亡くなっていたら、その更に後ろにいる祖父母に迷惑をかける。運が悪ければ白月は少年院入りだ。

 そんな孫を見て、きっと祖父母はどうにかしてやろうと思うだろう。でも、一度道を逸れた人間が元に戻るのは大変だ。


 らしくない、ネガティブな想像が浮かんでくる。

 今まで俺は自分のことしか考えていなかった。自分が白月と付き合った時のこと、振られた時のこと、捕まった時のこと。そのどれもを自分の気持ちだけで判断していた。

 でも、そうじゃないだろう。

 相手が成人を超えているならまだいい、けれど未成年じゃ話は別だ。相手の将来を考えて、判断を下すべきだ。


 ……こんなこと友達を失ったときに反省したつもりなんだけどな……今回はまだ間に合うか。



「例えばって、オッサンと仲良くしているとか、そういうのだよ」


 例えば彼なんてお似合いだ。

 目の前にいる彼はクラスで冷やかされているだけあって、白月とはお似合いのように思える。

 なにより曖昧な噂を確かめるために、わざわざこんな場所に来るぐらいだ。


 きっと、白月のことが好きなんだろう。


「ふぅん」


 幼馴染という間柄でもある。

 白月もそんな相手から好意を持たれれば、そう嫌ではないはずだ。

 なにより俺と違って、後ろめたい付き合いをせずに済む。


 …………


 言い訳ばかりが心に降り積もっていく。

 いつかと同じように。


 …………


「それ、本当だよ。おじさんじゃなくて、お兄さんだけど」


「はぁっ! お前なに言って」

「別に危ないことはしてないから。……ほら、いくよ」


 自分の耳元で、天使がささやく。

 

「……お兄さん?」


「あ、ああ」


 間の抜けた返事をする。

 そのあと、白月が俺の腕を引っ張っていることに気づいた。

 その力に流されて、自分は歩いてしまう。


「それじゃあ、大会頑張ってね」


「おいっ、お前らどこに――ヒト多すぎんだろ!」


 一度人込みに紛れてしまえば、姿を隠すのは簡単だった。

 彼は俺たちを見つけられずに、焦っている声だけがぼんやりと聞こえる。

 きっと彼はよからぬ想像をしているのだろう。


 でも、安心してほしい。

 今日で終わりにするから。


 あとのことは任せた。と身勝手な願いを込めているうちに――




 ――見慣れた、ホテルの部屋に着いた。

 警察と会うこともなく、従業員に遭遇することもなく、無事に着いた。


 扉の近くから、薄暗い部屋を見回す。

 いくつもの備品類が俺たちに使われることを待っている。

 けど、もう使うことはない。丸いピンク色のベッドも、ふざけて使ったミラーボールも。

 ……三角木馬はそもそも使う予定はなかったけれど。


 自嘲めいた笑顔の自分が、全身鏡に映り込む。

 我ながら似合わない顔だ。そう思っていると、コートを脱いだ白月がこちらに戻ってきた。


「さっきはごめんね。変な雰囲気にさせちゃって」


「……いや、気にしなくていいよ」


 気にしなくていい。

 ここまで話を引っ張ってしまって、こちらこそ悪かった。

 でも、人の目がつかない場所でするべきだと思ったから。


「その割には、いつもらしくないよ」


 白月は冗談めかすように小さく笑う。

 そして「お詫びのマッサージするから、それで許して」と言って、ベッドの方へ行く。それを止めるために、白月の腕を捕まえた。


「ん、どうしたの? ……手、震えてるよ」


 そう言われて気づいた。

 優しく握ろうとして伸ばした手は、白月の腕を握るのではなく、触れるだけで終わっていた。

 そしてその手は笑えるほどに震えている。口では大きく笑えないから、手が代わりに笑ってくれているのかもしれない。


「話があるんだ」

 

 手の震えとは反対に、声はいつもと変わらなかった。

 けれど、


「この前のデートの話は無しにして欲しい」


 次に発した言葉は震えていた。

 

「え、お仕事とか入ったの」


 その言葉に首を横に振る。


「デートだけじゃなく、もう会うのはやめよう」


 ワイン色のカーペットを見ながら、理性が口を開く。  

 ――心の声には耳を傾けない。


「気にしなくていいよ。さっきのことを気にしてるんだよね」


 角の取れた優しい声が俺の決意を鈍らせる。

 けれど、俺のために、白月のために関係を終わらせるべきだ。

 

「――そうだ、気にしている。だってそうだろう。俺たちの関係は“よくないもの”なんだよ。

 金を渡して、貰って、別に性行為をしているわけじゃない。それでも警察がしょっぴくには充分な理由だ。

 なにより、他の人からみたらどうしようもなく不健全な関係でさ……」


「そんなの今更だよ。私だってそれぐらいはわかってたし、お兄さんだってそうでしょ」

「ああ……」


「それに他の人のことを気にしているなら、制服は着ないよ。私、よく大人っぽいって言われるから、制服を着なければバレないだろうし」


 あ、でもお兄さんは制服好きだったね。それなら、

 白月の言葉は止まらない。この子がこんなに喋り続けるのは初めてかもしれない。まだまだ知らないことだらけだと気づいて、それが幸せで……


 でも、そんな初めてを知る機会はもう、ない。


「……そんな今更のことだからこそ、大切なんだよ。背いちゃいけないルールってやつがあるんだよ」


「なに、いいたいの」


 白月が一歩だけ後退るのが見えた。

 表情はわからない。だから、言葉を続けられる。


「これ以上、仲良くなっちゃっだめなんだ。会えば会うほど深みにハマっていて、白月のことを不幸に……してしまう」

 

 そんなの、いやなんだ。

 その言葉が実際に出たのかは、わからなかった。


「……不幸とか幸福とか、そういうのは私が決めることだよ。いま私は――」


 聞けない! その先を聞いたら引き返せなくなる。

 その震え、心の衝動をそのまま吐き出す。


「俺を不幸にして! 白月を不幸にして! それでどうなる!? 

 俺たちだけじゃなくて、家族やその周りの人まで傷つけて、それでどうなる……? 俺だけならいいよ。でも――不幸にして、それがいやなんだ」


 震えている右手を左手で必死に押さえつける。

 もうわからない。口にしたことが本心なのかどうなのか。

 でも、わからなくても、別れるべきだという判断は間違っていない。


 間違っていないはずなんだ。

 口元を歪め、そして笑みをこぼしながら、口を開く。


「仕方がないんだよ……。社会がそう言っている。周りの人がそうだと思っている。なら、それが正しいんだ。そう考えたらさ、わかるだろ?」


「――わからないよ」


 薄暗い声が聞こえる。

 今までのふてぶてしい声が可愛らしく聞こえてくるような――堕落した天使のような声。……ああ、自分が思っていた以上に想われてたんだな。ごめん、もっと早くに気づければよかった。


「そもそも俺たちの出会いからして間違ってたんだよ。援助交際をしている女子高生とそれを買おうとしている厚顔無恥なサラリーマン。言葉にするとわかるよ。どこにでもある間違った関係だ、一夜限りのな。

 でも、そんな間違えた関係がこうも長く続くなんて、神様も驚いている。そして、きっと怒ってる。お遊びはここまでだって」


 薄ら寒い声が聞こえる。

 それがどうしようもない程に情けなくて、泣けた。

 けれど、現実では笑っている。終わりだ。


「だからさ、お遊びで済むうちに――」


「そっか。そうなんだ。お兄さんにとってはお遊びだったんだね」


 前の方からふてぶてしい声が聞こえる。

 聞き慣れた声なのに、背筋が凍るような錯覚を抱いた。


「ううん、違うな。お兄さん“も”お遊びだったんだね。よかった」


「……はは、そうだな。これで後腐れなく別れられる」

「だね」


 笑い声が二重に重なる。

 いつもなら嬉しくなる出来事が、今日は悲しく――こわかった。


「ねぇ」


 ひとしきり笑ったあと、尋ねるように聞いてくる。


「どうした? ホテルの料金はちゃんと払っておくから――」


「最後に言いたいことがあるんだけど、いいかな」

「……ああ」


 心臓の音がおかしくなっている。

 激しく木霊しているような、それとは逆に心臓を握り締められて、音を止めているような、矛盾した感覚が自身を襲う。

 

 理由はわかっていた。

 こうなってしまった原因や、白月が最後になにを言うのか。それについて考えたせいだ。


「じゃあ、言うね」


 ……


 ……


「お兄さんのこと大っ嫌い!」


「……っ」


「本当に嫌い……! どこもきらいだけどね、特に嫌いなのが“仕方がない”って諦めちゃうところ」


「それは、けどこの関係は仕方がなくてっ」


「……お兄さんは気づいてないのかもしれないけど、今回のことだけじゃないんだよ。口癖みたいに言ってること、知ってる? 今まではそんなに気にしてなかったけど、今日のでもう笑いたくなるぐらいに、嫌いになっちゃった。ふふ、そうやって彼女さんのことも“仕方がない”って諦めたのかな。だとしたら、謝って損しちゃったな」


 彼女さんに謝るべきだったよ、と言葉を続ける。

 耐えられなかった。黙って聞いていられない。


「いま……今彼女のことは関係ないだろう! そんなので別れたわけじゃない!」


「ふぅん、そうなんだ」


 興味なさげに言葉を呟く。

 それが俺の怒りの熱を高めていく。


「でも、仕事に関しては違うんじゃない。転勤じゃなくて、左遷させられてここに来たんでしょ? 

 運が悪くて、とか言ってたけど、その運の悪さだって、いくつもの仕方がないを積み重ねたからそうなったんだろうね。今の私にならそれがわかるよ」


「左遷っ、はぁー、そうさ! 左遷させられたんだよ、俺は! でもな、それを援助交際をしている女にそんなことを言われたくないんだよ。

 いくつもの仕方がないを積み重ねたから、飛ばされた? はッ。だったら、今ごろ中東のわけがわからない国で働いているだろうさ。まだ二十も超えてないやつには、わからないだろうけどな……全部が全部を諦めているわけじゃあない!」



 自分の言葉が全てだった。

 全部が全部を諦めているわけじゃない。

 それでも、いくつもの諦めちゃいけないものを諦めている。言い訳をして。

 

 それぐらい……それぐらい……!



「そうだろうね。私みたいな子には言われたくない言葉だと思うよ」


 白月は冷静にそう言ったあと、コートを取りに行き、羽織ってから戻ってきた。

 その数分間――俺はなにを考えていたのかを覚えていない。ただ、心が押しつぶされそうだった。


「…………」


 正面から自分の目をただ見つめてくる。

 赤い瞳から逃げるために、俺は顔を逸らす。

 目の端から小さく見えたのは、諦めの笑みだった。


 その顔のまま、白月は俺に――扉に――向かって歩いてくる。

 そして、


「だいきらいだったよ、お兄さん」


 優しい声が通り過ぎていく。

 その声が余韻を残したまま、扉の閉まる音が聞こえた……。



 


 

 ブラインド越しから溢れる、鈍い太陽の光が目にしみる。

 窓の光から目をそらしながら、自分の机にある固定電話を取った。そして適当な会社に電話をかける。


――あの日から二週間、ほぼ毎日、同じようなことを繰り返している。

外回りにいかないせいか足の筋肉が少し衰えて、腕の筋肉はちょっとマッチョ気味だ。ムキムキ。

 

「ええ……それは厳しいですか……わかりました。失礼します」


 そんなアホなことを考えているうちに、相手方から断られてしまった。

 

 プープー。


 と通話が切れるのを確認してから、俺は受話器を投げるようにして、置く。

 ……またアポイントが取れなかった。いや、そもそも取る気がないというべきか。


「はぁ」


 クビにされたい。

 だって今週の営業成績ゼロ! 先週の営業成績ゼロ! の人間だ。

 いつかと同じ役立たずな営業マン。もうダメ、仕事のやる気ナッシング。

 でも、このぬるま湯に浸かっていたい。


「あぁ」


 後悔している。あの日のことを。

 白月と会わなくなってからの二週間。ずっと似たようなことを考えている。

 どうしてあんなことを言ってしまったんだろうって。白月の将来が心配だったのは本当だった。

 けど、あんな“援交している女”とかそんな酷い言い方をして喧嘩別れする必要はなかった。


 はぁぁ。


 図星を突かれて、怒って、ダサいよな。

 俺ってなんなんだろう……白月の方がよっぽど大人の対応していた。

 なのに、俺ときたら社会がどうとか言ってさ……気持ちを誤魔化して。でもそれが間違っているわけじゃ。


「っ…………」


 頭おかしくなるぅぅう!

 俺がこんなことをずっと考えるなんて、ああもう! やっぱり好きなんです!

 くそ、もう会わない、なんて極端な方法じゃなく、もっと別の方法だってあったろうに。


 ああ、けどその方法を見落としてきたのは俺が――を積み重ねて――。


「暗いわね、プー太郎」


「いたっ」


 俺の頭が誰かによって、後ろから叩かれた。

 誰かといっても、会社で俺の頭を叩く人なんて一人しかいない。

 仕切りから顔を出し、左隣を見る。


「なんですか、田貫たぬきさん。今仕事中ですよ」


 丸いおばさん顔に抗議をする。

 といっても、自分が言える立場じゃないが。


「そうよ。その仕事中にため息ばっかり吐いてるから、気に障ったのよ」


 平坦な声で、容赦のない言葉がぶつけられる。

 

「しかも前みたいな野呂松のろまつ人形の顔に戻っちゃってるし」


 でた。その謎のたとえ。

 はぁ、でも暗いですよね。暗いよねー。はぁぁ。


「訂正するわ。前よりもずっと暗いわ。まるで呪いの人形ね」


「はっはは、まぁ周囲に毒をばらまくって意味じゃそうかもしれませんね」


 乾いた笑いが出る。

 だけど、なんでだろう。誰かに罵られると少し落ち着くな……。


「あんた浮き沈み激しいわね。失恋?」


 !


「ま、ないか。十代の乙女じゃあるまいし」


「……」



 田貫さんも十代の頃はこんな感じだったんですか? と聞きたかったけどやめた。

 白月は……どうなんだろう。傷つけてしまったんだろうか。傷つけてしまったんだろうな。

 自惚れじゃなければ、俺と似たような気持ちを持っていたはずだ。


 …………


 それにしても今年は浮き沈みが激しい。穏やかな人生はどこにいった。

 今年一年。ずっと浮いては沈んでを繰り返している気がする。

 違うな、ずっと沈んでいるだけだ。時々ちょっと浮くから勘違いしちゃうけど。



「失恋ね。ハイハイ。なら、甘いチョコレートあげるわ」


「なんでわかったんですか!?」


 仕切りの奥でガサコソとしている田貫さんに、つい叫んでしまう。

 声の大きさに周りの社員がこちらを見て呟く。「島流しが――」とか「――前のは奇跡だったな」とか。しれっと島流しあだ名が復活していて、俺は泣いた。


「表情がコロコロと変わるからよ」


 そう言いながら、田貫さんはチョコレートを渡してくる。


「そんなのでって、これ、俺が前にあげたチョコですか?」


 金色の包装紙に包まれたチョコを手にしながら、呟く。

 結構前にあげたから、もう全部食べたかと思っていた。


 俺の言葉に田貫さんは頷きながら、


「これを私にあげた時には、プー太郎、もう失恋してたでしょ」


「ま、まぁ……そうですね。どうしてわかるんです」


 あの日から三日ぐらいは普通の顔をしていたのに。

 ……一週間過ぎたあたりから、耐えられなくなったけど。


「失恋すると散財したくなるのよね。でも、買ったはいいけど使い道がないものを買ったりするから、誰かにプレゼントするみたいね」


 じゃないとこんな一個千円もするチョコを買わないでしょ。

 田貫さんはそう喋ったあと、黒いそれを口に含んだ。


「一応、最初からプレゼントする気でしたよ? いつもお菓子を貰っている、お返しとして」


 けど、田貫さんの言うことも間違いではない。

 お返しをするつもりはあったが、こんな一個千円――三十個入り三万円もするのを買うつもりはなかった。

 そして、そんな高いチョコを食べながら思った。あんまり美味しくないと。


 たぶんあの高そうな容器が本体なんだろうなぁ、と考えていたら、


「一個五円もしないお菓子に、なに金かけてんのよ。しかもそこまで美味しくないし」


 毒を吐きながら、普段食べているチョコを口にする。

 俺もついでとばかりにその食べ慣れたチョコを貰って口にした。

 やべぇ、こっちの方が美味しい気がする。自分の貧乏舌に震えていると、田貫さんが椅子ごと体をこちらに向ける。


 そして、


「けど、貰っちゃった事実は変わりないものね。その分、話ぐらいは聞いてあげるわ」


「た、田貫さん!」


 デレた。

 ……ちがう。この人、容赦のない言葉を使うだけで、すごく優しい人だからね。

 おばさんにデレられても嬉しくないんだよ! 白月カムバッァーーーーーク! と思っていたら、



「んん、二人共。今は仕事中だぞ」



 係長が来た。

 そうだよね、現実ってこんなもん。

 

「なによ、係長。これくらい構いやしないでしょ」


 田貫さんは椅子を元に戻しながら、係長を見る。

 見てくださいよ。このズケズケとした物言い。あらゆる役職の人間に対してこれだからおそろしい。

 流石に社長レベルの人間にはこうじゃないと信じたい。でも、幹部にもこれだからなぁ。

 ……だけど一番おそろしいのは、こんな物言いをしても誰も怒らないということだ。


 優秀だったらいいんですか! 先月の俺なら許されました!?

 仮に許されてもやる勇気は毛頭ないが。やっぱり田貫さんは格が違う。


「構わないけど、私にも立場があるんだよ。わかってくれ」


「はいはい。わかったわよ」


 そう言い田貫さんは黙りこくった――と思ったら、小声で「相談事があるなら言いなさいよ」俺に言ってきた。それに対して俺は「……ありがとうございます」と返した。相談してみるのも、ありだな。

 にしても、係長より田貫さんの方が偉いんじゃ、そう思っていると白髪混じりのオジサンかかりちょうがこちらを見て難しい顔をしていた。


「あの、どうかしましたか」


 だから、つい聞いてしまう。

 なんで聞いちゃうかな。このまま無視をして、仕事しているフリを続ければいいのに。

 

 自己中心的、か。


「……そうだね。中村君、今日は定時退社かい?」


「ええ、そうです。外回りの予定はないですし」


 ここ最近、会社にこもりがちだ

 ……今の俺に外は寒すぎる。


「なら、帰る前に私のデスクに寄ってくれ」


 思い詰めた表情をした係長はそう言い、去っていた。

 えっなにあの顔。今までの渋顔とは別物だ。なによりどういう用事が俺を待ち受けているのか。今のダメな状況から考えて……


「クビとか……?」


「んなわけないでしょ」


 俺の唖然とした呟きに、すかさず田貫さんからツッコミが入った。

 そしてそのまま仕切り越しから、


「仕事が少し出来ないぐらいでクビにしていたらね、係長も今ごろクビよ」

「……田貫さんは怖いものなしですね」


 しみじみと返事を返した。

 けど、クビ以外の可能性っていえば……反省会か。

 最近やっていないから忘れてたけど、毎週恒例のイベントだったしな。


「クビになるよりはマシか」


 といってもやっぱり憂鬱だ。

 そう思っていると、ポケットが震えた。何度も震えるあたり、電話らしい。

 俺は急いでスマホを取り出して、愕然とした。


 なぜなら――


晴海はるうみ 陽菜ひな


 ――昔の彼女の名前が、表示されていたのだから。

 

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