第5話 見に行ってみよう
九月二日の朝は、いつもどおり妹を起床させることから始まった。前回のベッドから落とされたことが効いたのか、今回は素直に起床した。このままずっとこうであって欲しいし、できることならば、自分の力で起床してもらいたいものだ。しかしどうやら美咲は、俺に起こされることを望んでいるようで、あの無駄なやりとりを目覚まし時計として認識しているようだった。
今日から通常授業ということもあり、美咲がのんびりしている間に支度を済ませ、さっさと家を出た。玄関で背後から「薄情者」と言われたが、もちろん無視した。妹の遅刻に付き合うほど、できた兄ではないのだ。
太陽はまだまだぎらついていて、小学生のように日陰のある道、場所を選択して、登校をせざるをえなかった。日傘の一つでも差せばいいのだが、残念ながらそんなエレガントさは俺にはないし、そもそも傘を差すという行為が嫌いだった。
学校に着いたころには、帰宅したいと切に願っていた。どうしてこんな苦行をこなさなければならないのかと疑問に思ったが、教室の扉を開けたときに漏れ出た冷気が、それをすべて忘れさせた。教室はほどよく冷えていて、間違いなく誰かが設定温度を下げていることは明らかだ。
クラスメイトたちは当然のようにジャージやカーディガン、パーカーなどを羽織っていた。バカみたいだと思われるかもしれないが、矛盾した気持ちは説明し辛いものだ。夏に鍋を食べたり、冬にアイスクリームを食べたりするのと同じである、と誰かが説明してくれるだろうけれど、それは完全には説明できていない。する必要もない。
とりあえず凛久がいるかを確認し、その姿を目に捉える。凛久が俺よりも遅くに登校してくることは、この世界からイジメがなくなるくらいありえないことだった。
俺は自分の席に行き、前の席である凛久に軽く挨拶をする。
振り向きもせず、挨拶が返ってきた。
「そうだ、昨日の約束、ちゃんと憶えてる?」
「約束?」
「ほらね……。大地はそういう奴なんだよ」凛久は明らかに呆れていた。「まったくもう……、可愛い子がいるから見に行こうって言っただろ」
「あ、ああ――」ようやく思い出してきた。そんな約束もした。「思い出した。うん、ちゃんと行くぞ。約束だからな」
「いかにも忘れた人に言われてもね」
まさにそのとおりだった。
「でも、まあいいよ。昼休みに行こう」
「わかった」
昼休みになり、俺たちはひとまず購買部へ行き、いくつかのパンと飲み物を買った。趣味に付き合ってくれるお礼だと言って、凛久が全額支払った。なんという男らしさ。女子はこういう奴に惹かれるのだろう、とどうでもいいことを考えた。
料理における最大の調味料と名高い「愛」というのは、誰かに調理をさせたり、奢らせたり……、そう、言うなれば優越感だ。この優越感こそ最大の調味料だ、間違いない。
「それにしても遠いな……」俺は呟いた。
購買部は校内に三ヶ所あり、俺たちのクラスから一番近いのは第一昇降口にあった。件の可愛い女子がいるC組からは一番遠かったが、昼休みの購買部は多くの生徒が利用するためにひどく混雑をする。少しでもその混雑を避けるには、昼休み開始とともに教室から出ていくか、昼休み終了直前に行くしかない。前者は疲労を伴い、後者は選択肢を失う。購買部があと一つでもあるといいのだけれど……。
「まあまあ、焦らないで」前を歩く凛久が振り向いた。凛久はすでにメロンパンを食べ終えているようだ。「なにごとも結果に至るまでの過程が大事なんだよ。この長い道のりがあるからこそ、目的は映えるってものだ」
「ものは言いようだな」
「言葉の正しい使い方だよ」
ようやく二階の渡り廊下まで辿り着き、校舎間を移動する。この高校の校舎は増設を繰り返しているため(とはいえ、最近は落ち着いてきているようだ)、空から俯瞰するとかなり歪に見えるという。言葉では説明し辛く、なんの例えも出すことができない。複雑怪奇であり、移動も一筋縄ではいかない。渡り廊下と渡り廊下が交差しているのなんて当たり前だ。
狭い敷地を存分に使おうという魂胆ではない。敷地は充分にあるのだ。増設を繰り返し、そのすべてを繋げようとする必要もないほどに。旧校舎だってまだ残っているのだか。、くどいようだが、敷地はある。しかしなぜかはわからないが、校舎内を移動して欲しいようだ。
渡り廊下を経て、C組のある四号館に到着。ここには一階から三階に二年のF組までと視聴覚室(番号は忘れた)や保健室(こちらも番号を忘れた)があり、四階のすべてが図書室である。他にも教室が多々あるのだが、それらを把握しきっていないので、知る由もなかった。
「C組は何階だっけ?」俺は訊いた。
「三階だね」振り向きもせず、凛久は答える。
「この学校の全容を知る日はくるんだろうか」
「だからこそ、探索をするんだよ。卒業までには地図を完成させたいと思ってる」
「お前、そんなことしてんの? というか、地図ならその辺にあるだろ。デパートかよって思うくらいの大きさのやつが」
「大地はゲームやるよね?」
「そりゃあ、まあそれなりに。お前ともよくやってるだろ」
「大地はきっと自分で攻略情報をまとめるタイプじゃないんだよ。ネットで攻略法を見たり、本屋で攻略本を読んだり。ボクは、マップとか自分でノートにまとめたりするんだよ。といっても、頭の中でだけど」
「宝箱の位置とかもか?」
「当然だね」
「意外とマメなんだな」食べ終えた焼きそばパンの袋を、近くにあったゴミ箱に投げ捨てた。丸まった袋はゴミ箱の縁に当たることなく入った。俺の無駄な特技のうちの一つである。
「意外は余計だよ」
「今はどのくらいできたんだ?」ポケットから紙パックのコーヒー牛乳を取り出す。備え付けのストローを突き立て、一口飲む。
「半分もできてないね」凛久はすんなり言った。
「卒業まで間に合わないんじゃないか?」
「そうかもしれない。校舎はこれからも増設されていくかもしれないし、旧校舎の方もある。雑木林だって残ってる。間に合わない可能性の方が高いね」
「ふうん。でも、間に合わなくてもいいんだろ?」
「というと?」凛久は立ち止まり、振り返った。俺も立ち止まる。
「だって、さっき言ったじゃないか。結果に至るまでの過程が大事だって」
凛久はすぐには答えなかった。なにかを考えているようだが、その視線はずっと俺に向けられていた。
昼休みの騒がしさが際立った。会話をしていると薄れるのに、まさに時計の秒針が動いたときの音のようだった。普段は気にならないのに、気になってしまう。
やがて、「そうかもしれない」と凛久は踵を返して進み始めた。数秒の間、呆気にとられて動けなかった。
「そうかもしれない――ってなんだよ」俺はようやく歩き出すことができた。凛久が五メートルほど離れたころだった。
「過程が大事だってことだよ」
「地図の完成じゃなくて製作が目的ってことだよな」
「それは秘密だよ」
「意味がわからないぞ……」
「今はそれでいいんだ。卒業したらボクが描きあげた地図を見せてあげるよ。完成しているかはわからないけど」
「楽しみにしておくわ」
「――っと着いたよ」凛久は教室の扉の上部の縁を指さした。そこには〈2―C〉と書かれたプレートがあった。「さてさて、お目当ての子はいるかなあっと」開け放たれた入口から教室内を見渡している。
「いてもらわないと困る」俺はその件の子を探すのではなく、普段見ることのできないC組の雰囲気を見ておこうと思って、見渡した。
俺たちがいるのは教室の後ろの扉であり、左手には掃除用具入れや、体操服の入った袋(学校指定のもので、色は好きなものを選べた)がフックにかけられているのが見受けられた。壁の入口側には何枚かプリントが画鋲で留められていた。俺のクラスでも見かけたものだ。奥側には小さな黒板があるが、特になにも書かれてはいない。
視線を教室の中央へと移動させる。
生徒がクラスの半分くらい残っているが、それが全員このクラスの人間なのかは判断ができなかった。見覚えのある顔はない。もう二クラス隣りならば、見知った顔もあるのだが、残念ながらC組に知り合いはいない。
次に教卓側。黒板にはまだチョークで書かれた文字が残っており、どうやら四限の授業は古文だったようだ。板書の字からして担当教師は違うようだ。
「ああ、いたよ、いた」凛久が左手で俺の肩を叩いて、右手で指し示した。
「どれ?」俺は指の示す先を辿る。そこに何人かの女子がいた。二、三人、またはそれ以上の数でグループを形成する女子が不思議でならなかった。
「ほら、窓際にいるじゃん」凛久が不満そうに俺を見る。最初から言って欲しい。
視線をそちらへ向けると、たしかに窓際に一人だけ女子がいた。グループ形成をしていないのは珍しいと思ったが、しかし莫大な生徒数から考えれば、不思議ではないことだ。
斜め後ろからで顔は見えない。黒髪が肩の少し下まであり、結んではいない。左側はわからないが、右側の髪を耳にかけていた。眼鏡はかけていないようだ。今は文庫サイズの本を読んでいる。
「ここからじゃ顔が見えないから、移動しよう」
凛久の提案に賛同し、俺たちは前の扉へと移動する。その奇怪な行動(つまり、誰も呼ばずに、教室を眺めていること)が災いして、何人かの生徒が俺たちを眺めていていた。もし校内で有名な顔であれば、当分は噂なりが流れていただろうが、幸運にも俺と凛久は顔が広くない。別の友人ならば、話は大いに違ったのだが。
その女子はたしかに凛久の言ったとおり、可愛い系というよりは綺麗だと評するべき容姿をしていた。顔立ちは整い、鼻筋も通っている。小さな輪郭だが、目は大きい。前髪はヘアピンで斜めに留めている。おそらくだが、本を読むために留めているのだろう、と俺は判断した。特にこの推理に意味はない。本に目を落とし、ページをめくる姿は、一枚の肖像画のような印象を受けた。背景がまったく別のものに見えたほどだった。
「どう? 可愛いと思わない?」凛久が訊いた。
「たしかに……。うちの妹ほどではないけど」
「なんで対抗意識を持ってるんだよ。普通に評価すればいいんだよ。たしかに、で止めておけよ」
「名前はなんていうんだ?」
「知らない」
「調べないのか?」
「そのうちに」
「んじゃ、確認も終わったし帰るか」俺は扉から離れた。
「もういいの?」凛久も離れる。「もっと、こう……さ、興味を持つと思ってたけど、相も変わらずの無関心っぷりだね」
「関心はあるけど、それだけだ。話がしたいとか、お近づきになりたいとかは思わないな。それともなんだ? お前、俺とあの子を仲良くさせたいのか?」
「そんな気は微塵もないよ。まあそうだね、大地も高校生らしく女子に興味を持つと思ったんだよ」
「女子には興味ある」俺はすぐに言った。
「じゃあ、誰かと付き合いと思ったりもするの?」
「いや、それはない……かな。そこまで考えが至ったことがない」
「それって変じゃない? 家族に訊かれないの? 妹さんとかそういう話題好きなんじゃない?」
「ないな。うちの家族はそういうことには立ち入ってこないし、だから俺も妹の恋愛事情をまったく知らない」
「ふうん」凛久は壁に背を預けた。「率直に訊くけど、好きな人とかいないの?」
「いるよ」
「どうせ、人として、とかでしょう?」
「正解。なにかプレゼントしてあげよう」
「そういう感情を持った相手とかは?」
「思い出せる限りではないな」俺は溜息をついた。「そう考えると、ちょっとひねくれた奴みたいだな、俺。お前の方はどうなんだ?」興味がわいてきた。
「いるようで、いないかな」
「そうなのか。男? 女?」俺はジョークを言った。
「その質問の意味がわからねえよ」凛久が笑顔で、俺の肩を軽く殴った。ジョークが通じたみたいだ。
「さて、戻るか」
「そうだね。無駄な時間を過ごさせたかもしれないよ」
「無駄な時間ほど楽しいってもんだ」
「いいね、それ」
俺たちは談笑をしながらC組を離れた。昼休みが終わる十五分前のことだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます