第13話 彼と彼女の個室談義

 てっちゃんが経営しているこの居酒屋は決して大きくはない。

 だからカウンターと廊下で温度が一定でもおかしくはない。

 

 けれど残念なことにカウンター付近と廊下では温度差がそれなりにある。酔っている時とかマジヤバイ。あれ、なにを考えていたんだっけ。そうだ、要するに今いる廊下は寒い。原因は窓の隙間から冷たい風が入り込んでくるからだろう。


 粘着テープでこのスキマを埋めようかと考えていたら、手洗い場の扉が開いた。


「ふぅ。……どうしたの、こんなところで」


 刺繍の入ったハンカチで手を拭いながら、白月しらつきは不思議そうに尋ねてきた。

 そして少しの間を置いたあと、更に言葉を続ける。


「ここにいる理由なんてひとつしかないね。お待たせ、男女一つずつあるといいのに」


「それは確かに。って用事はそれじゃないから」


 手を横に振りながら答える。

 つい同意してしまったけど、別にトイレに行きたいわけじゃない。

 

「こっちにカモーン」


 俺は手招きをしながら、白月を新しい部屋へと案内した。




 そして目的の場所へ着いたところで、ふすまを開ける。

 すると、畳のいい匂いが俺の鼻をくすぐる。久々だな、実家の時以来だろうか。


「靴は部屋に入る前に脱いじゃってね」


 俺は靴を床の奥にしまい込みながら、白月に説明する。


「わかってる。だけど、どうしたの。ここ」


 さっきの席に戻らなくていいの。という声に俺は耳を澄ませてみ、と答えた。

 まだやっているっぽいし。

 

 …………


『若い二人をからかって。奥さんには連絡しときますからね』 


『てっちゃん!? それだけは勘弁してくれ!』


 …………


「というわけ」


 俺は肩をすくめながら口を開いた。

 けんちゃん、奥さんには尻を引かれるタイプか。彼をセーブできなんて、相当に胆力がある人なんだろう。


「なるほどね」


 白月も俺と似たようなポーズをしたあと、靴を脱ぎ始める。


「許してやってくれ。あの頭がツルツルな人も悪気があったわけじゃないからさ」


 普段は良い人なんだよと言いながら、俺は小さな個室に足を踏み入れる。

 くぅぅ、たまらん。革靴を脱いだ開放感と畳のひんやり感が気持ちいい。

 あー部屋もあったかいし、言うことないな。


 俺は隅に置いてあった座布団を二枚取り出し、テーブルの左右に置く。

 そして一方の座布団に腰を落ち着けた。


「気にしてないよ。親戚のおじさんもあんな感じだし」


 ふすまを閉める音と同時に白月が返事を返す。

 確かに親戚のおじさんっぽいよな。けんちゃんって。あのフランクさと無神経さが……ごほんごほん。

 

 俺は失礼な考えを振り払い、机に置かれたメニュー表を開く。

 さてと、なにを食べるとするか。まだ枝豆くらいしか食べてないからな。


「よし、俺はこれに決めた! 白月はどうする?」


 テーブルに置いたままメニュー表を差し出す。

 その時に気づいたが、かなり距離が近い。手を伸ばさなくても白月の手に当たるぐらいには。しかも真正面で向き合っているから、なんか照れくさいぞ。


「海鮮丼、結構おいしそうだね」


 俺が注文しようとした食べ物に白月も興味を持ったらしい。

 視線を白月から逸らしながら「多分おいしいと思うよ」と答えた。


「食べたことないの? なんか常連さんっぽいけど」


「ないない。普段はつまめるものばかり食べてたから」


 なめ茸とか、なめ茸とか。

 ……思い出してたら食べたくなってきた。注文しとくか。


「なるほどね、お酒飲むんだもんね。今日も気にせずに頼んでいいよ」


 メニュー表をささっと流し読みながら白月がそう言う。

 飲みたいのは山々だが……

 

「さすがに未成年の前では飲まないさ」


「未成年にあんなことをさせてるのに?」


 ふぅっー!

 中村選手にクリティカルヒット!


「ひゅーひゅーひゅー」


 俺は口笛を吹きながら必死にごまかす。

 そういえば子供の頃に食べた笛ラムネ、好きだったなぁ。


「まぁ、持ちかけた私が言うのもおかしいね」


 そう言いながらメニューを閉じ、私も決まったよと言った。

 俺はその言葉を聞くやいなや、ふすまを開け「てっちゃん、カモーン!」と言った。


「それで、白月はどれにしたの?」


 海鮮丼は高めの商品だからな。仮に白月が遠慮して安い物を選ぼうとしても、それなりに幅があるはずだ。

 この子は大胆不敵な行動とは裏腹に、意外と気を遣う子だからな。少しは配慮しないと。


「私もお兄さんと同じ海鮮丼。小さいのだけどね」


「なにぃ! 小さいのだと。ここは大盛りでいこう!」

「いいの。大盛りなんて食べきれないから」


 そう言い白月は立ち上がり、ハンガーにコートをかけた。

 そうだ、俺もスーツを脱ごう。暑くなってきたし。


「お兄さんも脱ぐの? なら、私がやるよ」


「おお、こりゃどうも」

「なにそれ。おじさんみたい」


 俺の返答がおかしかったのか、クスクスと笑う。

 そんなにおじさんっぽかったかなと思いながら、スーツを渡す。

 うん……なんかいいな。何がいいとは言いませんけど。


 新婚さんみたい! という感想は心の中に閉じ込めて、席に再びつく。

 座布団の感触も久々な気がする。程よい柔らかさだ。



「……ごめんね」


「へっ?」


 俺が早くお茶運ばれてこないかなと思っていたら、白月が唐突に謝ってきた。

 誰に対して謝っているんだろう。俺ってことはないだろうし、でも俺以外ここにいないし。

 もしや幽霊がここに! とバカげたことを考えていると、


「彼女、いたんだよね。それで落ち込んでたって」


 白月が座布団にちょこんと座ったあと、俺の目を見ながら言った。


「……いたね。彼女。もう四ヶ月以上前の話なんだけどさ! 付き合ってた子がいて、大学時代のゼミの仲間でこうなんかいい関係になったんだけどね」


 理路整然。という言葉に喧嘩を売るような内容。

 誰の目から見てもかなりテンパってる。もう完全に振り切れたかなぁなんて思ってたんだけど。そういうわけにはいかないらしい。首元に手を置きながら、適当に気持ちをごまかす。


「そっか。大学時代からってことは結構長いよね。ごめん」


「ちょっ、どうして白月が謝るの」

「ほら、あの時に言ったじゃん。私のこと“好きな人の名前で呼んでもいいよ”って。別れて傷ついてる人に言う言葉じゃなかった」


 目を伏せながら、淡白に――いや、申し訳なさそうに言う。

 それを見て俺は、


「はははっ!」


 笑ってしまった。


「……どうして笑うの」


 見慣れたジトっとした目、ふてぶてしい声で俺に尋ねてくる。

 いやぁ、だってねえ。そりゃ笑う。


「俺は全然気にしてないって。だって今言われて思い出したぐらいだし」


 笑いをこぼしながら、俺は答える。


「それになんか白月が俺に対して謝るっていうのがさ、それだけでおかしくって」


「……お兄さんが私をどう見てるのか、よくわかったよ」

「いたっ。足を踏まないで!」


 小さなテーブルの下では激しい攻防戦が行われていた。

 逃げる俺、踏み潰そうとする白月。こんな場所でも俺は攻勢にたてないらしい。


「ごめん、ごめん。白月はいい子! いい子だからやめて」


「…………」

「さっきよりも激しくなってる!?」


 子供扱いされたのが気に食わなかったのか、攻撃は終わらない。

 ここは逆転の発送が求められる場面か。ならば!


「わかった。白月は悪い子だ。だからもっとしてくれ」


 効果覿面こうかてきめん。動きはピタッと止まったかに思えたが――


「なんかむかつく」


 ――の一言により攻撃はまた始まってしまった。

 果たしてこの不毛な戦いはいつまで続くんだろうか、大の大人が必死に足を動かしながら、考えていると、


「失礼致します。先程はウチの主人とけんちゃん――その友人がご迷惑を。って、あら」


「「あっ」」 


 ふすまを軽く叩く音が聞こえたあと、着物を着た美人さんが現れた。

 そして俺たちの行動を見て、にっこりと微笑みながら「注文はいかがなさいますか」と尋ねてくる。これがプロのかがみである。

 俺と白月は互いに視線を天井へとさまよわせながら注文をするのであった。まる。




 素材本来の味を楽しむためには、塩も醤油もかけずに食べるのが一番かもしれない。でも別に素材本来の味を楽しみたいわけではない。

 だから、俺は海鮮丼に醤油を容赦なくかける。

 なんにせよ自分にとって美味しく食べられればそれでいいのだろう。


「刺身で食べるのとはまた別の美味さだな」


 白く艶めくイカを口にツルッと運ぶ。

 細く切られたそれは、ピチピチしてて美味しい。


「ん、おいしいね。そういえばお兄さんって大学行ってたんだよね?」


 白月は醤油皿に白身魚を少し浸しながら、聞いてきた


「ああ、行ってたよ」


 大学かぁ。楽しかった記憶が大半だ。

 でも四年時の、特に就活が終わったあとは黒歴史だ。

 彼女が出来たのは喜ぶべきところだったけど、もうあれだからな。


 俺は心の中でため息を吐き出す。


「そうなんだ。大学ってどういう感じなの。楽しいもの?」


 ふわりとした質問が飛んでくる。


「楽しかったよ。ゼミとかサークルとかね。あーでもゼミはまた辛いところもあったけど」


 特に卒論な。あれはもう顔も見たくない。


「そういえば、白月はもう進学のこととか考える時期だったりするのか」


「まぁそうかな。だから、大学のこととか聞きたくて」

「よしっ、なら人生の先輩として話をしようじゃないか」


 俺は適当に話すことを頭の中でまとめる。

 やっぱり高校生が気になる話と言ったら、ゼミとサークル、それに学食の美味さだろう。あとは……話している内に思いつくかな。


「そうさな、俺はサークルにめっちゃ所属してたね」


「へぇ、どれくらい」

「十以上かな。といっても大半が幽霊状態だったけど」


 ガリをつまみながら思い出にふける。

 大学かぁ、もう随分と昔の話のように感じる。


「そんなに入れるものなんだ」


 白月は目を少し大きく開き、驚いていた。

 

「部活と違って上限がないからな。誘われたらとりあえず入ってたよ」


 見境なく入ってたせいで、宗教系のサークルに巻き込まれたこともあったな。

 あれは一歩間違えると危険だった。


「その中で一番のお気に入りはビリヤード・ダーツ愛好会!」



 はっ……!

 俺は言葉を発したあと、墓穴ぼけつを掘ったことに気づいた。



「ふぅん、ダーツやってたんだ」


 だからあんなに上手かったんだね。と冷たく言う。

 さっきゲームセンターで見せた尊敬の眼差しは完全に消え去っていた。

 

「べ、別にウソはついてないから」


 どもるオレ。

 他のサークルの名前をあげておけばよかったと反省。

 例えば海外交流とか。あれもそれなりに行ってたからな。就活の時はアピール欄でこればっかり使っていた気がする。


「まぁいいけど。恥ずかしい話をするって約束、忘れないでね」


「……はい」


 恥ずかしい話か。いいのが思い浮かばない。

 ちょっと迂闊な約束をしたかなと思った――――




 ◇

 

 

 

「ウソだろ……」


 ゲームセンターの騒音なんてまったく耳に入らなかった。

 白月と俺の三本勝負。この子が勝てば飯をおごり、俺が勝てばワックの制服を着てもらうという、熾烈はれんちな戦い。

 俺が勝つだろうと当初は思っていたが、終わってみれば自分の三連敗で勝負は終わった。まさかの完敗だ。


「これで私の勝ちだね。さ、ご飯食べにいこ。お腹すいちゃった」


 一戦目のシューティングゲームでの敗北はまだ納得できた。

 でも二戦目、三戦目の格闘ゲームで負けたのは信じられない。

 「弟と一緒にやってたから」だって!? 俺は高校生の時からやり込んでたんですけど!


 くそっ、ここで諦めるしかないのか。

 いや、まだだ。ここで諦めるなんて出来るはずがない。

 俺は戦い続ける。制服のために!


「まっ、ちょっ、もう一回勝負! 格……じゃなくてあのダーツで」


 ゲーセンの外へ行こうとする白月を呼び止めて、ワンモアチャンスを求める。

 本当は格ゲーでリベンジマッチを果たしたいけど、無理。俺の苦手なキャラばっかり使うんだもん!

 心を幼稚園生に戻しながらも、判断は冷静に。これが大人というやつだ。手段なんて選んでられん。


「……私に得がないと思うんだけど」


「なんか条件出してくれていいからさ」

「そうだね、それならいいよ」


 そしてこのあと、勝っても負けても俺が恥ずかしい話をするという条件のもとに一回限りの勝負が開始された――

 そこで見事に自分がダーツのど真ん中を三回投げ当て、勝利した。あの三回当てた時の白月の輝く目は凄かったね。俺が偉い人になったかと思ったぐらいだ。

 

 そんな尊敬の念も――




 ◇


 


 ――今では「大人って汚い」という目に変わっているわけだが。

 

 なんとかここは大学時代の話で挽回しよう。といってもサークルの話はあらから話し終えてしまった。なにを話そうか迷っていたところで、


「そんなにサークル入って大変じゃなかった。人間関係とか」


 白月から質問が入った。

 ありがてえ、さすが白月様だ。困った時には手を差し伸べてくれる。

 

「大変か」


 俺は言葉を発したあと、水を口に含む。

 そして少しだけ思い出にふける。


「うん、大変というか面倒なことはあった! でもそれ以上に楽しかったかな」


 白月の澄んだ瞳を見ながらそう言った。


「なんて言うんだろうな……高校とは世界がまるで違ったかな。

 ビリヤードやダーツ、それにラクロス、ギターと海外交流……どれも俺が所属していたサークルなんだけど、大学に入るまで全く関わりのない物というか人ばかりでさ。最初は抵抗感みたいなのがあったんだけど」


 でも、と一度区切り、


「実際にやってみたり、交流してみたりすると楽しいんだよな、これが。

 ああ、もちろん全部が俺にあったわけじゃないよ。人とかも含めて」


 白月のいぶかしむ視線を受けて、言葉を補足する。


「特にあれがダメだったな、料理研究愛好会」


 俺はしみじみと言う。


「ダメって、料理が上手くならなかったとか?」


 白月はデザートのイチゴをついばむ。

 口があまり大きくないのもあってか、小さいのばかり食べていた。

 いや、もしかしたら知っているのかもしれない。イチゴは小さいほうがおいしいということを。

 やるじゃないかと勝手に感心しながら、大きなイチゴを食べる。うまし。


「それもある! でも、そこじゃないんだよな」


 俺は手を横に振りながら答える。


「その料理愛好会なんだけど、女ばっかりいてさ」


 そう言ったところで、白月がオチは読めたぞという顔をした。

 多分想像の通りだろう。


「まぁ多数決の法則的な、そんな感じで女が男をこき使うような環境なわけよ。

 三ヶ月ぐらい所属してたんだけど、料理を作った回数はわずかの一回! 他は全部雑用!」


 これのせい……? もあって、俺の料理のレパートリーは野菜炒めぐらいだ。

 料理のできる男がもてはやされる昨今、非常に時代遅れの存在になってしまった。

 

「うわ、よく三ヶ月もできたね」


「俺もそれは思う。でもなんかこう料理愛好会にいる男たちを見てたら、これが正しい姿なんじゃないかと錯覚しちゃって」


 だって俺以外の男はみんな雑用を嬉しそうにやっていたからな。

 振り返ってみるとあれがドM男子なんだろう、おそろしい。

 今の俺の状況はあれだな。考えるのはやめよう。うん。


「ごほん、えっとこんなサークルとかもあったりするけど、基本は楽しい! これは間違いない!」


 ただ、と言葉を続ける。


「自分から踏み込まないと楽しめないかもしれないかな。といっても俺の場合はなにかをやる大半のきっかけは友達に誘われてだけど」


 俺は恥ずかしさを誤魔化すために、頬をかく。

 まぁそんな友達たちも、もういませんけどね! という悲しい事実は黙っておいた。あんまりこの話には関係ないし。


「白月はなにか好きなこととかやりたいことはある?」


 静かに話を聞いている白月に聞いてみた。

 思い出話をしていて俺だけテンションが上がってしまったからな。ここらで落ち着こう。


「……私は特に、ないかな。プロレスとかを見るのは好きだけど」


 俺から視線をそらしながら、そう答えた。


「そっか! なら、色々とやってみるといいかもね。色んなのをやってみれば絶対に好きなのは見つかるから」


 俺にとってのダーツとか、と付け加える。

 すると、なにかを考えるようにグラスを眺めたあと、


「ん……参考にするね。ありがと」


 俺を見て頷いた。


「どういたしまして。ちょっと話しがずれちゃって悪かったね。あっ! そうだ、ゼミを選ぶ時は――」


 俺が色々と苦しんだゼミ選びの忠告をしようと思ったら、白月が小さく笑いながら「そんな先のことは覚えていられないよ」と言われてしまった。それは確かに。最後のイチゴを口に運びながら、納得した。




「じゃあそろそろいこっか。制服好きのお兄さん」


 ご飯も食べ終わり、腹も休まったところで、白月が声をかけてきた。

 

「制服好きはやめてくれ」


 俺は口をすぼめながら机に置いた腕時計を手にする。

 

「ふぅん、この前はホテルの従業員に堂々と言ってたのに」


 それでも否定できるんだ、と言われてしまった。


「うっ、あのことはできれば忘れていただけると……」


 結局、従業員が室内に入らなかったから警察沙汰にはならなかった。

 でも落ち着いて考えると「制服プレイしてました!」とか言う必要がまるでなかった。

 「まだ延長しまーす」の一言で全て解決してたからね、あれ。我ながら冷静さの欠片もない。


「無理だよ」


 そう一言で断言し、


「だってあれのおかげで、世の中にはこんな変態もいるんだな。って感心したし」


「感心するようなところじゃないから!」


 嫌なところを感心されしまった。

 でもだ、変態という部分を除けば……



 “女子高生に感心される大人”


 

 となって立派な人間に見える! よしっ、これでいこう。

 俺は記憶を捏造しながら腕時計をはめる。部屋が暖かったおかげか、金属バンドは冷たくなっていない。

 ここが冷たいと結構ドッキリするんだよな。このショックで死んだ老人がいてもおかしくはないと思う。


「今日は普通の腕時計なんだね」


 白月は座布団から立ち上がったあと、俺を見下ろしながら言った。

 見下ろすか……なんだろう。白月には見上げられるより見下ろされている方が落ち着く。

 なんて! 多分気のせいだろう。一瞬わいた安心感を振り払いながら、口を開く。


「仕事の時にあの女物の時計はな」


 苦笑いしながら俺も席を立つ。

 仕事用とプライベート用、わざわざわけるのも面倒だが、仕方がない。

 まさかあの柄の時計を取引相手に見せるわけにはいかない。……ウケ狙いとしてはありか。


 今度やってみようかなと考えていたら、


「私はあっちの方が好みかな。なんかお兄さんに似合ってるよ」


 真面目な声でそう言った。

 女物が似合うと言われて少し複雑だけど、やっぱり嬉しいな。


「ありがとな。実はあれ母親が就職祝いでくれてさ。その時から使ってるんだ」


 まぁ親は女物だと思わずに買ったみたいだけど、と髪を掻きながら答えた。


「……いいお母さんだね」


「白月みたいな子に言われたら母親も満足だろうさ」


 母親。という言葉を使ったとき、一瞬、白月の表情が曇ったような気がする。

 すぐに元の表情に戻ってしまったが。ここは話題を変えるか。

 

「今日は星のペンダントをしてるんだな」


 白月の透き通った首元を見ながら言葉を出す。

 

「まぁ……うん、たまたまね」


 たまたま。そう、あのペンダントを見たのは今日で二回目だ。毎回つけているわけじゃない。アクセサリーなんだし、そんなものだとは思うけど。


「誰かからの贈り物だったりする?」


「っ。……お兄さんと似たような感じ」


 そう言いペンダントを服の中にしまいこんだ。

 ……どうにもデリケートな部分らしい。間違っても子供っぽくて、白月には似合ってないな。ははは。

 とか言ったらマズイ。そんな空気が漂っている。


 今の俺にどうにかできる問題じゃないだろうし……そう思いながらスーツを着込む。


「よしっ、じゃあ今日もお願いします! ご飯はおごるから!」


「これでおごらないって言ったら、私帰るからね」

「それは堪忍してくれぇ」


 俺の情けない声に白月はクスリと笑う。

 笑い声によって気まずい空気は消え去っていった。これで、いいだろう。

 白月と俺の関係からしてデリケートな話には踏み込まないのが正解なはずなんだ。


「……仕方がないだろ」


「どうしたの? 早くいこ」


 いつの間にか靴を履き終えている白月を見て、俺も急いでふすまの方へ行く。


「廊下さむっ。この格好で外出たらヤバイ?」


 って返事を聞くまでもないか。

 自分のよれたスーツを眺めて身をすくませた――


 


  

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