第4話 妹との午後

 玄関の扉に手をかけると、案の定、鍵は開いていた。


 時刻は午後一時。親友とはしゃぎすぎたせいか、かなり時間が経ってしまった。どうにも凛久といると時間が短く感じる。それだけ楽しいのだろう。高校に入って、一番よかったと思えるのは、凛久と出会えたことだ。俺の一生で、最大の出会いと言っても過言ではない。


 もちろん、こと出会いにおいて言えば、家族は例外である。


 家に入り、まず靴を確認する。小さなローファーだけが綺麗に並べられていた。美咲は帰ってきているが、明日夏さんは帰ってきていないようだ。こう綺麗に靴を並べられると、そうしないといけないような気がして、脱ぎ捨てることができない。我が妹ながらこういうことを日常的にできるというのは、尊敬に値できる。


 リビングに行き、喉でも潤そうかと思った俺の目に、尊敬に値するはずの妹がソファでだらしなく寝ている姿が映った。制服は脱ぎかけだし、口が少し開き、そこから涎が薄っすら見えた。完全に無防備である。


 自分の妹のことを褒めるのは世間ではどう思われるのか知らないが、正直な感想、美咲はかなり可愛い女の子だと思う。スタイルも悪くないし、外ではきちんとしているらしいから、きっと何度も告白などを受けているはずだ。彼氏ができたとかは聞いたことがない。その辺りは兄妹とはいえ、立ち入ることのできない領域だ。誰と付き合おうと、俺は構わない。


 しかし、そんな可愛い妹がこんな無防備で、かつ戸締りもきちんとしていないとなると、兄としては気が気でなくなってしまう。万が一、不法侵入などがあった場合、美咲が無事である可能性は少ない、と思う。


 ひとまずキッチンの方を確認しに行く。流し台に空き皿があれば、美咲が昼食をとったことがわかる。流し台にはなにもなかった。朝となんら変わりない。ということは、昼食を食べる前に寝てしまったようだ。


 食器棚からグラスを取り出し、冷蔵庫から麦茶を出す。グラスに注いで、まず一杯目を一気に飲み干す。そして二杯目を注ぎ、麦茶をしまった。


 とりあえず、美咲が起きてから少し遅めの昼食にするべきか。熟睡をしているのだから起こすのも悪いだろう。


 グラスを持って、リビングをあとにする。


 二階にある自分の部屋へ。


 机にグラスを置き、鞄を床に置く。あまり大きな音を立てないように注意をした。


 妹の部屋とは違い、俺の部屋は明るめである。明るめというよりは、ただ一般的であるだけなのだけれど。家具については自分で用意したものはない。この家にあったものを並べただけであり、特にこだわりはない。そのため、机には誰が彫ったのかわからない傷があり、シールを剥がしたあとがあった。


 空気の入れ替えのために開けておいた窓をすべて閉める。


 そして、思考時間ゼロでエアコンのスイッチを入れる。環境問題など知ったことではなかった。家にいる間は、常時稼働させている。


 ベッドに寝転がり、愛すべき友人である凛久から借りた小説を開く。内容はおそらくミステリーなのだろうけれど、しかしかなりお粗末である。舞台は例によって脱出不可能となった孤島で、そして例によって屋敷の一室で密室殺人が起きる。見つかった死体は頭と手足がなく、残された胴体から行方知らずとなっている二人の女性のうちの一人である。もう一人の女性は、主人公が物語の初めに殺害していた。屋敷にいるのは、残り六人。主人公は犯人を見つけるべきか、それとも、いっそのこと五人を殺害してしまおうか迷っている。


 ただし、初めの一文で、主人公が死んだ。




 ノックの音で目が覚め、寝てしまっていたことに気付いた。


「兄さーん。寝てるんですかー?」


「今、起きた」俺は身体を起こした。


 ドアが開き、妹がひょこりと顔を見せた。少し髪が跳ねていた。


「何時ごろ帰ってきていたんですか? 起こしてくれればいいのに」


「一時くらいかな。お前が起きたら昼飯にしようと思ってて、そうしたら俺も寝ちまったみたいだ。昼飯食べたか? 今何時だ?」


「昼食はまだです。おやつの三時です」


「ふわあ」俺は欠伸をした。それがうつったかのように美咲も欠伸をして、目を擦った。「どうする? 普通に遅い昼飯にするか、それとも適当にポテトチップスあたりを食い漁るか」


「お茶ということですか?」


「おしゃれにいえば、そうだな」


「そうですねぇ」美咲は人差し指で唇をなぞった。彼女の癖の一つである。「ではお茶にしましょう。今からご飯というのは、あまり気が進みません。起きたばかりですし」


「わかった。先に下りていてくれ」


「わかりました」美咲の顔がドアの向こうに消えた。


 軽く伸びをして、筋肉をほぐす。無理な体勢で本を読んでいたせいで、少し痛みが走った。読書するには、どの体勢をとればいいのか、この歳になってもわからない。


 件の小説はというと、枕の近くで無造作に置かれていた。どこか折れ曲がってしまっていないか、ざっと確かめてみる。借りものであるだけに、そのあたりが心配になる。弁償したくない、という気持ちが強くなるためだろう。特に問題はなかった。


 記憶を探ってみた結果、どうやら俺はこの小説を読了したらしい。第一章の始まりは鮮明に憶えているのだが、そのあとはぼんやりとしか内容を記憶していない。しかし結末はしっかりと憶えている。


 まさかあんな結末が待っているとは……。


 さすがは問題作である。


 いい意味で面白かったと思う。ただかなり読者を選ぶ作品だろう。


 ベッドから下り、机に置かれたデジタル時計を見る。十五時三分。美咲の言っていたとおりの時間だ。時計を見てから、二階に上がってきたのかもしれない。


 制服のまま、リビングへ。部屋の外はどこも暑く、正直にいえば、階下に行くのが躊躇われた。そしてそれはリビングも同様だった。


 美咲がキッチンでお茶の準備をしていた。どうやら寝汗をかいていたらしく、違う服に着替えている。黄色いTシャツにホットパンツ。いつもの格好だ。機嫌がいいのか、鼻歌が聴こえてくる。


「ふわあ」と俺が欠伸をすると、作業中の美咲も欠伸をした。どうやら相当な感染力があるらしい。そろそろ政府が動きかねない、と考える。


「あ、兄さん。今、用意できますから」美咲がトレイにティーセットを載せ、テーブルまで運ぶ。こういうときだけよく働く美咲である。「紅茶でいいですよね?」


「なんでもいい」


 美咲は、決して冷たい紅茶を飲まない。なにが気に食わないのかわからないが、頑なに飲もうとしなかった。彼女なりのこだわりがあるのだろう。それに甲斐甲斐しく付き合うのが、兄の役目だ。真夏でも熱々の紅茶を飲む。夏バテ対策だと思えば、ラーメンや鍋と同じようなものだ。


 けれど、俺には暑い部屋で熱い紅茶を飲む嗜好はなかった。


 なので、エアコンを起動させる。設定温度を下げることも怠らない。


「兄さん、なに食べます?」


「なんでもいい」振り返って、答える。美咲が背伸びをして戸棚を調べていた。「お前の好きなものでいいよ」


「お煎餅でも構いませんか?」


「お前がいいなら」


「じゃあ、お煎餅で」


 テーブルにカップや煎餅の入った袋が並べられる。美咲が紅茶を淹れるのを待っていることができず、袋を開け、煎餅を食べ始める。世の中には濡れ煎餅というものがあるらしいが、正気の沙汰じゃないと思う。なぜこの歯ごたえを牛わせる必要があるのかわからない。提案者はどこだ。一言もの申したい。


「どうぞ」と美咲がティーカップを寄せる。美咲が淹れる紅茶は輝いて見える。自分でやるとなんだか濁って見えるのに、実に不思議である。


 一口すする。相も変わらず美味しい。


「どうですか?」


「うん、おいしい」


「よかった」美咲も紅茶を口にする。その一挙一動に上品さがあった。


 それにしても画になる妹だ。優雅さと上品さを兼ね備え(紅茶を飲んでいるときだけ)、煎餅も一口サイズに割って食べている。なんだろう、実は、この妹、貴族なのかもしれないと思えてくる。同じ屋根の下で暮らしているとは思えない。小、中学校は同じだったから、義務教育で特別な訓練を受けたとも考えにくい。しかし、中学生のときには、すでにこの上品さを垣間見ることができたような……。


「なんの話をしますか?」美咲が訊ねる。


「なんでもいい」


「そうですね……」妹は目を瞑って考える。まるで眠っているようだ。しばしの沈黙。「では、学校の話でもしましょう」


「今朝の続きか」


「ええ。私たち、学校が違うのにあまりその話をしませんから、なかなか新鮮だと思います」


「じゃあ、どうぞ」俺は美咲に話題を振るよう促した。


「では」美咲は咳払いをする。なにをいまさら改まっているのだろう。「兄さんの学校には可愛い女の子がいますか?」


「もちろん」俺は即答した。質問の意味を考えることもなく、考える必要もなかった。精髄反射といってもいい。瞬時に八人ほど浮かんだ。


「お友達にはなれましたか? 兄さんのことだから、お近づきになろうとしたんでしょう?」


「いや、俺からはないな」


「では、向こうからならあると?」


「まあ、ないこともない。でもほとんど友達の友達って感じだ。そいつがいるから少し話ができたようなものだから、まあ、俺には無関係に近いな」


「そんなことでいいんですか? せっかく可愛い女の子と仲良くなれるチャンスかもしれないのに」


「うーん」俺は考える。そして半ば無意識に言葉にしていた。「可愛い女の子でいえば、近くには美咲がいるわけだし、特に困っているわけじゃないな」


「……え? 今、兄さん、なんと言いました?」


「聞いてなかったのか?」


「すいません。ちょっと聞き取り辛かったんだと思います」


「いいか、よく聞けよ」


 美咲はこくりと頷く。なんだか期待に満ちた目をしている。


「可愛い女の子でいえば、近くには美咲がいるわけだから、特に困ってない、と言ったんだ」たぶんこんな感じだったはずだ、と思い出しながら言った。


「に、兄さんが、わわ、私を褒めるなんて珍しいですね」明らかに動揺しているのがわかった。そんな妹が可愛いと思った。それと同時にからかいたくなった。それが兄ってものだ。


「そうか? 結構褒めてると思ってるけど」


「そんなこと……ないですよ」妹は徐々に呼吸を整えていく。まだ切り替え術を会得していないようだ。「私、記憶力には自信がありますから、私が珍しいといえば珍しいんです」


「あそう」


「どのくらい可愛いですか?」美咲は恥じらうように言った。素晴らしいくらい率直な質問だ。


「無防備に寝ている姿を見て、真剣にこの家に警備員を配置すべきかどうかを悩むくらい可愛いと思う」


「もうっ、兄さんたらっ!」


 美咲が身を少し乗り出して、手のひらを向けてくる。一瞬の思考。妹の意図を完全に把握し、俺はその手のひらに自分の手のひらを若干の勢いをつけて叩いた。いわゆるハイタッチである。


「いえーい!」と俺と美咲。完全に深夜テンションである。というよりは、寝起きのせいなのだろう。お互いにまだ脳のどこかが眠っているに違いない。


 俺たちは乗り出した身を戻し、静かに、そして優雅に紅茶をすする。上品な香りが口内に広がり、そしてそのひかえめな甘さが舌を満足させた。まだ熱いと感じる温度で、そろそろ飲み終えないと、美咲が怒り出すころだ。


「実は、私も兄さんのことをそれなりにかっこいいと思っています」


「ほう……、それはどのくらいだ?」


「私の親友、あ、二人とも可愛いんですけれど、一人はクールで、一人は明るい、そんな親友に自慢できてしまうほど、それはもう、本当にかっこいいと思います」


 数瞬にも満たない視線の交差。


 口に出さなくても、わかる。


 以心伝心とはこのことだ。


 動き出したのは同時で、二つの手のひらが合わさった際に発生した音は、実に軽快なものだった。今回は掛け声がなく、大人な雰囲気だった。無言のハイタッチはかっこいい、という二人の共通印象だったのだろう。これもまた深夜テンションなのだ。少し舞い上がっている。お互いに、兄妹に褒められ慣れていないせいだ。なぜこんなことになったのかは不明である。


 そんな調子で、二時間ほど兄妹の会話は続いた。不思議なもので、一度言ってしまえばあとにはもうすんなりと、なんの抵抗もなく、相手を褒めちぎることができるものである。いわば、「今まで言えなかった実は褒めたいところ」を題材に、長々と話しこんだのだ。


 それが最初の三十分である。


 まさか二時間続けて相手を褒められるほど、相手の褒められる個所を知らず、それに時間をかけて、且つ細かい指摘をするのは、それほどいい印象を与えることができない。本当のことを告げても、どこかに疑惑が生じてしまうのである。


 けれど、俺としては妹に褒められるのは、実に意外だったけれど、とても嬉しかった。それが嘘であったとしても、録音して数回は聞きたいほどに、そう思えるのだった。


 たぶん今日だけの感情だろう。この深夜テンション(現在は夕方)が思考を狂わせているのだ。


 兄妹のお茶会は終わり、俺は洗濯物を取り込み、今は庭の草木に水を与えている。蛇口につけられたホースを持ち、口を指で軽く潰し、水を拡散させる。角度によっては、虹を見ることができた。美咲はその様子を縁側で眺めていて、虹が出るたびに軽い拍手をしていた。


「なんだかまだ夏って感じがしますね」美咲が足をばたつかせながら言った。サンダルがぐらついている。


「そりゃあ、だってまだ九月一日だし、人によっては八月三十二日なわけで」


「地球にとっては何月何日なんですか?」


「地球は、日付なんか気にしない」


「あー、たしかに、そうですね」


 どんなに時間が経とうとも、この季節は蝉が騒がしく鳴いている。朝の五時ごろから鳴き始め、夜中まで鳴き続けている。気分的には一日に三時間ほどしか、蝉の鳴かない時間がないように思えた。


「毎年、こうやって兄さんの背中を眺めているような気がします」


「子供のころはいつも俺の後ろをついてきたのに、今は眺めるだけだもんなあ。そういや、あのころはまだ敬語じゃなかったっけ」


「そうですね。いつから敬語になったのか、私にもわかりません」


「わかるのは、なにかの影響を受けたってことだな。漫画……、いや、ドラマかな」


「あー、そうだったかもしれないです」


「昔から影響を受けやすかったよな。いろんなことに手を出して、そのうち飽きる――このパターンの繰り返し。そのおかげか、なかなかに万能になったけど」


「昔の話をするなんて、私たちも歳をとりましたね」美咲は膝の上に肘を置き、花のように開いた手に顎をのせた。かなり窮屈そうな体勢である。


 まったくだ、と思った。面白おかしく話すのならまだしも、懐かしむように話すなんてこれはもう歳をとったと言わざるをえない。


 ふと、水をやる手がとまり、局所的に大洪水が起きる。


 隣家が気になった。


 隣の家は空き家になっているらしい。以前は、俺と同い年くらいの子供がいて、円満な家族が住んでいた。


 明日夏さんの言葉を思い出すが、信憑性はない。そういう人だ。隣人がいつごろ引っ越したのかを憶えていない。


 しかし、時期によっては仕方ないことか……。


「どうしたんです?」


「いや……、なんでもない」

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