第7話 告白を受けて

 さて、あのような返事をしてしまったのだが、しかし俺も考えた。いきなり付き合うのは無理である。どう考えたところで、お互いに良いことなどないだろう。たしかに彼女、古宮伊澄(こみやいすみ)は俺に好意を持っているようだけれど、俺は彼女のことを知らない。はっきりいえば、好きではない。嫌いでもない。その判断を下す前の状態である。このことはもちろん、彼女にはすぐに話した。嬉しそうに涙を流すものだから、大変言い辛かったのだけれど、彼女はきちんと俺の話を聞き、それでもいいと言ったのだった。さらに、俺の臆病さは拍車をかけ、付き合うまでの時間を貰った。正直に言って、心の準備ができていなかった。状況に頭がついていっていない。心と頭の整理をする時間が欲しかった。とりあえず月曜日から付き合い始めることにしてもらった。ちなみに今日は金曜日である。


 電話番号とメールアドレスを交換し、なんとなく握手をした。ちょうど五限の終了を知らせるチャイムが鳴り響いたときだった。


 それから別れて、俺は一人で教室に戻っていった。


 まず俺がやらねばならないのは、古宮さん(付き合い始めたら、伊澄と呼ばないといけないらしい)のことを思い出すことだった。いつ、どこで……。あんなに綺麗な子なのだから、幼少期も相当なものだろう。きっとお人形さんみたいと周りに言われていたに違いない。


 うーん、記憶力には自信があったのだが……。


 家に帰ったらアルバムで確認してみることにしよう。学校が同じだった可能性は充分にある。クラスが違い、なにかのレクリエーションで出会ったとも考えられる。



 ここで俺がこんなに悩むのは、やはり彼女自身から訊き出すのは、少し失礼な気がしたからだ。あの言い方からして、ずっと憶えていてくれたようだし、ここはなにがなんでも思い出すのが男というものだ。


 教室に到着し、何食わぬ顔で自分の席に着いた。


「早いお帰りだね」凛久が身体を横に向けて言った。


「うん、まあ、いろいろあってな」


「いいことではなかったみたいだね」


「どうして?」


「いいことがあったって顔はしてないからだよ。違う?」


「まあ、どっちとも言えない」


「どっちかといえば、悪いことだったんじゃないかな。なんか凄く悩んでるようだし」


「わかるか?」


「丸わかりだね」凛久は口元を上げた。「大地の友人として一年間以上も過ごしてきたんだ、このくらい余裕だよ。放課後とかも結構遊んだりしてるし」


「たしかに、家族以外でいえば、凛久が一番共有した時間が多いかもしれないな。他の奴らは部活動で忙しいから仕方ないけど」


「それじゃあ、ボクが年中暇みたいな奴に聞こえるよ」


「実際そのとおりだろ」


「心外だなあ。これでもやることはたくさんあるんだよ?」


「たとえば?」


「秘密だ」


「だと思ったよ」


 出歩いていたクラスメイトが、続々と自分たちの席へと戻っていく。休み時間の終了を判断するときは、時計を見る必要がなかった。


「次の授業ってなんだ?」


「六限は英語だね。グラマーではないよ」


「グラマーじゃない方っと」机の中に収まった教科書を漁る。昨日と今日で、今後必要となる教科書すべてを持ってきていた。用意がいいのが俺である。


「お笑いコンビの面白くない方みたいな呼称はなんだよ」


「お前がそう言ったからだろ」目的のものを見つけ、抜き出した。


「どうしてグラマーっていうか知ってる?」


「そういや、知らない。グラマーって女性の体型にも使うよな。グラマーな女性だ、的な。スペルは同じなのか?」


「知りたい?」


「え、教えてくれるんじゃないのか?」


「で、なにがあったの?」


「うん?」


「五限の間になにがあったのかを訊いてるんだよ」


 すっかり忘れていたことに、俺は茫然としてしまった。忘れていたことに気付いた、すなわち思い出してしまったのだ。古宮伊澄のことを、あの美少女のことを。


 無意識の内に、凛久との会話や、森木先生のことで考えないようにしていた。


 すると当然、脳内に浮かぶのは、


 あの子とどこで会ったのか、ということだ。


 凛久の詰問に答えることなく、俺は頭を抱え込んだ。机に頭を何度もぶつけたいという衝動が、ふつふつと込み上がってきていた。目の前に凛久がいなければしていただろうし、ここが教室でなければ、迷うことはなかった。机と頭の耐久勝負が始まる。


 しかし、この症状は、大したことではない。


 なぜなら俺には彼女との記憶がまったくなく、つまり、1か0の状態であるためだ。手掛かりのない状態が、逆に良い症状をもたらしていると言えよう。


 では、もっとも危険な状態とはなにか。


 それは、思い出せそうで思い出せない、掴めそうで掴めない、届きそうで届かない、というむず痒く、そして気持ち悪さを催す、いわばジレンマのような状態だ。このとき、俺は「囚人のジレンマ」という言葉を思い出したのだが、それと古宮伊澄は関係ないようだった。連鎖的に物事を思い出すことはよくあることで、些細なことからずいぶん以前のことを呼び起こされることもある。


「いやはや、これはもう、なにかあったのは確実だね」凛久の眼光が鋭くなった。完全に興味の対象になってしまったらしい。


「なくはなかった」


「知ってるよ。それはさっき聞いた。ボクが気になっているのは、その出来事が大地にとってどれだけ重大なことだったのかってことだよ」


「なかなかに鋭い」俺はかっこよく凛久を指さした(右手で銃の形を作り、右に九十度傾けたものだ)。


「そうだろ、そうだろ」と凛久は俺の人さし指を掴んだ。誰もが折られるであろう展開を予期する場面だ。現に、良からぬ方向へ、徐々に曲げられていた。


「あれれぇ? なにか怒ってらっしゃる?」


「怒ってない怒ってない」


「じゃあ、どうして俺の指はあらぬ方向へ曲がっていくんですかねえ」


「それが指の意思だからだよ」


「C組の例の子に会ったんだ」俺は観念して言った。


「なんだ、面白くない」凛久は指を離した。「それで、どうして浮かない顔をしてたんだよ。よかったじゃん、可愛い子とサボりなんて、青春じゃん」


「青春かぁ……」


「嫌だったの?」


「嫌じゃないぞ。嫌ではないんだけどな、まあ、いろいろあるんだ」


「そのいろいろを具体的に訊き出したいんだけど、まあ、大地が話したくないなら訊かないよ」


「悪いな。でも、いつかは話すわ」


「ありがとう」


「って言うまでが、お前のシナリオか」


「よく気付いたね」


「お前のことだからな」


「ま、ボクは大地のことならなんでも知ってるけどね」

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