第8話 見つからない記憶
家に帰ってすぐに自分の部屋に行って、小中学校の卒業アルバムを探した。クローゼットの中に潜るようにして、段ボールを取り出す。その作業を数回ほど繰り返し、ひとまずの休憩をしているときに気付いた。この家に卒業アルバムはない、ということを。考え過ぎて、当たり前のことを見失っていた。ここは実家ではないのだ。それに卒業アルバムをわざわざ持ってきたりはしていない。
とんだ骨折り損のくたびれ儲けだ。深い溜息をしてから、段ボールを元の場所に戻す作業を始める。中身を散乱させる前に気付けたのは、不幸中の幸いである。
作業をしながら、古宮伊澄のことを考え、そして少し様子がおかしかった凛久のことを考えた。
五限終わりの休み時間終了間際に見た凛久の様子は、どうもいつもとは違っていた。機嫌が悪いとか、そういうことではない。ただ寂しそうであったような気がする。一緒にサボりたかったのだろうか。凛久とは何度か授業をサボったことがあった。それは凛久が言い出したときだけのことで、言い出さなければサボろうとは思っていないのだと勝手に決め付けていた。次からは気をつけよう。付き合いが長いだけに、見えなくなってしまっているのかもしれない。
扉がノックされたのは、片付けが終わり、一息ついているときだった。ベランダに続く窓から見える空は、若干の赤みを帯び始めていた。ベッドの上を膝立ちで移動し、カーテンをする。そのときに例の隣家が見えた。あまり意識をしていなかったが、隣家との距離は近い。二メートルもないのではないだろうか。こんな距離なのに意識していなかったということは、それだけ、どうでもいいことだということだ。
ベッドに座り直し、読みかけの本を広げる。
足を組み、顎に手を当てる。
「兄さーん! 起きてますかー」妹の呼ぶ声とノックの音が重なる。
「入っていいぞ」
「兄さん、ご飯のことなんですけど」美咲が静かに部屋に入ってくる。「――って、兄さん、なにやってるんですか」
「え?」俺は思わず顔を上げる。
「妹が部屋に入ってきたんですよ? そのエッチな本は閉まってください」
「お前が出て行け」
「まったく……」美咲は溜息をついた。そして俺の読んでいる本を覗きこんだ。「そんなに面白いですか?」
「とても」
「あ、この人、スタイルいいですね。肌も綺麗だし」
「そうだろ? 顔もいいし、でもきっと頭は悪い」
「どうしてです? 頭がいいと完璧だからですか?」
「あのさ、妹とこの手の本を読む趣味はないんだ」俺は話題を変えた。「読みたいのなら、別のを勝手に読んでくれ」
「それもそうですね」美咲は本棚に向かい、一つずつ表紙を確かめていく。俺のコレクションは、本棚の三段目にあった。「お勧めはどれですか?」
「兄妹ものかな」俺はジョークを言った。
「じゃあ、これですね」美咲は迷うことなく、それを抜き取る。どうやらジョークが通じなかったようだ。その本を手に、椅子に座った。
しばらく、部屋にはページをめくる際に発生する紙どうしが擦れる音が響くだけで、会話は一切なかった。一定の間隔……。俺が一ページめくるまでに、美咲は二ページめくる。こう表現すると、美咲の読む速さを疑われるだろうが、俺が一ページをめくるまでに要する時間はだいたい十五分くらいなので、彼女は普通であるといえる。それにあくまで読んでいる本は、男性向けのものである。女性が食い入るように見るものではない……、と俺は思っている。
「ふむ……」本を静かに閉じ、美咲が言う。「なかなかに勉強になりました。男の人はこういうのが好きなんですね」
「全員がそうではないけどな」
「しかし、羨ましいですね」
「なにが?」
「なんというか、肌も艶やかで、胸も大きい、くびれもくっきりしている。憧れちゃいますよ。芸能人でもそうそういないですよ。どうして、こんな仕事をしているんでしょうか?」
「芸能界が嫌いなんじゃねえの?」
「逆に考えて、この仕事を始めたから、こうなれたのかもしれないですよね」
俺は少し焦った。
「俺は許さないぞ」
「心配しなくても、私はこういった仕事をしませんよ」美咲は微笑んだ。「恥ずかしがり屋ですから」
「そうか……、ならいいんだ」俺も本を閉じた。
「そうでした!」美咲が声を上げる。「ご飯ですよ、ご飯」
「ああ、そういや、お前が作ったのか?」
「明日夏さんが持って帰ってきたんですよ」
「じゃあ、帰ってきてるのか」時計を見たが、いつもよりずっと早い時間だ。
「いえ、まだ仕事があるからって、また出て行きました」
「そうか」
まず先に美咲が席を立ち、本を戻してから部屋を出た。流れるような動きだった。おそらく本の配置を憶えていたのだろう。無駄に几帳面なのが美咲である。
そのあとに俺が続いた。本はベッドに投げ置き、明かりを消した。
部屋の外で美咲が待っていた。手を後ろで組み、じっと俺を見ていた。それからすぐに歩き出し、階下へ向かう。
「兄さんは、ああいう本を読んでいますけど」先を行く美咲が、階段を半分下りたところで言った。こちらを向いていない。「私のことをそういう風に見ているんですか?」
ここでの、ああいう本とは、兄妹もののことだろう。
「見てるわけがない。だから俺がお前を襲うことはないぞ」
「それは安心ですね。でもそれって私が妹だからですか?」
「そのとおりだ」俺は頷いた。そして妹が言わんとしていることに気付いた。「速水美咲を妹として見れば襲うことはない。だけど、妹として見なければ、即行で襲うわ」
「最低ですね」
「実に魅力的な妹だから仕方ない。むしろここまで手をかけていない俺を褒めて欲しいくらいだ」
「重ね重ね最低ですね」美咲は吹き出した。
「ところで、明日夏さんはなにを持って帰ってきたんだ?」階下についたと同時に俺は言った。
「さあ? なにか動くものですね」いつもどおりの調子で美咲は答えた。
生きているのか……、と俺は内心で嘆いた。
そして、魚介類であることを切に願った。
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