第8話 千里

  

  千里


 一人の少女が矢沢ジムの門を叩いた。名前は千里。17歳。丁度勝美が家出し矢沢ジムに入った歳と同じだ。この頃勝美はとりあえず入ってくる子には全て「どうあなた。プロでやってみない」と声を掛けていた。当然千里にも声をかけてみた。すると「はい。私プロになりたくて入門しました。3年前の勝美さんの後楽園でのエキシビジョンマッチ見てました。あの時女でもできるんだと感動しました。よろしくお願いします」「そう。じゃあがんばりましょう。ところで親御さんはプロになる事わかってるの。まさか家出じゃないでしょうね」「はい。説得しました」

「みんな勝美と一緒にするなよ。こいつ家出してきていきなり住込で練習生にしてくれって来たんだよ。確か君と同じ17だったな」「会長。余計な事言わないでいいから。親御さん公認なら良かった。未成年者は親の承諾がないとプロテスト受けられないのよ」「大丈夫です。ちゃんと了承してますし家出でもありません」千里は母子家庭で高校には行かず昼間はガソリンスタンドで働いていた。そう言った点ではボクシングにおいて大切なハングリーさは持っていた。「よし。今日は時間あるの」「はい。1時間くらいでしたら」「じゃあ今日はとりあえず体験という事で一通り軽くやりましょう。まずは縄跳び1ラウンド。1ラウンド3分だからね。早速始めて」千里は縄跳びからサンドバッグまで一通り体験した。これを見ていた勝美は驚いた。「何この子。全くリズム感がない。ひどい運動オンチ。センスのかけらもない。まいったな」勝美は内心頭をかかえた。

 翌日から千里は毎日ジムに通った。

 「千里。あなたこれまで運動は何をしてた」「いえ。何もしてません」「そうよね。運動していたとはとても思えないもの」「わかりますか」「わかるわよ。私これでもアスリートだから」「運動は子供の頃から苦手で」「プロになるには相当頑張らないと無理ね」「頑張ります」とは言えちょっとひどすぎる。勝美は「こりゃー1ヶ月持てばいいかな」と思った。

 ところが千里は毎日ジムに通いあっという間に3ヶ月が経った。

 「あれ。千里。縄跳びだいぶ様になってきたね」「ありがとうございます。自分でもびっくりです」「へーやっぱり継続は力なりね」「はい。勝美さん。私続ける事には自信があるんです」「続ける事も才能の一つだからね。人より時間は掛かるかもしれないけど頑張りましょう」「ありがとうございます」

 「普通は早くて半年。1年もあればプロテスト受けさすんだけどあの子はちょっと無理ね」

 「それでどうなんだプロになりたいって子は」成田が日本に戻ってきた。「なんなら俺がプロモートするよ」「あのね、それどころの騒ぎじゃないわよ。とんでもなく運動オンチなんだから。3ヶ月経ってようやっと縄跳びが跳べるようになったのよ」「ほーそれはまた貴重だ」「そうでしょう。本当参っちゃうわよ。ただ本人も言ってたけどこれと思った事を続けるのは大したもんなのよ」「へーそれって才能だよね。もしかするともしかするんじゃない」「まー長い目でみるわ」

 矢沢ジムでは練習中はいつも矢沢永吉のミュージックをかけている。矢沢会長が永ちゃんの大ファンなのだ。因みに会長の本名は矢沢ではなく矢吹だ。現役当時のリングネームは矢沢ジョーだ。矢沢栄吉と明日のジョーの矢吹ジョーがごっちゃになっている。全くもって安易というか軽いというか。「会長。本当に永ちゃん好きですよね」「そりゃ我々60代のスパースターだもん。なんたって成り上がりだよ。めちゃくちゃかっこいいだろう」「確かにとても60代には見えませんね。会長みたいにこれでもかって位お腹出てないしね」「うるせー。余計な事言うな。大きなお世話だ」「会長。本当にフェザー級だったんですか。減量大変だったでしょう」「確かに減量はきつかったな。15㎏位落としてた」「15㎏はちょっと凄いですね。もっとウェイト上げれば良かったじゃないですか」「あのね。俺は身長158㎝しかないの。フェザー級でも一番小さい方なのにこれ以上上のクラスに行ったらもっとやりずらくなるだろう。でもね俺はこれでも日本タイトル14回防衛の記録保持者だよ」「確かに。凄いですよね。本当。今は見る影もないけど」「大きなお世話。さー勝美はほっといて今日も永ちゃん聞きながら頑張ろう。千里ちゃん」「はい」「んー。かわいいね。シェキナベイビー」「なんだこのエロ爺。それは内田裕也だよ」「んっ。なんか言った」「いいえ。千里気にしないで練習練習」

 千里は日曜日を除いて毎日ジムに通った。日曜日は完全なオフにするそうだ。休む事もトレーニングの一つという事だ。勝美は千里に毎朝のロードワークを課した。「千里。毎朝ロードワーク5㎞走りなさい。ボクシングで最後に物を言うのはスタミナだからね。それには走る事が一番よ。いい」「はい。わかりました」それから千里は日曜日を除き毎朝走った。

 それから半年が経った。「千里。ちゃんと毎朝走ってる」「はい。日曜日以外は毎朝欠かさず走ってます」「よし。これからもきちんと続けなさい」「そういえばこの子ここの所だいぶ足腰がしっかりしてきた」勝美はひょっとするとひょっとするかもと思い始めていた。あと3ヶ月で千里が入門して1年。勝美はそろそろ千里のプロテストを視野に入れ始めていた。

 「ねー成田さん。千里。あなたが言った通りもしかするともしかするかも知れない」「そうだろう。続けられる奴が結局は最後勝つんだよ。俺が言った通りだろう」「あのねー私はもしかするとって言っただけ。まだまだ分からないわよ」「いーや。俺はいけると思うよ」「だってあなた千里にあった事もないじゃない」「じゃー今度会わせろよ」「もう少し先が見えたらね」

 「チャイナタウン・・・・」今日も永ちゃんだ。「会長。おはようございます」「おう。勝美。永ちゃんはいいだろう」「そうですね。よく毎日聞いてて飽きねーな」「んー何か言ったか」「いえ。何も。年取っても耳だけはいいんだから」「それも聞こえてるぞ」「やばっ」 

 勝美は千里のプロテストの目安を半年後に設定した。その為のトレーニングメニューの作成を開始した。

 ◯朝 5㎞ロードワーク、ラダートレーニ 

    ング、シャドー3ラウンド

 これで準備運動を入れて約1時間のトレーニング

 ◯夕 縄跳び2ラウンド、腿上げジャンプ   

    20回*3セット、腕立て20回*  

    3セット、シャドー3ラウンド、サ 

    ンドバック5ラウンド、パンチング

    ボール3ラウンド、ミット3ラウン  

    ド、振り子1ラウンド、腹筋・背筋 

    20回*3セット、首の強化トレー  

    ニング

 これを基本的なメニューとした。

 「問題はスパーリングね。まだまだ女子選手は少ないから男子選手の中から体重が軽い子を選んでやるしかない」幸い矢沢ジムには高校生、大学生の軽量級の選手が複数いた。千里は女子でも54㎏位だから千里の方がウェイトはある。ただやはり男子とはスピードが違うがその分差し引いても丁度いいスパーリングパートナーだ。

 「このメニューで半年間乗り切ればプロテストも何とかなる。問題は千里が付いてこれるかどうかだ」

 翌日千里に「千里。プロテストを半年後に受けようと思う。それでこれからのトレーニングメニューを作ったんだけどちょっと目を通してくれる」「はい」千里はそれを見て一瞬顔が引きつった。「どう。出来る」「出来るも何もやります。これをやらないとプロテスト受からないわけですよね」「そう。今のあなたじゃ最低これくらいやらないと追いつかないと思う」「わかりました」「じゃー早速今日から始めるわよ。それとあなたのジムに来れる時間を1週間教えといて。それに合わせてスパーリングの調整もするから」「わかりました」「じゃー早速始めて」

 正直男子でもこのメニューはきつい。又、勝美のトレーニングは非常に厳しい。「千里。休みはインターバルの40秒だけ。それ以外は3分間休まずトレーニングを続けなさい。はい次。サンドバック」通常インターバルは1分だが矢沢ジムでは40秒に設定してある。「バン。バン」「ちょっと何なのそのサンドバックは。もっと強く叩きなさい。パンチ力はパンチを出して始めて身につくのよ。もっと強く。もっと速く。遅い」「カーン」ラウンド終了のゴングが鳴る。「はい。次直ぐやる」まったく休みを持たせない。「ちんたらやってもスタミナつかないわよ。ボクシングのスタミナはボクシングで作るのが一番。休むな休むな」ミット打ち「ジャブ」「パスン」「何。そのパンチはもっとビュンとスピード出して」「パン」「遅い」「パチン」「もっと速く。左は世界を制す」

 初日の練習が終わった。千里は全く動けないでいる。「いい千里。今日は初日だからあんまりうるさく言わないけど今日の練習は全然だめ。全く付いてこれてない。もっと考えながら練習しなさい。ただラウンドこなすだけじゃ進歩しないよ。頭使いな頭。今日はもういいから早く着替えて帰りなさい。風邪ひくわよ」千里は返事も出来ず頷くだけだ。「付いてこれるかな」

 千里は宣言通り毎日ジムに来てトレーニングを続けた。テストまであと3ヶ月。入門してからちょうど1年が経った。「よう勝美。千里はどうだ」「まー見てくださいよ。1年前とは大違いでしょう」「本当だな。凄い進歩だ。1年前はひどかったもんな。どうだテストの方は」「そうですね。あと3ヶ月このままきちんと練習を続ければ行けると思います。でもテストに受からせる事は出来ても試合で勝つようになるにはまだまだですけどね」「まーそれは次のステップだよ。まずはプロテスト合格だ」「そうですね」「受かったらテーマソングを決めないとな。やっぱり永ちゃんだな」「まじですか。ちゃんと本人にも聞いてくださいよ」「わかってる。わかってる」「大丈夫かなこの会長」

 プロテストまでの3ヶ月千里は毎日欠かさずジムに来て厳しいトレーニングをこなした。

 「大分良くなってるけど問題はスパーリングね。特にディフェンスが全然だめ。あんたパンチは避けるもので顔で受けるもんじゃないんだよ。あんなパンチたくさんもらってたら頭ばかになるよ。もっと体振らないとパンチは避けられない。テストまでダッキング、ウィービングの練習をもっとやって。じゃなきゃ受からないよ」「はい。わかりました」「この子基本的に攻撃力が全然ない。元来のセンスのなさがやっぱりネックだ」 

 そしてプロテスト当日を迎えた。先ずは筆記試験だがこれは事前に出題がわかっているので問題ない。肝心なのはスパーリングだ。スパーリングは2ラウンド。1ラウンド2分で行われる。それとシャドーボクシング1ラウンドが女子のC級ライセンスのテスト内容だ。スパーリングは日本のボクシングの聖地「後楽園ホール」で行われる。

 千里のスパーリングが始まった。「何?どうしたの。千里攻めなきゃ。全然体が動いてないじゃない」スパーリング中は大きな声は出す事が出来ない。「何なの一体。練習と全然違う。これじゃ受からない」テストが終了した。「どうしたの千里。全然体が動いてなかったじゃない」「すみません。緊張して何が何だか覚えてません。後楽園のリングを見た瞬間から緊張しちゃいました」「ちょっと今回は無理ね」「すみませんでした」翌日。結果が出た。勝美の予想通りやはり不合格であった。

「千里。やっぱりダメだった。どうするまだやる」「もちろんです。勝美さん。次回頑張りますので今後とも宜しくお願いします」「ふー。まーいいか。テストは毎月あるけど来月のテストはもう間に合わないから再来月になる。これまで以上にしごくよ」「はい。お願いします」「多少緊張してもいいように体に覚えこませるくらいトレーニングするからね。ちゃんとついてきなさいよ」「はい。ありがとうございます。頑張ります」

 これまで以上に激しいトレーニングが始まった。「ほら。次のラウンドが始まるよ。ちんたらやってんじゃないよ。そんなんじゃ次も受かんないよ。はい。移動は駆け足。休んでんじゃない。サンドバッグは休まず打ち続ける。じゃないとスタミナなんかつかないよ。休むな。休むな」15ラウンド休みなしのトレーニングが連日続いた。

 2ヶ月後プロテスト当日。今回は筆記テストはない。筆記テストは一度受けるだけで免除される。いきなりスパーリングの実技テストだ。千里のスパーリングが始まった。

「ジャブ、ワンツー、フック、アッパー、フック、ストレート、ボディ、ストレート」「うん。練習通りのパンチが出てる。やっぱりこつこつとしっかり練習していたんで体にきちんと身についている。でもちょっと迫力に欠けるな。攻撃力がやっぱりない。ちょっと微妙だな」スパーリングが終わり千里は満足気な顔をしている。「勝美さん。どうでしたか」「ちょっと微妙ね。攻撃力がない。迫力に欠けるのよ。明日の結果待ちね」「そうですか」「まっ明日になんなきゃわからないから。とにかく早く着替えて今日は帰りましょう」「わかりました」

 翌日。結果が出た。不合格。勝美は電話で「千里。残念だけどダメだったわ。どうする。まだやる」「・・・やります。受かるまで頑張りますので今後とも宜しくお願いします」「そう。わかった。まー今日は1日ゆっくり休みなさい」「今日は日曜日じゃありません。休んでなんていられません。いつも通りジムに行きますので宜しくお願いします」「ふー。わかったは待ってる」「はい。ありがとうございます」電話を切った。「本当にあの子は根性だけはある」

 「さて、千里。次はいつ受けるつもり」「はい。2ヶ月後でお願いします」「そう。わかった。あなたに足りないところは1に攻撃力。2に迫力。まー闘争心に欠けるってとこかな。これはもうスパーリングを増やすしかないわね。それと迫力がないイコールパンチ力がない。これは下半身を強化して体幹を鍛えるしかない。今日から私を肩車してスクワットトレーニングを加えるよ。それと朝練に50mダッシュ10本加えて。体幹を鍛えるには走るのが一番だからね。スピードもつくし。どうできる」「やります。今度こそ絶対に合格します」「よし。じゃー早速練習始めて」「はい」千里の猛烈なトレーニングが始まった。「今度こそ絶対受かってやる。3度目の正直だ」

 2ヶ月はあっという間に過ぎ、テスト当日を迎えた。今回も筆記テストはない。千里のスパーリングが始まった。「これなら大丈夫だ。さすがに3度目だからリラックスもしてるし何よりパンチも強くなって力強さが出てる」勝美は見ていて合格を確信した。

 翌日結果が出た。予想通り合格。「おめでとう千里。これであなたもプロボクサーね」「ありがとうございます。これも勝美さんのお陰です」「まー3回も受ける人も滅多にいないけどね。それでどうするの。プロとしてやって行くの。それともライセンス取ったからやめる。結構そういうのもいるよ」「勝美さん。何言ってるんですか。もちろんプロとして頑張ります」「うん。でもはっきり言っとくけどプロは甘くないよ。正直あなたには向いてないと思う。私に気使って無理して言ってんじゃないでしょうね」「違います。だって私初めて勝美さんにお会いした時にプロ志望とはっきり言ったじゃないですか。忘れたんですか」「もちろん覚えてるよ。でもね。プロでやって行くと言うのは相当な覚悟がいるよ」「わかってます。頑張りますから今後ともよろしくお願いします」「よし。わかった。あんたの覚悟を知りたかったのよ。さて、

テストも合格したことだし問題はこれからよ。まずは4回戦で4勝して6回戦に上がる事。これまで以上にしごくから覚悟しといて」「はい。頑張ります。よろしくお願いします」「おーい。勝美。千里ちゃん。テーマソング決めたぞ。永ちゃんのスタイナー逃亡者だ。こりゃかっこいいぞ」「あのねーリングに向かう曲が逃亡者じゃどうしようもないでしょう。何考えてんの」「そうかなぁ。かっこいいと思うんだけどな」「駄目だこりゃ」



  

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