80.クライム・ヴレイズ・クライム!!
ヴレイズが絶壁の前で唖然としている一方、ラスティー達はわき目も振らずに馬を奔らせていた。アリシアの愛馬は中々、ラスティーに懐かなかったが、彼女の匂いを感じ取ったのか、今は大人しく彼の手綱の命に従っていた。
ラスティーの背中に身を預けるエレンは、彼らの身を案じながらも目の前の事に集中しようと考えを巡らせていた。
「ラスティーさん……右脚は……」
彼の身体の治療はほぼ完了していたが、右脚は別だった。無造作に引き千切られたため、治りがとても遅く、まだ痛々しく傷痕が残っていた。神経や骨など、ついてはいたが、まだエレンの治療を必要としていた。
「今はそんな暇はない……」ヴレイズの想いに応えようと、激痛走る右脚のシグナルを無視し続ける。
「言っておきますけど……その足は以前のヴレイズさんみたいに直ぐには治りませんよ……」ヴレイズも手足を切断されたが、その時は鋭い真空波で斬られたため、治りが早かった。
「わかってる……」足先の感覚を味わいながら返事をするラスティー。
「こんな足で山を登ろうとしたんですか? 2人を背負って……」
「あぁ……」
「らしくありませんね」
「そうだな……余裕がない証拠だ……」苦しそうに答え、手綱を振るう。
「久々にカウンセリングしましょうか? 今夜休むと気にでも……」
「エレンこそ、参ってそうだが……そんな余裕あるのか?」
「……せめて、今後の作戦を先に聞かせて下さい」
エレンは馬上の沈黙が不安だった。それ故、無理やり彼に度々話しかけ、余裕を少しずつ作っていた。
沈黙が続けば続くほど、ラスティーが心で背負っている物に押しつぶされそうになっていると感じ取っていた為だった。これが今の彼女に出来る、ささやかな治療だった。
「……ありがとう、エレン」振り返ることなくボソッと口にする。
「礼を言うのは、無事辿りついてからです」
「参ったなぁ……登山とは聞いていたが……」絶壁を端から端まで見渡し、弱ったように頭を掻くヴレイズ。絶壁の上は雲に飲み込まれ、その向こう側で何が待っているのか、まったくわからず、不安に飲み込まれそうになる。
しかし、彼の背中で戦うアリシアの鼓動を感じ取り、迷っている時間が無いと己に言い聞かせ、岩肌を掴む。
すると、それを拒む様に強風が吹き荒れる。
「くそ、自然は俺たちの敵か?」片手で目を押さえ、風が止むのを待つ。
すると、顔に何かが乱暴にぶつかり、それを手に取る。
それは掴みやすい太さのロープだった。そのロープは天空から一本だけ垂れ、風で揺れていた。
「いや、味方、なのかな?」首を傾げ、ロープを強く引っ張る。千切れる事も、力なく落ちる事もなく、ヴレイズの体重を支えた。
「……本当にこの上なんだよな? よし……アリシア、もう少しの辛抱だぞ」
ヴレイズは今迄使わずにとっておいた魔力をここで使い始めた。エレンから託された魔力を全て体内に巡らせ、炎に変えて奔らせる。そのよく練られた炎は胸から両腕に廻り、力強く動く。
すると、今まで頼りなくしか動かなかった両腕は、万全な頃の様に頼もしく動き、ロープをがっしりと掴んだ。
「集中を切らさなければ……大丈夫……俺ならいける!」
死にかけの身体は体内の炎の力で一時的に蘇る。クラス3.5の力を応用し、まともに動けるようにはなった。
しかし、この持続が切れれば、また瀕死の身体に戻ってしまうのだった。
彼がこのクラス3.5を持続できる時間はおよそ30分、派手に動かなければ1時間は持たせることが出来るまでに成長していた。
だが、この絶壁は1時間やそこらでは登れるほどの高さではなかった……。
「いくぞ……! 俺ならやれる、俺ならやれる!!」
ヴレイズの決意から1時間、絶壁の120メートル地点。意外にも、彼の心中には余裕があった。手の皮膚はズル向け、一度落ちかけて岩壁に爪を持っていかれ、血を流しながら登っていた。
だのに、彼の頬から笑みが零れていた。
何故なら、体内の魔法循環が思ったより上手くいっていたからだった。
いつもは激しい戦闘の時しか使っていなかったため、体力と精神力の消耗が極端であった。だが、今はただアリシアを担いでロープを登るだけだった為、予想よりも長く精神の集中が出来た。
「よし、段々わかってきた……こりゃクラス4になる日も遠くないか?」
だが、調子に乗れば足元を掬われるのが世の常である。
「……ん? お、おい!」
魔の手はヴレイズ自信ではなく、アリシアに襲い掛かった。
心音が止まったのである。
「アリシア! おい、諦めるなよ!!」無茶な話である。呼吸する事すら難しい、酸素の薄いこの絶壁が、アリシアにトドメを刺したのだ。
「いま助けるぞ!」ヴレイズは魔力循環をアリシアの身体を経由させて、無理やり心臓を動かし始めた。彼女の身体に負担をかけず、ゆっくりと優しく身体に炎を纏わせた、彼なりの延命処置だった。
「……あ……っ…た、か……い……ね………」
アリシアは息を吹き返し、か細い声で笑いかけた。
「悪いな……もう少しの辛抱だから……」
そこからまた1時間、260メートル地点。ヴレイズは白目を剥きながら息を切らしていた。彼の炎は危なげに途切れかけては吹き上がり、また弱まりと、不安定になっていた。
「ぐ……が……」彼の頭の中では、眼前のロープ、体内循環、そしてアリシアの心音が回転していた。息を整え、少しずつ上へ上へと昇ってはいたが、少しずつ手の肉が削げ落ちていき、骨が見えてくる。
そんな痛みも感じる事は出来ず、ただ胸の冷たさと彼女の心音のみが苦しく全身に響いていた。
「く……ぐ……だい……じょうぶ、だからな……アリシア……」既に腕の筋肉は役立たずに崩れ落ちていた。彼の腕を動かすのは筋肉でも神経でもなく、炎だけだった。
彼はひとつの炎と成り、己の肉体とアリシアを引っ張って、ただひたすら上へと目指した。
そして、日が雲の下へ落ちる時間。ヴレイズはついに雲を突き抜け、頂上と思しき淵へとたどり着く。
彼の炎は2つの肉体を引き摺って、ついに頂上へ辿り着く。
そこは、山頂とは思えないほど平たく整地されていた。だが、建物らしきものは一軒も建ってはいなかった。
彼は歓喜の声も、苦痛の声も、息すら漏らさず、心臓の鼓動を感じながら身体を引き摺り、辺りを炎で探る。
「グ……だ、だれ、か……い、いない……か?」声帯を通して声が出ているのか、声にならない音を漏らす。今の彼に、立ち上がる体力は無かった。
「おや珍しい。死人が死人を運んで来るなんて」
ヴレイズの眼前から冷たい女性の声が響く。
彼には聞こえていないのか、「誰か、誰か」と、鳴き声にもならない音を漏らしながら火を点灯させる。
「まずは手当て……って、そんな時間は無いかしら?」真っ白なローブを身に纏った女性は、腕に風を纏わせ、ヴレイズとアリシアを包んだ。
「聞こえますか?」女性は片膝をつきながら心に直接、語り掛けた。
「アンタが、山の主か?」心の中で呟くヴレイズ。その声は女性の風を伝わって届いた。
「いいえ、その者に仕える者です」
「誰でもいい。アリシアを……この子を救ってくれ」
「……残念ですが、私にそんな力はありません」
「願いを叶えてくれる像があるって聞いたんだ……それを使って……」
「また残念ですが、それを使わせる訳にはいきません」
「なぜ……?」
「……さ、そろそろいいでしょう」女性がそう呟くと、風魔法を解除した。
「ん? お……」ヴレイズの身体は、話せるほどまでに回復していた。身体は依然、動かせなかったが、死人の様に枯渇した体力が戻っていた。
「大したものですね。心臓が動いていませんでしたよ?」
「そんな筈はない! アリシアの鼓動は……」
「いいえ、あなたの心臓が止まっていたのです。炎魔法の循環のお陰で、生命は維持できていたみたいですが……」
「こんな話をしている場合じゃないんだ!! アリシアを! 助けてくれ!!」
「だから私にそんな力は……彼女は逆に、心臓は動いていますが、殆ど死人同然じゃないですか」彼女は凍える様に冷たく言い放った。
「そんな風に言うんじゃねぇ!!! 試練でもなんでも受けてやるから助けてくれ!!」体力が戻ったお陰でヴレイズは吠え始めた。
「何ですか、その態度は! 助けを求める人間の言動ではありませんよ?」
「るせぇ! テメェこそ、助けるんだか助けないんだかわからねぇ事しやがって!!」彼は芋虫の様に身を捩らせながら更に吠えた。
「おい!! 折角のおやつの時間に騒々しいぞ!!」
奥の方から、何者かが耳を穿りながら現れる。
その者は、ヴレイズと同年代程の若者であり、少々眠たそうな目の下に影を作り、不機嫌な声を出しながらヴレイズの眼前までやってくる。
「……あんたが、山の主、か?」彼は、仙人の様な高齢のじいさんが出てくるのを予想していた。
「アンタとは何だ! このお方は、『天空の監視者』シルベウス様だぞ! 神に等しいお方である!!」と、使いだと言い張る女性が大声を出す。
その瞬間、神と言われた若者は彼女の後頭部を素早く叩いた。
「俺は神じゃねぇって、何べんいわせるんだよミランダ!! それに、『天空の監視者』って呼び名もやめろって言ったよな?! 首の辺りが痒くなるんだよ!!」
「す、すいません……」と、ミランダと呼ばれた女が頭を下げる。
「な、何なんだ? この2人……」
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