第12話 二度目の夜会
「どうでしたか、映画の方は。面白かったですか?」妹はソファに座ってテレビを見ていた。
「かなりよかった」俺は答えた。「夕飯は食べたのか?」
「はい。兄さんはお出かけでしたから、明日夏さんと外で済ませてきました。なかなかいいお店でしたよ」
「あ、そう」
「もしかしてまだなんですか?」ソファの背もたれに首を載せ、ようやく視線を向けた。しかし逆さまである。
「そうだけど、それがどうかしたか?」
「食べてこなかったんですか?」
「そう言わなかったか?」
「変わってますね」妹は再びテレビに注目した。首が痛くなったのか、手で揉んでいた。
「明日夏さんは?」
「もう寝ましたよ」
「まだ九時前だぞ」
「いえ、最近不眠不休だったらしく、ようやく眠れるそうなんです。いつか身体を壊してしまうんじゃないかって不安ですよ」
「……そうか」
「疲労困憊のところを襲いに行かないでくださいよ、兄さん」
「行くかよ!」
「兄さんなら絶対に行くと思ったんですが……。あ、そういえば、兄さんのコレクションはすべて読破したので、新しいの出してください」
妹が良からぬ方向へ向かっている気がする。
読破したとか……。
「そんなに面白いか?」
「うーん……、最初は面白いというか、興味本位で読めましたけれど、なんというかやはりあれは兄さんの好みでしかなくて、私には合わないんだなって思いました」
「そりゃそうだ」
「兄さんはどうしてあんなもの読んでいるんですか?」
「男だから」
「興奮します?」
「もうしないかな。最初はやっぱりそれなりに興奮したけど、何度も読み返すとそうでもなくなる」
「そんなものですか」
「興奮しないか?」
「セクハラですよ」妹は言った。「私は美術鑑賞と同じ目線ですから、興奮しませんでしたね。胸像とか見て興奮する人はいないでしょう? たぶんですが」
「それもそうか」
「誰と行ったんでしたっけ?」美咲は話題を切り替えた。
「友達」俺は対応する。
「変わった名前ですね」
友達の名前が『友達』なわけがない。そんな突っ込みを待っているだろうから、無視してやった。
「凛久って奴。話したことなかったか?」
「ああ、ええ、名前くらいは」
「それがさ、あいつ、なんかこう、西洋の人形みたいな服着てきたんだ。傘みたいなスカートでさ、もう、なんていうか、なんだその趣味は的な」
「ゴスロリですね」
「へえ。ちゃんと名称があるんだ」
「この街では珍しいかもしれないですけれど、都会に行けば普通にいるんじゃないですか? ニュースとかでたまに見かけますよ」
「そうなのか」思い出そうとしたが、まったく心当たりがなかった。「ああ、それで凛久なんだけどさ……、というか、お前、機嫌悪くないか?」
「気のせいですよ。機嫌が悪いのがデフォなんです」
「ふうん」俺は話を続けた。「それで、なんか女みてえな喋り方するんだ。面白いだろ?」
「え?」
「だから、女みてえな喋り方するんだって。それに良い匂いもするし。人間、なれるもんにはなれるんだなって思った」
「えっと……、つまり、凛久さんにはそういう趣味があるんですか?」妹がようやく振り返った。
「そう言っただろ」
「そうなんですかぁ」
美咲の声は少し嬉々としていた。どんな心境の変化なのだろう。今日は、感情の浮き沈みが激しいらしい。またなにかに感化されたのだろうか?
「明日夏さんが面白そうにしていたのはそういうことですか」妹は呟く。聞こえていないと思っているのだろうか。「なるほど、うん、どうやら私の気にし過ぎだったようですね……」
妹との会話を一時的に中断し、空腹を抑えるためにカップラーメンを食べた。料理をしてもよかったのだが、今のやる気で作った場合、とんでもない作品ができあがりそうだったので断念した。塩と砂糖を間違えてもおかしくはない。それほどに疲労していた。
それは確実に、凛久の新たな一面を見たせいだ。強烈なギャップを目にしてしまったおかげで、いまだに脳裡から離れないでいた。目を瞑ることなく思い描けるのだから、目を瞑ってしまえば、眠ってしまったときには、いったい俺はどんな凛久を見てしまうのだろう。想像してしまうのだろう。
そんな呆けている俺が、その表情とは逆に機敏に動いているのを見て、妹が怪訝な視線を向けてきたが、今の俺にはどうでもいいことだった。
風呂に入ったあと、ベッドに倒れ込んだ。部屋はクーラーのおかげでかなり涼しく、火照った身体を冷ましていった。
意識が薄れ始め、ようやく眠りにつくことができると安堵したとき、ふいに窓が開く音がした。もちろん施錠はしてあったし、それなりの技術でもなければ音もなく解錠することなどできはしない。けれどそんな技術を持つ人間に心当たりがあった――というか、つい先日、経験したばかりだ。
「あれ? 寝てるの?」古宮伊澄はベッドに降り立った。相変わらず軽装である。
「当たり前のように入ってくるんじゃない」
「なんで? 私たち恋人どうしでしょう? もう大地くんの家も私の家のようなものじゃない」
「その発想はおかしい」
「そうなの? 私、ちゃんと勉強してきたのに」
「そもそも勉強するとかしないとか以前の問題だろ。なんだ? その教科書には、彼氏の家ならば無断侵入していい、とでも書いてあるのか?」
「そんなわけないじゃん」と伊澄は静かに笑った。
俺は身体を起こして、伊澄と向き合う状態になった。枕元にあった携帯電話のサイドディスプレイで時刻を確認した。深夜零時。意外と時間が経っていた。
「俺はさ、お前の印象が段々わからなくなってきたぞ……」
「そうかな」
「最初会ったときはもっとしおらしい感じだったのに、次会ったときは窓から侵入してくるくらいアクティブだし、そんなで今日はなんかやたらとおかしい」
「最初は印象良くしないといけないよね」
「詐欺師の手口だ」
「行動を起こすのならできるだけ素早く、そして一撃で仕留めるように」
「忍者の心構えだ」
「今日の私が、本当の私なのかな」伊澄は笑顔を見せた。正直怖い。「うん、でもね、どれも本当の私だよ。どの私も大地くんの気を引こうとしてるし、私という存在を刻みつけて欲しいと思ってる」
「へえ……。いや、もうざっくりと刻み込まれたわ。同級生の寝込みを襲う奴なんてお前くらいだろうよ」
「それはよかった」両手を胸の前に合わせて喜ぶ伊澄。こうしていればただ可愛い女子なだけなのに。
「それで今日はなにしに来たんだよ。俺はもう眠いんだ」
「みたいだね。電気が付いてるからまだ眠くないと思ってたのに、ざーんねん」
「電気が消えてても入ってくるだろ、お前は」
「私の溢れんばかりの女子力がそうさせるからね」
「そんな女子力あってたまるか!」と俺が大きめの声をあげると、伊澄は飛び掛かるように俺の口を両手で塞いだ。そのせいかまるで押し倒されたような体勢になってしまった。
「妹さんが起きちゃうよ」
なんで妹のことを……。
しかし考えてみれば、伊澄は俺とどこかで会っているらしい。あのとき屋上で「憶えていないだろうけど」なんて言っていた。だから俺は必死に卒業アルバムを探したのだが、それは骨折り損のくたびれ儲けだった。
つまり結局のところ、彼女が何者であるかを俺は知らない。何者であったのかを憶えていない。同じ学校の同学年で、クラスは離れたC組であることくらいだ。
俺はそのことについて訊き出そうと伊澄の手をどかそうと腕を動かすつもりだった。しかしその前に伊澄が自らその手をどかした。
「ちょっと訊きたいことが――って!」
俺の言葉が途中で切れたのは、伊澄の表情に変化があったからだ。目がとろんとしていて、頬も赤く染まっている。呼吸も少しばかり荒い。彼女の身体が呼吸に合わせて、上下に動いている。
これは不味い――非常に不味い。前回の経験からするに、このままだと本格的に襲われてしまう。貞操の危機だ。身包みを剥がされ、生まれたままの姿になり、あんなことやこんなことになってしまうのだ。
いや、しかしこの場合、喜ぶべきなのではないか、と別の俺が意見を述べた。伊澄は美人だ。彼女のような女子とそうなれることは(というか、そもそも付き合えるだけでも幸福なのではないか?)、世の男子にとって幸福なことではないだろうか。誰もが羨んでくれること間違いない。そう結論付けたとなれば、このまま身を任せるべきなのかもしれない。
なんて、思うはずがなかった。
あと少しで唇が重なろうという距離で、俺は伊澄の行動を封じた。左手で彼女の肩を掴んだのだ。
「お前、正気か?」
「いいじゃん。私は平気だよ。大地くんが望むのなら、なんだってしてあげる。望まなくてもなんでもできるよ。あの本棚に並んでるエッチな本のようなことも、大地くんが頼むなら、私は喜んでしてあげる」
「やべえよ、こいつ。本格的にやばい子だ」
「そういうのは、本当でも口に出しちゃダメだよ」
「え? 今の声に出てた?」
「うん、思いっきり」
とりあえず、押し倒されたまま話すのもあれのため、ベッドに座り直すことにした。二人とも壁に背を預け、伊澄は足を抱え込み、膝の上に頭を載せた。とても窮屈そうな体勢である。やっぱり女の子は身体が柔らかいのだろうか。それに小柄だし。
窓が開いているせいか、ときどき室内に生ぬるい風が入り込んできて、冷気を蹂躙していった。俺にとってそれは由々しき問題なのだが、そのときに伊澄の甘い香りが室内に広がり、悪い気はしなかった。
「なあ、こんな時間に出歩いて親とか心配しないのか?」
「しないよ、とは言えないね。きっとすると思うけど、もう寝てる時間だし、音さえ立てなければ家から出るなんて簡単なの」
「バレたらどうするんだ」
「そのときは家出するから、ここに泊めてよ」
「ここって? この家か?」
「ううん」伊澄は首を横に振った。髪が揺れ、匂いがふわりと香る。「この部屋。部屋なら明日夏さんの許可とかいらないでしょう?」
「さあ、どうだろうな」と真面目に答えてすぐに気付く。「なんで明日夏さんのこと知ってるんだよ」
「なんでも知ってるよ。大地くんのことならね」
怖すぎるだろ……。
「もしかしてストーカーなのか?」
「え、誰が?」
「お前以外に話しかけられる奴はいないぞ」
「ひょっとして誰かいた?」伊澄は窓を確認した。
「伊澄のことだ」
「私がストーカー? 面白いこと言うね。ちょっとばかり大地くんのことをなんでも知っているくらいだよ。今朝の食事とか、行動とか、妹さんとの会話とかを知っているくらいでストーカー呼ばわりなんてされるなんてことありえないよね」
なんだろう……、もしかしたら本当に自覚がないのかもしれない。ただ好きな奴のことを知りたいという気持ちが先走り過ぎているだけなのかもしれない。まあ走り過ぎて犯罪に走っているけれど、寛大な俺はそれを黙認してやるのだった。
まあほとんどが冗談なんだろうけれど。
「まあ、その件はいいや」俺はこっそりと溜息をした。「それで今日はなにしに来たんだよ。お前のおかげですっかり目が覚めちまった」
「えへへ」と伊澄は喜んだ。俺の言った『おかげ』の意味に気付いていないのだろう。「特になにをしに来たっていうのはないけど、しいて言うのなら、お話をしに来たのかな」
「お話ねえ……、猥談とか?」俺はジョークを言った。
「それでもいいよ」
「いや、おかしいだろ」
「なんで?」
「普通、こんな状況で猥談なんてするはずがないだろ。男と女がいて、それでいて深夜だぞ? おかしなテンションになるに決まってるじゃないか」
「それを狙ってるんじゃないの?」
「え?」
「え?」
「もっと健全にいこうぜ。今時の高校生らしからぬ清い交際を心掛けよう」
「やだ」拒否された。しかも食い気味に。
「なんでだよ」
「面白くない」
「面白さが必要か?」
「必要だよ」伊澄は肯定した。「もしかして大地くん、あれなの?」
「どれだよ」
「同性愛者なの?」
「違うわ!」
「そうだよねー。だって本棚に並んでるの、女の子の表紙ばかりだもん」
妹にも彼女にも本棚に並ぶエロ本を把握されている男子が、この国にいったい何人いるのだろうか。本格的に知りたい。まして俺に至っては、妹がその本を読破している。そんな環境にいる男子高校生が果たしてこの国にいるのだろうか。
考えてみれば、彼女たちだけではなく、居候先の叔母にまで知られている可能性があるのだ(間違いなく知っていると断言できる)。言い換えれば、身の周りの近い女性に自分の好みが把握されているということ。少しでも趣向に偏りがあれば、そういう人間なのか、と判断を下されているに違いなかった。
俺のメンタルが強くてよかったと本当に思った。
「別の話をしようぜ」俺は提案した。
「いいよ」
「お前と俺っていつ出会ったんだ?」
「小学生のときだよ」
「同じクラスになったことがあるのか?」
「ないよ。だってクラスどころか学校が違うもん」
「どうやって出会うんだ? 俺の憶えているかぎりだと、通ってた小学校には他校と交流を深めようなんて行事はなかったはず」
「公園だよ。この近くの小さな公園、憶えてない? 駄菓子屋が近くにあるの」
「うーん」俺は記憶を辿ってみた。「憶えてないなぁ」
「それだけ憶えててもおかしいけどね」伊澄は微笑んだ。「まあ、でもそんなもんだよ、出会いなんて。誰かにとっては大事なことだけど、別の誰かにはそれがその日かぎりのことだってあるよ」
「今度行ってみるか、その公園」
「もしかしてデートのお誘い?」伊澄が顔を近づけてきた。瞳が輝いている。薄着のせいで胸が見えそうだった。なんというブロック性能。
「デートってことでいいのか? デートってもっとこう、映画を見に行ったりするもんなんじゃねえの?」
そう言って思い浮かんだのは、凛久の姿だった。ゴスロリ衣装を身にまとい、普段とはまったく正反対の印象を刻みつけてきたあいつとの今日の約束は、俺にとってはとても素晴らしいものだった。さすがは親友、飽きさせないな。
「私もよくわからないけど、好きな人とどこかに行くのなら、それはデートって言っていいんじゃないかな。私は大地くんと一緒ならどんなところでもいいよ。賑やかな場所でも、静かな場所でも、人気のない場所でもね」
おかしい。どこも危険な臭いしかしない。伊澄が言うと選択肢が広がっているようで、すべてが一つに集約しそうだった。
「でもね、私はこうして大地くんと二人だけで狭い部屋にいるのがいいかな」
「なんで」
「誰も邪魔してこないでしょ? 窓も全部塞いで、時間も気にする必要をなくして、ずっと今みたいにしていたい」
「そういや、初交際なんだっけ?」やや寒気が走ったため、話題を変える。あのまま話させていたら絶対にまずかった。目の輝きがおかしかったもん。
「そうだよ。ずっと大地くんが好きだったんだもん」
「会えなかったらどうしてたんだ? 同じ高校だったのは奇跡みたいなもんだろ。俺はこの街を一時期離れていたわけだし」
「うーん、たぶん、あらゆる手段を使って捜したかも」
「お前ならやっただろうな」
「そう思う?」
「ああ、絶対にやってたと思う」
今だって程度が低いだけで、同じことをしているわけだし。
一途な子って凄いんだなぁ。
「さてと」伊澄は両手を頭上にぐっと伸ばした。
「どうした? 帰るのか?」
「エッチなことしようか」満面の笑顔を見せる伊澄。
「そうだな」
「え?」
「え?」
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