第16話 彼は同期と再会する
「先輩っ! お隣、いいですか?」
会社の食堂でカレーを食べていたら、近くから元気な女性の声が聞こえた。
センパイ……いい響きだよな。学生時代はなんとも思わなかったけど、社会人になって“センパイ”の価値に気づいたね。今は後輩から声をかけられても“さん”呼びが大半だからな。残念な事この上ない。
というか残念もなにも、今の俺に交流のある後輩はいないわけだが。
島流しはつらい……!
俺はセンパイと呼ばれた人が同性であることを信じながら、スプーンに入った最後の一口を味わった。
そして、食器を片付けようと立ち上がったところで、
「あっ、もうごちそうさましちゃったんですね……。残念です」
こちらを見ている女性社員の存在に気づいた。
席が二つ離れたところで、トレイを持ちながらしょんぼりとしている。
「えっ」
もしかして俺に対して話しかけていたのか。
俺は少し焦りながら周囲を見渡す。食堂の広さと遅めの昼休み、ということもあって、近くには自分ぐらいしかいない。
つまり、この愛くるしい女性社員を無視して悲しませたのは俺ということらしい。
それに気づいた瞬間、冷たい汗が背中を走る。
ひぇぇ、なんてことだ。これはマズイ!
なにがマズイかっていうと、最近マシになってきた俺の評判がまた下がる!
もう全方位島流しは勘弁だ。そう思いながら、急いで隣の椅子を引く。
「大丈夫! ごちそうさましちゃったけど、お隣は全然OKだから!」
そう言い再び椅子に座り直す。
「でも、それは悪いですよぉ」
可愛らしい声で、女性社員――おそらく後輩は、申し訳なさそうに言う。
そしてトレーを見つめながら、モカブラウンの髪を肩にしなだらせた。
「悪くないから。ね、座ろう」
俺は隣の椅子を軽く叩いて、女性社員を誘う。
このまま座ってくれ。ここでこの子を逃がしたらまた陰で島流しって言われそうで怖い!
「そこまで言っていただけるなら……失礼しますね」
俺の自己中心的で、悲しい叫びは無事に届いたようだ。
パンツルックの女性社員はオレンジ色のトレイを机に置き、自身も座った。
……格好からして内勤――事務職の人だろうか。営業の俺にどういう用事だろう。
「へぇ、パスタか。ここのって美味しい?」
緊張と不安、それと期待を胸に秘め、軽い質問をする。
多分この人とは初対面だとは思う。とりあえず俺は顔に覚えがない。
けど、万が一にも知り合いという可能性もある。その場合大変失礼なので、ここは様子を見よう。
慎重第一だ。特に会社では!
自身の肩身の狭さに胸打たれる物を感じながら、女性社員の返事を待つ。
「んー……そうですね、食堂のおばあちゃんが作ったカルボナーラ、って感じですっ!」
「あはは、そうなんだ」
おばちゃんが作ったカルボナーラ……?
どういう味なのか想像できなかったので、適当に返事をする。
「あっ、その顔はわかっていませんね。じゃあ百聞は……えっと、なんでしたっけ」
「百聞は一見にしかず、じゃなかったかな」
「わぁ、先輩は物知りですね! ではそういうことでどうぞ!」
そう言いお皿を持ちながら、パスタが巻かれているフォークを俺の口のあたりに差し出す。
これは、
!
あーんだと! 嘘だろ。初対面の男性社員にやるようなことじゃない!
も、もしかして俺が忘れているだけで、この人とフォーリンラブな関係だったりするのか。
いや、ないない。俺は頭に浮かんだ妄想を振り払う。
そして目の前のフレンドリーすぎる女性社員に「ありがたいけど、遠慮しとくよ」と断りを入れた。
「そうですか……」
俺の言葉に小さな肩を下げる。
なんだろう、この罪悪感。初めて見る顔とはいえ、明るい子なのはなんとなくわかる。そんな子が短時間にこう何度も落ち込むのは、とても申し訳ない。
う、うーん。ここは食べてあげるべきだったか。
……ちょっと、俺も勿体無いかなとは思ったんだよね。中々に可愛い子があーん、なんてしてくれるシチュエーション、そうそうないし。
でも自分には
俺はとりあえずこの子の正体を確かめようと、ストレートに質問することを決めた。
「もし知り合いだったら申し訳ないんだけど、君の名前を教えてくれる?」
丁寧に、そして優しそうな声で聞く。
「うー何回も会っているんですけど、覚えてませんか……。
なら、今度はしっかり覚えてくださいね!」
そして更に言葉を続けて、
「松野 みのりです! マツは松ぼっくりの松で、ノは野原の野です」
そう元気にキャピキャピと答えた。
にしても何回か会っていたか。どうして覚えていなかったんだろう。仕事のこともあって、人の顔と名前を覚えるのは得意なんだけど。
首元に手を置きながら、どこで会ったのかを尋ねた。
「ほら、
「あーはいはい! 思い出した。そっかぁ、いつも世話になってるな」
「そうです! お世話をしていたんですよ」
座ったまま腰に手を当てて、プリプリと怒っていた。
その可愛らしい仕草を見てどんどん松野さんのことが思い出されてくる。
うわ、この子とは下手すると両手の数以上に顔を合わせている気がする。どうして忘れていたんだろう。落ち込んでいたりしたからか。
「ごめんな松野さん。でも、事務の子が俺にどういう用?」
なにか書類に不備でもあった、と言葉を続ける。
それぐらいしか俺にわざわざ話しかける理由が思い浮かばない。
「そういうのじゃないですよ、先輩の書類に問題はないですから」
カールのされた毛先を揺らしながら、安心してくださいと胸を張って言った。
そしてそのあと松野さんは困った表情をしながら、フォークを再び手に取る。
そのフォークでくるくるとパスタを絡めとり――何かが決まったのだろう。
キリッとした表情をしながら、パスタを口元に運ぶ。
そして口を何度か動かしたあと、水を飲み、俺を見た。
「先輩にアドバイスして欲しいんです!」
「アドバイス……?」
予想していなかった言葉に戸惑う。
俺が松野さんにアドバイスすることがあるとは思えない。営業と事務じゃ仕事の内容がかなり違うだろうし。
「はいっ、先輩の噂はわたしも聞いています」
“噂”という言葉に心拍数が十は上がった。
ないと思いたいんだけど、この流れで島流し関連の話ですか……?
営業の人間は当然のように知っているけど、事務の人にまで噂が広がっているなんて信じたくない。
「営業のプロフェッショナルとか!」
「……俺が?」
自分を指さしながら確認をする。
確かに最近調子がいいけど、そんな大層なものじゃない。
「今月の営業成績が凄かったって聞きましたよ。二位の方と倍以上の差があったんですよね!」
「まぁ、それは確かに」
オレ、優秀だからね。それぐらいチョチョイのチョイよ。
……と言っても今までの社内ニートっぷりを考えれば、やっと帳尻があってきたような感じだ。
だけどここは喜んでおこう。会社でこんなキラキラとした瞳を向けられるの超久しぶり!
ついつい口元を緩めていると、松野さんが上目遣いをしながら口を開いた。
「あのぉ、それでですね、そんな先輩にアドバイスをいただけたらと思って」
この流れでアドバイスと言えば……
「営業のアドバイスってこと?」
俺の言葉に松野さんは首を縦に振った。
へっ、持ち上げられてからの協力要請か……。いくらでもアドバイスしてやるぜ!
「だけど松野さんって事務じゃなかったっけ」
僅かに残ったコップの水を流し込みながら聞く。
「そうです。けど、実は来年にでも営業へ移りたいと思って」
いま上の人と話し合っているんですよ、と言った。
「珍しいな。どうしてまた営業に移ろうと」
俺は顎に手を置きながら、松野さんのコロコロと表情が変わる愛らしい顔を見た。この子の明るさなら営業もこなせそうだが、事務から営業というのはあまり見かけない。
逆に営業から事務というのはそれなりにある。理由は悲しい場合が多いけど。
「そのぅ……恥ずかしいので秘密です」
チラリとこちら見たあと、頬を赤く染めながら言う。
これは……!
★
『センパイのことが好きなんですっ!』
『会社で見かけるたびにドンドンと気になって……もう我慢できないんです』
『センパイと少しでも一緒にいたいから転属届けも出しちゃいました!』
『でも、きっと、それだけじゃ我慢できなくなっちゃいますぅ』
『だから、プライベートでもよろしくお願いしますっ!』
★
ふぅー! なんて!
なんならプライベートでもアドバイスしちゃいますよ!
……うん、これ以上の妄想は止めよう。我ながらオジサン臭い言葉が出てきてしまった。
「あの、それでもし良ければ明日とか会えませんか? お休みの日ですから、街でご飯でも食べながら」
あ、あれ、もしかしてこれ妄想が現実になる流れ……?
まさかなとは思いながら、ちょっとテンションが上がってくる。
でも明日か、ハッキリとした用事はない。だけどなぁ。
「大丈夫なんだけど、大丈夫じゃないというか」
明日は土曜日だ。
ここ数ヶ月の流れで言うなら、白月に技をかけてもらう日になりつつある。
最近は日曜日もしてもらっているが、基本はやっぱり土曜日な気がする。
その基本を崩すのは順風満帆な流れを壊すハメになる。
なにより連絡手段がないから、下手すると白月は待ちぼうけだ。
って言っても俺がいなければ他の誰かを捕まえるだろうが。
……それに俺がただ白月と会いたいという気持ちもあった。
これが恋心かどうかはまだわからないけど。
俺が頭を悩めていると、松野さんが口を開く。
「もし土曜日が難しければ、別の日でも――」
「中村くん、ちょっといいかな」
松野さんの可憐な声は、枯れた男の声でさえぎられた。
ふぅ、随分なタイミングで声を掛けてくるな。俺は松野さんに頭を下げたあと、後ろへ体ごと振り向く。
「はい。どういった御用でしょうか、係長」
眼鏡をした白髪混じりの係長に返事を返す。
最近はこの人と話す機会もかなり減った。昔はことあるごとに反省会が開催され、説教もとい本社への愚痴を聞かされていた。
けれど、俺が成績を上げてからはなにも言われなくなったし、攻撃的な言動じゃなくなった。その代わりに俺を見ると大抵渋い顔をするわけだが。
この人はなにを考えているんだがまったくわからん。
特に害はないけど、案件の報告とかをする時も今みたいな渋顔を披露する。そしてその顔で「そうか……次もその調子で頼む」と言うだけだ。他の人が案件を成功させると穏やかな笑顔をしながら「よくやってくれたね。次もその調子で頼むぞォ! ははは」みたいな感じの対応なのに。
情報通の
つまりはだ、なぜここまで対応に差があるのかという話だ。
嫌われているのはわかるが、理由がさっぱりだ。プー太郎時代のイメージがいまだに残っているんだろうか。
……どうでもいいな! 定年間近のオッサンに嫌われたところで問題ないし。
けど、俺に何の用だろう。無難に考えたなんかの業務連絡だとは思うが。
「話がある。食事は――済ませてるね。なら、私のデスクまで一緒に来てくれ」
そう言い、返事を聞かずにスタスタと歩いていく。
なんの話だ。ここじゃできない話ということか。特に問題はおこして――白月との関係がバレたってことは――ないな。他のなにかだろう。とりあえず急ぐとするか。
「そういうことだから、松野さん。ごめん! 話はまた後日で」
俺はトレイを持ち、椅子から立ち上がる。
松野さんはしょんぼりとした顔で「わかりました……」と言う。
それを尻目に食器返却口に行こうとしたところで――
「お急ぎですよね。でしたらトレイはわたしが片付けておきますのでっ!」
「……それは、いやありがとう。頼むよ」
俺は松野さんの言葉に甘えてトレイをテーブルに置き直したあと、係長の背中を追った。
「係長と何を話していたの?」
係長との話を終え、自分の椅子に座ったところで隣から声が聞こえた。
低いおばさんの声だ。おそらくこの支社で一番耳にしている声。
俺は気持ちをリラックスさせながら返事をする。
「明日俺の同期が自分に用があるとかなんとかで、ここに来るみたいなんですよね。ということで自分は明日の土曜日もめでたく出勤ですよ」
手を広げながらうんざりとした声で言う。
ここ数週間、土曜日をまともに休んだ記憶がない。
「ご愁傷様ね。はい、これ」
仕切りからひょっこりと現れたタヌキ――もとい
にしてもこの人とよく会話するようになってから毎度のごとくチョコをもらっている。そろそろお返しでも買ってこなきゃなと考えていると、
「それで他にはなかったのかしら」
聞きなれた平坦な声で田貫さんが尋ねてくる。
ほかって言われても話すことがない。同期が自分に用事がある以上の話はしてくれなかったし。
係長の顔を見るかぎり、あの人は用事の中身を知っているようだが。
「うーん、特にないですかね」
「あら、そう」
俺がそう言うと残念そうに顔をしかめた。
この人はまだ納得していないのか。俺はため息をつく。
「手の平を返さないないなんて、おかしいわ」
「もう、いいじゃないですか。俺は特に気にしてませんし」
係長の態度が一向に変化しないことをヤキモキしているらしい。
というより単純に自分の予想が外れて悔しいのだろう。田貫さんは優秀だけど、意外と子供っぽいことを最近知り始めた。
「だって今のプー太郎の成績で、なんとも思わない人はいないでしょ」
確かに、とは思う。
実際俺をあだ名――島流しプー太郎で呼ぶ人はもうほとんどいない。
あれだね、ちゃんと名前で呼ばれるって幸せなことだってここに来て気づいたよ。
「おかしいわ……」
田貫さんのそんなつぶやきを尻目に、俺は明日会う同期のことについて思いを馳せた――
高層ビルの中にある落ち着いたお店。
いくらか年老いた人間が好むような居酒屋で、懐かしい人間と顔を合わせていた。
「にしても男二人で個室ってのも気持ちがわるいな!」
快活な笑みをこぼしながらそう言った。
元から声の大きな奴だったけど、以前より更に声量が増した気がする。
「大輝、お前が選んだんだろうが! けど、らしくないチョイスじゃないか」
彼が好む店といえば大声を出しても許されるような大衆居酒屋だ。それとビール一杯が安いお店。
だがここの暗い照明や店内の静けさ、それにメニューの料金を見る限り、彼の好みとは真逆を行くようなお店だ。一年も会っていなかったし、単純に好みが変わっただけかもしれないが。
「だろ? 俺もカミさんにそう言ったんだけどさ」
話が話だからちょっといい場所にしておけって、と言葉を続けた。
顔からしてここの店は不満だったらしい。よかった、性格はあまり変わっていないみたいだ。
「なるほどね。でもわざわざ改まってどういう話だ?」
こいつは確か海外の子会社で働いていたはずだ――社長として。
「もう聞いちゃうか! でもまぁ重要な話だしな。思い出話はあとにするか」
大輝はそう言いジョッキのビールを飲み干す。
そしてジョッキを勢いよく置き、口に泡をつけたまま衝撃的なことを口にした。
「信太郎! 俺の会社――シンガポールに来ないか?」
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