第2話 いつもの朝

「おい、起きろ」


 俺の朝の日課といえば、妹を夢の世界から現実へと連れ戻すことだ。


 起きて、顔を洗い、制服に着替え、そして妹の部屋へ行く。


 学校のある日は、いつもこうである。


「ふにゃあ、まだ大丈夫……」


「なにが大丈夫なんだよ。脱がすぞ、そのシャツ」


 いつのことだったか、使い古されたワイシャツを着て寝ると快眠できると知った妹は、俺のいない間に部屋のクローゼットからワイシャツを二枚ほど奪取した。返却するように言ったが、断固拒否された。


 仕方がないので、等価交換として妹のシャツを拝借させてもらったが、それをどうすることもできずに意味もなく部屋に飾った。そしてそのシャツは現在、奪還されてしまっていた。


「いいですよ、脱がしても」


 妹は一向に起きる気配がない。


「ただし、第二、第三のシャツが兄さんを苦しめることでしょう」


「第三って言ったか、今! 三枚目は初耳だぞ!」


「今のは、言葉の綾です」


「そう言えば、なんでも回避できると思うなよ」


「兄さんのシャツを奪ったのは事実ですが、返す気はありません。私にはシャツが兄さんのもとに居たくないと言っているのがわかります」


「はいはい」


 その冗談にも慣れた。


 俺はお前が外でそんな発言をしてないかが心配だよ。


 腕時計で時刻を確認すると、これ以上妹に付き合っていると、真面目に起床した俺までも遅刻しかねない時間だった。日に日に、妹が布団から出てこなくなっている。記録でもしてやろうかとさえ思えてくる。


 妹の――美咲の部屋は、同年代の女子には少数派であろう黒一色で染まっていた。カーテンも黒、布団カバー等も黒、本棚も黒。机はさすがに黒ではないが、周りの色のせいで黒に見えなくもない。


 しかし美咲は黒色が大好きとかで、こんな統一を行っているのではない。暗い方が集中できるかららしい。明色に包まれると落ち着かないようだ。自分の部屋をどうしようと俺にはまったく関係ないが、これを美咲の意図を知らない者が見れば、正気を疑うかもしれないと思うと、少しばかり黒色を減らした方がいいのかもしれない。


 ここまで説明したが、実はカーテンは開け放たれている。集中して眠りたいがために黒いカーテンでより明るさを殺しているというのに、それをまったく有効活用しないのが美咲という女だった。


 外ではかなり優秀らしいが、家ではずぼらな奴だった。


「兄さんは、羊を数えたことがありますか?」


 ねえよ、と妹をベッドから叩き落とした。本当に面倒のかかる妹である。短い悲鳴をあげ、ようやく美咲は身体を起こした。よく見ればシャツのボタンをかけ違えている。


「兄さん、これが妹にやる仕打ちですか」美咲が上目遣いで言う。


「妹だからやるんだよ」


 俺はそう言い残し、妹の部屋をあとにした。廊下を歩き、階段を下ろうとしたとき、扉の開く音が聞こえ、続けて少し速い足音が聞こえた。ようやく美咲が行動し始めたようだ。階段を下り終えるころには、追いついていた。


「明日夏さんは?」


「もうとっくに仕事に行った」俺はリビングへ続く扉を開いた。「お前、毎日それ訊くのやめろよ」


「いいじゃないですか。習慣というものは大切ですよ」


「じゃあ早起きを習慣づけろ」


「その話はさておき」


「おい、習慣の大切さの話をさておくんじゃねえよ。これから語り合うところだろ」


「今日の朝食もトーストですか」美咲は自分の席についた。「私、こう見えても根っからの日本食派なんですよ。これが妹にする仕打ちですか?」


「わかったわかった」俺は席に着きながら言った。「叩き落としたことは謝る――悪かった。だからその嫌味ったらしい話し方をやめてくれ」


「そうですか。わかってくれたのなら、私も安心です」美咲は微笑む。「まあ、私が悪いんですけどね」


 この手の会話は日常茶飯事のように行われていた。結局のところ、これも習慣なのだ。毎日のように会話をする。これを欠かさないことを決めていた。いつ決めたのかはまったく憶えていない。それが習慣というものだ。


 今日は始業式だ。夏休みが終わり、ついに始まったかというべきか、ついに始まりやがったかというべきか。今まで怠惰な生活を送ってきた者たちには、苦痛の始まりの日である。


 かくいう俺は、夏休みでもわりと普段どおりに起床し、いつもどおりにやるべきことをやっていたために、今日という日はあまり苦痛ではなかった。


 やるべきことというのは、家事全般のことだ。


 俺たち兄妹は、小学生のときに一度この街を離れている。その理由がなんであったかは、憶えていないというか、もともと気にしていなかったとも考えられた。繊細な心を持った子供ではなかったことが窺える。


 数年後、なんの気の迷いか俺はこの街の高校を受験し、そして見事に合格した。引っ越し先の自宅から高校までは到底通えるような距離ではないため、街に住居を構えた叔母である明日夏さんの家に住むことになったのだった。その際に明日夏さんにこの家の家事全般を任されたのである。


 まあ、つまるところの居候する条件だ。


 そしてその一年後、なにを思ったのか美咲もまたこの街の高校を受験し、見事に合格を果たした。同じ高校ではなく、近くの女子校だ。実に妹らしい選択だと言える。その女子校には学生寮が存在し、そっちで暮らすこともできたのだが、経済的に居候の方がいいということで、美咲も明日夏さんのお世話になることになった。


 ちなみに、美咲は家事をしない。まったくではないが、基本的にしない。


 つまり、この家に住んでいるのは、俺と美咲と明日夏さんの三人である。


「兄さん、時間は大丈夫なんですか?」


「まったく大丈夫じゃない。完全に遅刻だ」


「ああ……」美咲は冷めたコーヒーを飲む。「もう諦めたんですね」


「誰のせいだ」


「私に構った兄さんのせいです。ありがとうございました」美咲は小さく頭を下げた。


「お前の方は大丈夫なのか?」


「私の方は大丈夫です。始業式なんて、あってないようなものですから。ただ私がクラス委員長で、その仕事を誰かがやらなければなりませんけれど、それも問題ないです。私には兄さんと違ってお友達がいますし」


「突っ込みどころ満載だ……」俺は背もたれに寄りかかる。「つまりお前も遅刻なんじゃねえか。どうりでゆっくりしてるわけだ」


「元来、朝とはゆっくり過ごすものですよ」


「嫌になるくらい優雅だ」


「まあ、たまにはこういうのもいいと思いませんか? 日本人は少し慌ただし過ぎます。時間を無駄にしたくないという心掛けは立派だと思います。けれど、それではせっかくの一日が早急に感じてしまいます。もっと周りを見渡してみるとか……、そう、それでいて毎日を、ルーチンワークをこなしているだけだと思っているのもいけないですね。世界的に見れば、たしかに素晴らしい一面です。けれど、それが幸福かと言われれば、そうではないでしょう? つまり、なにが言いたいのかと言えば」


「学校を休みたいって言いたいんだろう」俺は美咲の言葉を引き継いだ。「お前がやけに饒舌になるときは、大抵そんなことを言い出すに決まってんだ」


「大正解です。これをプレゼントしましょう」


 そう言って美咲は、飲みかけのコーヒーをこっちに差し出した。カップは大事そうに小さな両手に包まれている。言わずもがな、もういらない、という意味だ。


「学校には行け」俺はコーヒーを受け取り、一口飲んだ。妹仕様のため、もの凄く甘い。正直、コーヒーに申し訳ない気持ちになった。「出席日数うんぬんのことを言うわけじゃない。ただこういうのは癖になると厄介だからな。初日が大事だ」


「明日から頑張りますから」


「昨日そう言ったと思え」


「無理です」


「というか、お前、クラス委員長なのか?」俺は話題を切り替えた。


「そうですよ」美咲はあっさり頷いた。「兄さんは家での私しか見ていないからわからないと思いますけれど、私、学校では結構やり手です。むしろ学校で神経をすり減らしていると言っても過言ではありません」


「女子校ってどうなんだ?」


「生徒は女子しかいません」


「そうじゃない。どんな感じなのかって訊いているんだ」


「別に……、普通ですよ? あくまで私の学校は、ですけれど。兄さんが抱いているであろう女子校のイメージどおりです。花園です」


「なんていうか、男子がいないから、やりたい放題になっているって聞いたけど」


「ああ、だから、そんな男子の幻想を打ち砕くような現実は、私の学校では行われていませんよ。みんな、きちんとしています。もちろん、私もきちんとしています」


「へえ……。文化祭っていつ?」


「さあ? 見に来たいのなら授業参観とかにすればいいと思いますよ」


「授業参観なんてあるのか」


「え? ないんですか?」美咲は首を傾げた。


「俺のところはないぞ」


「そうなんですか……。残念です」


「見に来ても面白くないぞ」


「兄さんの交友関係の狭さをこの目で見るために、この街に戻ってきたと言っても過言ではないというのに……」


「お前、歯ぁ食い縛れ」俺は握り拳と、満面の笑顔を作った。


「やっべ、遅刻だ、ちっこくぅ~」美咲は立ち上がり、一目散にリビングから退出した。逃げる速さだけは一人前だ。できることなら、その速さを起床の際に発揮してほしいものだった。


「口調、乱れてんじゃねえか……」


 俺はそう呟き、残りのコーヒーを飲み干した。

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