第13話 愛の力

 一睡もできずに、朝日を拝んだ。


 伊澄が帰ったのは、ついさっきのことだ。明日夏さんは気付いているのかいないのか、にこにこしながら朝食を食べ、そして仕事に向かった。なにも言われないことが怖かった。


 顔を洗ってすっきりしようとしたけど、眠気が消えるわけでもなく、ただ視界がぼんやりするだけだった。学校を行くべきかどうか悩んだ。


「なんか変な臭いしませんか?」パンを食べながら美咲は言った。


「そうか? 別になにかを焦がしたわけじゃないぞ」


「うーん、なんといいますか、気にくわないというか気に障る感じの臭いです。朝から最悪の気分ですよ。また和食じゃないですし」


「まだ寝ぼけてるんじゃねえの?」


「明日夏さんはなにか言ってませんでしたか?」


「別になにも」


「そうですか。もしかしたら私の勘違いかもしれませんね」


「とにかく早く食えよ」


「別に待っていてくれなくても大丈夫ですよ?」


「嘘付けよ。待ってないと怒るじゃねえか」


「そんな子供みたいなことしませんよ」


「それじゃあ試してみるか」


「いいです。朝から頑張らないでください」


 この日の朝食時のやりとりは、美咲が一方的に話すだけになっていった。俺はあまりの眠さに相槌を打つことすらできずにいたけれど、美咲はそれを指摘することはなかった。どうやらただ聞いてもらえるだけで満足のようだ。


 妹の準備に待たされること十数分。その間、いつ眠気に負けてしまってもおかしくはなかった。気を抜けば、ふらっと身体が倒れそうになった。


「お待たせしました」美咲が階段を駆け下りてきた。


「本当だよ。なげえよ」


「これでも女子にしたら短い方ですよ。それより兄さん、顔色がよくないですよ? 大丈夫ですか?」


「ちょっと寝不足なだけだ。心配しなくていい」


「寝不足を侮ると死にますよ」


「そんなに!?」


「くれぐれも気をつけてくださいね。途中までしか同行できませんから」美咲はローファーを履き、つま先で地面を鳴らした。「そうだ、この際私の一限目とかどうでもいいので、兄さんをお送りしましょう」


「学校にはちゃんといけ」


「行きますよ。兄さんを無事に送り届けてから」


「それもいらない」


「どうしてですか? もしかして私が兄さんを心配して、という口実で一限目をサボろうとしていると思っているんですか? もしそうなら心外です。私は兄さんを守りたいだけです」


「気持ちだけで充分だ」俺は欠伸を一つした。


 そんな強気なことを言ってみたけれど、家から一歩出た瞬間に、本格的にダメかもしれないと悟った。天からの熱が、俺の根気を蒸発させていった。二歩目を出すことを躊躇い、けれど妹にああ言った手前、「やっぱ学校行くのやめるわ」とか「学校までついてきてくれ」とか言えず、泣く泣く二歩、三歩と進んだ。


 今日が果たして何月の何日だったか。


 テレビではまだ八月かどうとか言っていたから、九月ではないはずだ。


 そういえば昨日あたりが八月の三十三日くらいだったような……。


 あれ? ひと月って何日構成だっけ?


 わからない。


 ああ、ぼーっとする。


 視界がぼやけてくる。


 車道を挟んだ反対側の歩道を、小学生たちが陽気に笑いながら走っている。子供は風の子、元気の子なんじゃない。化物だ。人類は一度化物の道を通ってから大人になるのだ。化物が研磨されて、あるいは余計なものを蓄積して人間になっていく。


 いや、化物を人間にするのは、規則(ルール)か。自由に生きてきた化物の身動きをその枷で封じる。そんな感じなのだろう。


「兄さん、遠い目をしていますよ」


「ああ、もうダメかもしれんね」


「兄さん!?」


「不思議と気持ち悪さはなく、俺は安らかに妹の胸の中で死ぬのだった」


「なんだ、いつもどおりじゃないですか。驚かせないでください」


「おいこら」


「意地でも学校に行くのら、さっさと行ってしまいましょう。時間が経つに連れ、日も昇ってきますからね、今のうちに登校してしまうべきです」


「お前は母さんみたいなことを言うんだな。もしかして母さんか?」


「……なんだか本格的に心配になってきました。兄さん、防犯ブザーは持っていますか? なにかあったら鳴らして、大きな声で助けを求めてくださいね」


「そんな状況ねえよ」


「ああ、どうしましょう。兄さんが攫われたりしたら、私どうにかなっちゃいますよ。やっぱり私もついていくべきなのかもしれません」


「過保護か!」どっと疲れが出てきた。


「いいですか、兄さん。変な人に話しかけられても簡単について行ってはダメですよ。綺麗な人でもダメです。わかりましたか?」


「はいはい」


「まあでも、誘拐されたとしても、私がきちんと見つけてあげますから安心してください。警察なんて頼りになりませんからね。家族の絆、愛こそが危機を脱するために必要なものです」


「うーん、そうか。たしかに俺もお前が攫われても、お前を見つけられる気がするわ」


「家族愛って素晴らしいですね」


「家族愛って言うといい響きだけど、兄妹愛だとちょっとふしだらな感じがするな」


「言われてみればそうかもしれませんね。いい言葉なのにそんな捉え方をしてしまうのは、きっと社会のせいですね。兄さんのアホが加速していくのも、きっと同じです」


「ほっとけ」


「放っておくなんてできません――と言いたいところですが、そろそろお別れです」


 美咲に言われて、自分がどこまで歩いてこられたのかを認識した。大きな交差点に差し掛かるところで、左へ行けば美咲の通う女子校があり、直進すれば俺の通う高校がある。ちなみに右に行くと駅に出る。


 ちらほらとそれぞれの制服を来た学生の姿が見えた。もしかしたらと思い、凛久の姿を探してみるが、俺がここにいるということはすでに教室にいるに違いない。どんなに俺が頑張っても、なぜか俺より先に教室にいるのがあいつだ。学校に住み付いているんじゃないか、と疑ったこともあった。


「いいですか、私に学校に行けと言ったんですから、兄さんもきちんと行ってくださいね。そうじゃないと不公平です」


「結局それなんだな」


 なんでこいつ、高校に通っているんだろう?


 義務教育は終了しているぞ。


 なぜか注意深く周囲を見回し、それから学校への道へ向かった美咲。そう簡単に俺を拉致しようとする奴を発見できるわけでもないのに。それらしき人を見かけたとして、その人が本当に計画しているかなんて本人以外にはわからない。結局のところ、どんなに注意していても、無駄なものは無駄なのだ。誘拐されるときは、どんな予防策を張ろうとも誘拐される。


 ちらちらと俺の姿を確認する美咲が諦めたころ、俺は学校へ向かった。足取りは重い。気分は悪い。このままだと確実に遅刻するだろう。それくらい歩行スピードが低かった。今なら杖をつく爺さん婆さんにも負けられる自信がある。


 通学路には学生が増え、喧しさも増幅していった。脳に響いてきて気持ち悪い。なんで学校へ向かっているのか理解できなかった。


 俺を追い越していく学生たちの背中を眺めていると、肩に重みを感じた。ただの疲れかとも思ったけれど、実際に手が載せられているのだと気付いた。


 俺は振り返る。


「おはよう」伊澄は満面の笑顔で言った。少しだけ気怠さがとれた。


 当然だが、伊澄は制服を着ている。回数でいえば、あのあからさまな部屋着姿の方が多く見ている。健全な男子高校生を貶めるには充分な効果を発揮するあの姿を、俺は脳裡に焼き付け時折思い出すという気持ち悪いことを平然とやってのけていた。


 美咲も似たような格好をするけれど、あいつの場合はガードが堅い。鉄壁といってもいいだろう。見せつけているわけじゃねえよ、と言われているかの如くだ。


「……ども」


「どうしたの? 元気ないね」


「どうしてそんな元気なんですか?」


 まるで疲れた様子のない伊澄。いや、むしろ今まで以上に健康的な顔をしている。心なしか、白い肌が艶々しているような……。


「恋する乙女は最強なんだよ」


「お菓子でできてるんだっけ?」


「魔法でできてるの」


「じゃあ、魔法が使えるってわけじゃないんだな」


「そうだね。魔法でできていても、魔法は使えないよ。でも魔法みたいなことはできる、と思う」


「ほう……、たとえば?」


「大地くんを元気にしてあげるとか」


「今すぐお願いします」


「こんな人目のあるところでなんて無理だよ」伊澄は顔を赤らめた。可愛い。少しだけ足取りが軽くなれた。


 ふと周りからの視線が突き刺さっていることに気付いた。俺一人で歩いているときは誰も気にも留めなかったのに、不思議なこともあるものだ。これは伊澄の存在が大きいのか、それとも俺たちの会話がアホ丸出しなので、どんな奴がしているのだろうという興味本位のせいなのか。


 可能性として高いのは前者だ。あの凛久が綺麗系だと俺に報告してきたほどの容姿を持った伊澄だ、注目を浴びても仕方がないというものだ。俺と凛久が知らなかっただけで、校内では以前から有名だったのかもしれない。性格も悪くないし、人づきあいも上手いに違いない。良い方面で有名だった可能性が充分に考えられた。


「なにをされるのか気になってきた」


「して欲しいことをしてあげるよ。夜に言ったでしょ?」


「じゃあ、おぶって学校まで連れて行ってくれ」


「できることとできないことがあります。それとも私が大地くんを持てるような力持ちに見えるってことかな?」


「いや、して欲しいことをやってくれるっていうから……」


「仕方ないなぁ」


 伊澄は俺の手をおもむろに掴み、そして走り出した。走りたくなくても、抵抗する力などない俺にはどうすることもできず、流れに身を任せるしかなかった。


 もしかしたら俺のことを引っ張る力があることを行動で示しているのかもしれない。おぶるのは無理でも、違う方法で学校へ連れていこうとしている、と考えられなくもない。


 しかしこれでは意味がない。俺自身が動きたくないからおぶって欲しかったのに、俺は今重かったはずの足を無理矢理動かされている。いつ絡まって転んでもおかしくない。できればそのまま気絶して病院に運ばれでもして、ベッドの上で眠ってしまいたいと思った。

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