党大会
党大会
私は党大会にて参議院の候補者として壇上で紹介された。その後新聞社の質問などを受け夜8時過ぎの新幹線に飛び乗った。「いやー参ったな。やっぱり国政選挙ともなると全然違うな。何だよこの調査表の数は」各新聞社から配られた候補者の調査表だ。「写真はバンバンとられるし参ったな。まーでも今日も終わりだ。お疲れ様だ」車中のビールだ。至福の時だ。
「昨日テレビに出てたね」何人もの方から電話が入った。「えっあんなの見てた人いるんだ」どうやら昨晩のニュースで映ったようだ。テレビの力は凄いと改めて感じた。
比例区は対象選挙区が全国だ。とは言え芸能人ではあるまいし全国的な知名度など全くない。
「まずは地元廻りだよな。その後はとにかく全国の知り合いをピックアップして片っ端から連絡を取ろう」
まずは地元を廻った。廻ってみると参議院の比例区に対してほとんどの方が理解をしていないのには驚いた。「名簿は何番めだ」とか「新撰と書けばいいのか」だとか確かに新撰と書けば党の票にはなる。しかし私の票にはならない。比例区の順位は名簿ではなくあくまでも個人票の得票で決まるのだ。これを理解している人はほぼ皆無であった。
「こりゃ大変だな。まずは仕組みを理解してもらわないと」それはそうだこれまで地元から参議院比例区に立候補した者はいない。誰一人投票経験がないのと一緒だ。
「それにしても雲をつかむようなもんだな。どうするか」
私は恩師の元衆議院議員で全国区にも出馬経験のある方に相談した。
「先生。この選挙はどうやって戦ったらいいですか。全くわかりません」「高杉君ね。私もやったけどこれは難しいんだよ。私は選挙区に出る候補者の所に押しかけて構わず便乗選挙をやったよ。それぐらいしかないよね。誰か一緒にやってくれる人はいないのかい」「正直先日公認されたばかりでどんな候補者がいるのかもわかっていない状況です」「そうか君の地元の選挙区から出る人間はいないの」「今のところはまだいません」「それが決まればその人間と回るのが手だと思うよ。後は片っ端から知り合いのつてを辿るんだね」「わかりました。それしかないですね。ありがとうございました」
その後は党主催の選挙説明会に出席した。その席での説明では比例区での個人票は選挙区の個人票の10倍の価値があるという事だ。要は比例区での1,000票は選挙区での10,000票に値するという事だ。新撰の当落ラインは50、000票と言われていた。そうすると選挙区で考えると500、000票ということになる。これはとてつもない票だ。やはり全国的に知名度のある著名人でないとこの選挙は難しいと改めて実感した。しかしだからと言って今後のこともあるのでやるだけのことはやらねばならない。もし今回ダメでも党での自分の立ち位置をきちんとしておかねばならない。そのためにもできる限りのことはやらねばならない。
「選挙が終わるまではジムには行けないな」
「りょう。話がある。実は又、選挙に出ることになった。それで選挙が終わるまではトレーニングは一人でやってくれ。もう何をやったらいいかはわかるよな」「うん。わかった。大丈夫だよ」「よし。しっかりやれよ」「うん」
選挙戦が始まった。今は4月だから投票日まで3ヶ月半だ。まずは朝7時から8時半まで月曜日から金曜日まで地元市内各駅での駅頭。その後支援者廻り、昼と18時からは県内主要ターミナル駅での駅頭を主とした。
その間リョウは一人で黙々とトレーニングに励んだ。元来自分で決めた事はバカが付くくらいやり通すタイプだ。これまで通りしっかりとトレーニングを積み4月のプロテストに臨んだ。
「どうだリョウ。今度は行けそうか」「わかんない」「まー最近全然見てないからわかんないけどそろそろ何とかなんじゃないか」「うん。そうだといいんだけど」
こればっかりはどんな選手とスパーリングで当たるかわからないので運不運もある。普段やらないサウスポーと当たったり、アマチュア経験者と当たったりすると最悪だ。
そんな頃知り合いからダルマを頂戴した。
「リョウ。ダルマに片目入れろよ。プロテスト合格祈願だ。受かったらもう一方に目入れしよう」
リョウはダルマの片目に目入れをし祈った。「今度こそ頑張るぞ」
そしてテスト当日。今日も筆記試験は免除。スパーリングのみだ。もちろん私は立ち会っていない。リョウ一人だ。相手は何と事もあろうにサウスポーだったそうだ。何とか2Rやり遂げたらしいが結果は明日だ。
その晩「どうだったリョウ」「うん。わかんない。相手サウスポーだった」「そっか。ついてねーな。でもまだわかんないだろう。もしダメでも次があるよ」「そうだね」心なしか元気がない。
翌日結果が出た。リョウの名前はやはりなかった。これで3度目の失敗だ。「なんだかここのところうちは運がないな。なんとかしないと」
そんな時だ。妻の真里から嬉しい知らせが来た。
「実はパパには黙っててって言われてたんだけどジュンが小説出すのよ」「はっ。意味がわからないけど」「あの子前から携帯小説に投稿してたみたいで中1の時に書いたのが結構人気があってそれを文庫化したいってことで出版社から話があったの。それで今度出版することになったの」「ちょっと待て。それって凄くねーか。向こうから出してくれって言われたんだろう。大したもんだな」「ねー私もびっくり」「いやーすげー。これはめでたい。久しぶりに明るい話だ。いいぞー。さすがジュンだ」「でもこれは発売するまで内緒だからね」「なんでよ。もう決定なんだろう」「そうだけど出るまであなたにも内緒にするって言っちゃったから」「なんだそれ。まっいいやわかった。いやーそれにしても凄い。めでたい」我が家にとっては久しぶりの明るいめでたいニュースだ。
ほどなくジュンの本は出版された。私はその本を持ち歩き知り合いに会うたびに宣伝した。数多の会合での挨拶でも「実は私の娘がこの度小説を出版しました。13歳の時に書いた本で現在花の高校生17歳です。ぜひご覧ください」完璧な親バカだ。自分の選挙の事よりも熱心に話す始末だ。それだけ嬉しかったんだろう。何せここのところの我が家は負のオーラで包まれていたから尚更だ。
私は近所の書店に行き「この本売れてますか」「あっそれ売れてますよ。でも不思議なんですよね。普通そういう本は若い人が買うんですけどやたら年配の方からの問い合わせが多いんですよね」
そりゃそうだ私の支援者は高齢者が多い。そういう方々の会合で宣伝してるんだから必然的にそうなる。
「あのこれ書いたのうちの娘です。地元なんでよろしくお願いします」又、こんなこともあった。後輩がやっている地元地域新聞にも「なあうちの娘が本出したから取材してくれ」こんな始末だ。究極の親バカだ。
「やっぱりジュンは俺に似たんだな。この才能はまさに俺だな」「何言ってんだか」真里も呆れっぱなしだ。
実際にジュンの本は10,000冊出版され、まーまーの出来だったようだ。真里の話ではその他にも暖めているのが何冊かあるらしい。しかし、受験を控えた身だ。受験が終わるまでは執筆はお預けだ。しかしよっぽど本を書くのが好きなのか暇さえあれば勉強そっちのけで書いているようだ。思い返せば小さい頃から本が好きでハリーポッターなどはほとんど丸暗記していた。
選挙も残すところあと2ヶ月の5月半ば選挙区での立候補者が決まった。
「よし。これで多少票が出るかな」
当初の予定では選挙区で候補者が出ればそれとの相乗りで相乗効果がでると言う目論見だった。しかし比例区は対象が全国。大票田の都市がある私の地元には日本中から有力候補者が集まってきた。その中には当然知名度の高い候補者もいる。選挙区候補者も当選を考えればそう言った候補者に乗っかった方が良いに決まっている。知名度のない私と回ってもメリットがないのだ。
「なかなか思い通りにはいかないな」初めての全国規模の選挙に翻弄された。
6月に入りいよいよリョウが4回目のプロテストに挑戦する。トレーナーの成川もいい加減なんとかなるだろうと思っている。そもそも可能性が0なら受けさせることもしない訳だ。ここまでは正直相手にもいまいち恵まれてなかったがそんな事よりもやはり一番の要因は力強さがない事だ。正直スタミナはテストを受けるには十分ある。それは成川も認めていた。後は攻撃力と力強さだ。やはり元来の優しい性格が仇となっている。リョウも今度こそとの思いが強いが生まれ持った性分はなかなか改善されない。
私は選挙まで残り1ヶ月となり全くジムには顔を出していない。朝も早くから駅頭、夜も帰ったら風呂に入り食事をしてすぐに寝る為、リョウとはほとんど会話らしい会話は交わしていない。
あっという間に6月のプロテストの日が来た。学科試験は1度受ければ良いのでリョウ
はスパーリングだけだ。例によってナンバーは1番。今日も最軽量。1番始めのスパーリングだ。このころになると後楽園ホールの試験管、レフリーでリョウの顔を知らない者はいない。さすがに4回目だ。誰しもが覚えている。それはプラスでもあれマイナスでもある。前回からあまり進歩してなければ恐らくダメ。逆に明らかに進歩がわかれば合格する。知られている分だけ厄介な面もある。リョウは精一杯やった。結果は明日だ。
結果はネットで見られるので翌日私が確認した。結果はまたしてもリョウの名前がない。不合格だ。私は極力明るく言った。
「リョウ。ダメだったよ」「えーまた」「次だよ次。10回目で受かる奴もいるそうだぞ。お前はこれまで全然運動もやってなかったからその分時間がかかるのはしょうがないんだよ。なっ次だ次」「うーん」
さすがのリョウも落ち込んでいた。
「まっ今週一杯休んで又、頑張ろう」「うーんそうだね」
7月いよいよ投票日まで残り1週間。参議院選挙は3週間。日本一長い選挙も残りわずかだ。私はできる限りの事をした。ポスティング、ハガキ等許されるものは全て行った。参議院選挙は他の選挙とは桁が違う。特に比例区は凄い。法定ハガキだけでも25万枚だ。これだけの数を出すところを見つけるのも大変だがそれを出す作業はもっと大変だ。支援者も総出で頑張ってくれた。何とかやるだけの事はやったが地元では知名度があってもやはり全国的な知名度は皆無だ。私はこれは次への布石だ。その為にも精一杯やる事はやらねばと思っていた。
投票日当日。即日開票だが比例区の結果は遅い。深夜。結果が出た。やはり思った通り惨敗だ。唯一の救いは地元では全候補者の中でトップの票をとった事だ。
「あー疲れたな。ダメだろうとは思ってたけど実際に結果が出るとやっぱしんどいな」実は選挙は本人はもちろんだが家族も相当苦労する。妻の真里はもちろんだが驚いたのは子供達だ。特に娘のジュンの落ち込みは相当なものだ。実は今回の選挙から初めて18歳以上が投票権を持った。要は子供達の年代が投票できるようになった訳だ。子供達は真里に言われ友達に私への投票をお願いしていたのだ。結果が出てジュンは2、3日学校を休んでしまった。流石の陽気な私もこれには参った。それはそうだ。自分の父親が惨敗したのは友達全員いやそれ以外の人間にも知れ渡り噂になっているのは明確だ。学校に行く気にはなれないのは当たり前だ。
「本当。俺はバカだな」家族のグループラインに書き込んだ。「俺が言うのも変だけど皆んな元気だそう。人生山あり谷ありだ。そのうち何とかなるさ。頑張ろう」誰からも返信はなかった。
元々ジュンは難しい年頃で私とはまともに口も聞かない状態だったがこれ以降輪をかけて酷い状況となった。
その頃リョウはジムのトレーニングを続けていたが家計の状況もありアルバイトを探していた。これまでアルバイト等したこともないのでどうやって探したのかもわからないがいくつか面接を受けた。やはり全て不採用。コミュニケーションの苦手なリョウだ。接客は到底務まるとは思えない。ある時「ねーパパ。これなんかどうかな」見ると警備員の仕事だ。「お前これ多分。ガードマンだよ。しかも道路工事とかの。どこで仕事するかわからないしジムの練習もあるから時間がきちんと決まってる所がいいんじゃねーか」「でもないんだよ」「そこの回転寿司は」「あっそうだ」「お前ねーもうちょっと考えろよ。あそこなら皿洗いとか色々あんじゃねーの。受けてみろよ」「わかった」
結局近所の回転寿司に決まった。
私はと言うと選挙の敗戦処理に廻っていた。地元廻りはもちろんだが神戸の本部に出向き今後について話し合った。
「高杉さん。お疲れ様でした。どうでしたか」「いやーどうもこうもこの比例区と言う選挙はとても手に負えません。正直二度とやりたくないですね。でもおかげさまでもうどんな選挙も逆に言うと怖くないですね」「そうですか。今後はどうしますか」「もちろん新撰として活動して行きますよ」「どうですか次の衆議院選挙は」「いやー下手をすると今年中にあるかもしれませんよねー。流石に対応できません。それに今、家族の状況が芳しくないですわ」「とっ仰いますと」「実は娘が高校生で友達が18歳の子が結構いてその子たちに選挙の依頼をしたんですけど結果がこれでしたからショックで参りました。ですから今は選挙の話はとても流石に切り出せません。今は思いっきり格好悪いオヤジですから」「そうですか。まっまだ時間がありますからじっくり考えてください。そして今度こそ格好いいオヤジを見せてやりましょうよ」「そうですね。ありがとうございます。今後は党と相談しながらやっていきます」
帰りの車中。「いやーこれで当分神戸に来ることもないだろう。ひと段落だな」仕事帰りの新幹線はやっぱりビールだ。至福の時だ。
9月に入りジムに復帰した。ところがいつもいるはずの成川がいない。「どうしたんだ。会長。成川さんは」「んーちょっと体調崩して休んでるんだ」「あっそうですか。悪いんですか」「いやー酔っ払って階段から落ちて頭打ったらしいんだよ。幸い脳には異常ないみたいだけど」「そりゃー危ないな。成川さんも飲むからな。じゃー当分無理ですね」「そうだねー」
実はリョウは8月に5回目のテストを受けまたしても失敗していた。その時には成川はいたはずだ。成川は「このままじゃリョウの将来にとっても良くない。こんなプロテストごときで挫折したらダメだよ。何としても受からせましょう」と言ってくれていた。リョウも成川のことを頼りにしていた。それはそうだそもそものきっかけが成川の言葉からだ。その成川がいないのだ。「どうりで最近リョウの様子が可笑しいと思った」先日のプロテストに落ちた後いつもの様に「大丈夫だ。リョウ。そのうち受かるよ」と声をかけた。すると「僕。いくらやってもやっぱりダメなのかな」「何だお前。どうした。らしくないぞ。大丈夫だよ。努力は必ず報われる。努力は嘘つかない。信じて頑張れ」「なんか自信がなくなっちゃった」「お前ここまで頑張ったんだからここでやめたら一生後悔するぞ。来月から又、俺もジムに行くから一緒に頑張ろう」「うん。そうだね」これまでにないリョウであった。
「成川さんがいないのは痛いな。それになんかジムの雰囲気が良くないな」私は怪訝に思った。ジムに復帰し2週間が経った頃その原因がわかった。皆5回もテストに落ちているリョウに呆れているのだ。私には気を使っているがそれは雰囲気でわかる。成川と言う後ろ盾もいない。
「くそっ。参ったな。関係ねーや。堂々とやってやらー」ひとりごちた。
ところが9月に入りどうもリョウの様子がおかしい。リョウは小さい頃よりいじめにあいそれを克服する位打たれ強いし根性もある。そのリョウの様子がどうもおかしい。
「おい。リョウ。風呂入ろーぜ」久しぶりにリョウと風呂に入った。「お前最近なんか変だけどジムで何かあったのか」「別に」最近のリョウの口癖だ。「別にじゃねーよ。何だはっきり言え」「いやー実はさー。なんか変なんだよ。悪い僕と良い僕が出て来るんだよ」「はっ。何だそれ。意味がわからん」「んー何だろう。悪い僕はお前なんて才能ないんだからボクシングなんてやめろって言うんだよ。でも良い僕は努力は必ず報われるから頑張れって言うんだよ」「何だそれ。夢に出て来るのか」「いや夢じゃないんだよ。普通に起きてる時だよ」「何だそう言う感覚に陥るってことか」「んーもっとなんて言うか2人が入れ替わり出て来るって言うか。とにかくそんな感じ」「まー何だかよくわからんけどとにかく良いもんリョウの方で行け」「うーん。そうは思ってるはずなんだけど」
さすがのリョウも5回の失敗、父親の落選、成川がいなくなる等色々な事があり精神的に参っているようだ。又、リョウ自身もジムの雰囲気がこれまでとは違うのを肌で感じてるようだ。元来超マイペースで我関せずなのだがここまで結果が出ないのでは堪えるのも無理はない。
そんな状態の9月であったが6日の日にリョウは二十歳の誕生日を迎えた。練習が終わりリョウを連れ太郎に行った。以前から二十歳になったらビールが飲みたいと言っていたのだ。「マスター生二つね」「あいよ。おっ今日は息子も一緒か」「そう。今日誕生日で二十歳何だよ」「へーそりゃーめでたい。親父に似て飲兵衛なんじゃないか」「どうだろうね」「はいよ。生2丁」「よし。じゃーリョウ乾杯。おめでとう」「にがっ」「アッハハ。苦いか。これがそのうち上手くなるんだよ。ところでどうだ調子は」「うん。普通だよ」「そうか。まー色々言う奴もいるかもしれないけど気にするなよ」「うん。大丈夫」「絶対何とかなるさ。受かったらここで又、一杯やろう」リョウはなんだかんだ言いながらもあっさり生を飲んだ後、グレープフルーツサワーを飲んでいた。やっぱり親子だ。飲兵衛だ。「リョウ。ボクシングやってるうちは酒はあんまり飲むなよ」「わかってる」
私はと言うと選挙後の処理を済ませると同時に4年前に実質倒産にした会社の法的整理を済ませた。これも相当の誹謗中傷に晒された。当然ながらご迷惑をかけた方もいる。しかし人間「人の不幸は蜜の味」とは良く言ったもので、あることないこと面白おかしく全く関係のない人間が触れ回る。「おい。あいつはかみさんに愛想つかされてどっかに飛んズラしたらしいぞ」とかありもしない事を言う。だいたい普通愛想つかして出て行くのはかみさんのはずだ。「どうやらあいつは養子だったらしいぞ」終いにはこんな噂も出た。こんなものは可愛い方でもっとひどい噂も数多出た。これはこれまで私が議員をやっていたり目立つ存在だったからと言うこともある。噂にするには格好の的だ。いじめは子供社会だけの問題ではない。大人の社会にも当然ある。まさに村八分とは良く言ったものだ。只、私の人生訓の中に「絶対に逃げない」と「人の悪口は言わない」と言う信念があった。これは何も今に始まった事ではなくこれまで生きてきた中で何に直面しても逃げない、逃げたら絶対に立ち直れないとわかっていたからだ。又、人の悪口を言うと周りが不快になるし自分も後ろめたくなり前向きにもならないと思っていた。だが多くの人間は噂好き「人の不幸は蜜の味」だ。こう言う状況だから新しく仕事を始めようとしてもなかなかうまくいかない。ご丁寧にわざわざ商売相手に噂を吹き込みに来る奴もいた。
私は自分から弁解もしなかった。人の口に戸は立てられないと思っている。噂に弁解してもキリがない。正面切って質問して来る人間が入れば真実を伝えようと思っていた。しかしそう言う人も皆無だ。要は関わり合いになりたくないのだ。当然ながら周りから人はどんどん減って行った。しかし元来私は一人で酒を飲みに行ったりするのが好きなタイプであり、一人で過ごすのが実は好きであった。この点はやはり親子なのかリョウと似ているところがある。だからほっておくだけだった。とは言え収入がなければ生活は出来ない。今までの経験を生かし色々な会社の相談に乗り顧問として収入を得る事と不動産取引の仲介で収入を得た。不動産取引は水物だ。定期収入とは違う。もう一つ家計を支えたのは真里の塾の講師としての収入だ。それでもまだまだ足りずリョウもジュンも奨学金を受給した。大変な状況だ。ジュンの受験も控えている。我が家は最大のピンチを迎えていた。
ジムに復帰しリョウと二人三脚で再びプロテストに向け再始動した。基本的な練習は変わらないが兎に角もう少し見た目の力強さが必要なので下半身はもちろんだが上半身の筋トレに力を入れた。プロテストのスパーリングは兎に角手数が重要だ。其のためのスタミナ作りも欠かせない。次のテストは10月だ。
「リョウ。だいぶ良くなってるよ。自信持てよ。誰が何を言おうが関係ねーよ」「うん。わかってるんだけど悪リョウと良リョウが前よりも多く出て来るんだよ。それも悪リョウの方が多いんだ」「それって自分で全然意識してないのか」「全然してないよ」「そうか」私は首をかしげるしかなかった。
リョウのトレーニングは続いた。そしていよいよ10月の6回目のテストの日を迎えた。
「リョウ。リラックスして行け。いつも通りやれば大丈夫だよ。兎に角先に仕掛けて行け」「カーン」スパーリングの第一ラウンドが始まった。「あっ。サウスポーだ」私は舌を打った。「本当。ついてねーな」1ラウンド目が終わった。「まーまーだけど次のラウンド次第だぞ。こっちから攻めてけ。後はスタミナな」「カーン」第二ラウンドが始まった。若干相手に押され気味だ。「カーン」終了の鐘がなった。「はい。お疲れさん。シャワー浴びて着替えてこいよ」
「微妙だな。正直ちょっと厳しいな。なんで自分からもっと積極的に行けないんだろう。やっぱり根っこは変わらないのかな」私は正直今回も厳しいと感じていた。何しろ後楽園ホールのレフリーは全てリョウを知っている。はっきりと成長が見えないとなかなかもはや受かる状況にはない。
帰り際にリョウと遅い昼食をとった。「リョウ。もうちょっと自分から行かなきゃダメだよ。なんでもっと手を出さないんだよ」「えーそんなに悪かった。ちゃんと出来たと思ってるんだけど」いつになく強い口調だ。「まー明日になんないと結果はわかんないけど厳しいと思うぞ」「そんなー」
翌日結果が出た。やはりリョウの名前は無い。
「参ったなぁ。何て言うかな。まーいつも通り言うしか無いな」流石に気が重かった。「リョウ。ダメだったわ。でも絶対諦めるなよ。受かるまで頑張ろうぜ。皆んなを見返してやろうぜ」しかしリョウからの返事は無い。
リョウはジムを休んだ。私はいつも通り自分のトレーニングに行った。行くと矢沢会長が「高杉さん。次もやるんでしょう」「えーやると思いますよ。リョウももう20歳何で基本的には任せますけど受かるまでやると思いますよ」「今ひとつなんだよねー。本当に力強さが無いからね」「そうですよね。手足が長くてガリガリだから見た目でも損ですよね。あれでもう少しおっかない顔でもしてりゃいいんだけどどっから見ても中学生位にしか見えないですからね」そう。リョウは恐ろしいほど幼く見える。スパーリング相手がビビるはずがない。「あーあ。優しくて癒し系で最高なんだけどな。ボクシングとは真逆だよな。まっ1週間位ほっとくか」ひとりごちた。
「おいリョウ。そろそろトレーニング始めろよ」「うるせーな」「あっ。何だお前この野郎」リョウがこんな口の聞き方をするのは初めてだった。「どうしたんだお前」「えっ。何が」「何がってお前。今俺にうるせーなって言っただろう」「えっ言ってないよ」「はあ。お前おかしいんじゃねーの」「あーパパ。悪リョウが出たんだよ」「何だそれお前意識ないの」「そうなんだよ。最近悪リョウの方が多く出るんだよ」「大丈夫かよ。体動かせ。今日からジムに行け。汗かかないからだよ。汗かけばストレス発散にもなるしよー」「でもさっ。なんかもう自信ないよ。やっぱり悪リョウの言う通りなのかな」「お前。何弱気になってんだよ。ここで諦めてらんねーだろう。絶対に大丈夫。努力を信じろ。お前は人一倍頑張ってる。結果が出るのは人それぞれ時間が違うんだよ。お前は必ずこれから練習の成果が現れる。良リョウの言うことを信じろよ」「わかった」リョウの様子が以前にもましておかしくなってきた。精神的にも限界かもしれない。流石の私も頭を悩ました。ジムの雰囲気も日増しに悪くなっている。皆がリョウと私に呆れているのがはっきりとわかる。これまではリョウにとってジムはまさに自分の居場所の一つであった。しかし其の心の拠り所の居場所が居心地の悪いものとなっている。元来リョウは子供の頃から自分の居場所を見つけそこで自己コントロールしいじめなど嫌なことを乗り切ってきた。リョウのような発達障害の子にとって自分がホッとできる居場所と言うのは何よりも替え難いものなのだ。リョウの様子がどんどんおかしくなってきた。朝も起きてこない。声をかけても以前には考えられないような口の聞き方をする事が多くなった。普通の男の子なら親父に対して口答えするのはこの歳では珍しくないがリョウはそうではない。明らかに精神的に揺らいでいる状態だ。「これ位悪たれの方がボクシングはいいかもな」当初は心配したが視点を変えればこれも良しと考えるようにした。
会長から電話が来た。「高杉さん。今協会にいるんだけどリョウの次のプロテストの事で話をしたらまだ受けさせないでくれって言うんだよ」「ちょっと待ってくださいよ。本人はやる気んなって受かるまでやってやるって言ってんですから。ここまでダメだけど頑張って来てるのを踏みにじるのは勘弁してくださいよ。ここで諦めたら今後の人生にも影響しますよ。もう一回話してください。お願いします」「わかりました。又、連絡します」電話が切れた。「冗談じゃない。ここまで頑張って今更ダメなんてあるか。絶対に努力は報われる。努力は嘘つかないって言って来たんだ何が何でもやってやる」
数時間後「高杉さん。何とかOKしてもらったよ。最後は私も怒鳴りつけたよ」「すみません。ありがとうございます」「でも次こそ頼みますよ」「はい。頑張らせます。ありがとうございます」電話を切り「これがラストチャンスかもな」ひとりごちた。
ジムの雰囲気は悪くなる一方だ。「どうせ次も受かんねーよ」「センスないんだからやめちゃえよ」聞こえよがしの悪口を言うものまで出て来た。「うるせーよ」リョウが言う。皆が目を丸くして驚いた。そりゃそうだ私同様みんなリョウに対しては大人しいイメージしか持っていない。悪リョウが頻繁に出るようになったのだ。「くそ。絶対に受かってやる。努力は必ず報われる。努力は嘘つかない」良リョウだ。この頃には悪リョウと良リョウがひっきりなしに出てくるようだ。又、それが相乗効果になって良い方に向いて来ているようだ。逆にいいかもしれない。次のテストは12月だ。あと1ヶ月だ。
平成28年も12月に入りいよいよ今年も終わりと言う事で恒例のジムの忘年会が行われた。この席で事件がおこった。酔った年配の練習生が私に絡んできた。「だいたいよーボクシングは体育会系何だよ。ろくに挨拶も出来ねー奴が受かるはずねーだろ」「何だお前。うちのガキの事言ってんのか。うちのは最初と最後きちんと挨拶しとるわ。いつも後から来て先に帰ってる野郎が何言っとんじゃ。わかるわけねーだろう。オメーこそ酔っ払った時だけ声がでかくて普段はボソボソ何言ってかわかんねーんだよ」「うるせーよ何回受けても受かんねーガキはジムの恥なんだよ。受けさすんじゃねーよ」「何だとこの野郎」立ち上がった。途端に他の若い練習生たちが一斉に止めに入った。危なく乱闘になる騒ぎであった。
忘年会もお開きになり私は一人で太郎に行った。「ちきしょう。皆んな勝手な事言いやがって。一番辛いのは本人なんだよ。どんな想いで頑張ってると思ってるんだ。リョウのことを何も知らねーくせに、小さい頃からここまでどんだけ苦労してると思ってるんだ。ふざけんな。どんだけお偉いか知らねーがよくもまー親の前で人様の倅の悪口が言えるよなー。信じらんねーや。あれで元市会議員だからな呆れるわ」そうこの男は1期だけ私と共に市会議員をしていた。酔っているとはいえ人様の息子をその親の前で平気でボロクソ言う輩は絶対に許せないし人間失格だ。
突然目から涙が溢れ出した。「どうしたの高杉君」「いやー何でもないよマスター。只、悔しくてさー。こんな悔しいのはねーよ」私は飲んだ。そりゃそうだ発達障害と診断されてから特にリョウと必死に生きて来た。そしてリョウがどれだけ辛い思いをして来たかも知っている。そのリョウをボロクソ言われたのだから悔しさは計り知れない。
その晩は泥酔し家に戻りリョウに「リョウ。今度こそ絶対受かろうな。皆んな見返してやろうぜ。ちきしょう。馬鹿野郎」「どうしたの」「リョウ。ほっときなさいもう寝てるから」「ガー」私は驚くほど寝つきがいい。
二日後いよいよリョウのプロテスト7回目の挑戦の日だ。この日はリョウを含め3名のジム選手が受験する。計量が終わった。今回もリョウは最軽量。ゼッケンは1番だ。まずは女子のスパーリングだ。続いてB級ライセンスのスパーリング。いよいよリョウの番だ。「リョウ。兎に角自分から攻めて行け。もう皆んなお前の事はわかってるからこれまでとの違いを見せれば何とかなるからお前に足りないのは積極性だよ。思い切って行け」
「カーン」第一ラウンドが始まった。「あっちゃーまたサウスポーかよ。本当ついてねーな」「カーン」1回目終了の合図だ。「リョウ。もっとガンガン行け。頭からは行くなよ。止められたら終わりだからな。最後はスタミナ見てるからな」「カーン」第二ラウンドが始まった。「もっと自分から行けよ」「カーン」あっという間に2回目が終わった。「はい。お疲れさん。シャワー浴びて着替えて皆んなのスパーリング見学しろ」リョウのテストは終わった。「参ったな。又、ダメかもしれない。あー頭痛テー」私の自己裁定では不合格だ。
テストは終了したがこの日は知り合いのジムの選手の引退式がある為、私は一人後楽園ホールに残った。セミファイナルは元バンタム級日本チャンピオンの選手の引退式とファイナルは日本ライト級のチャンピオン戦だ。引退式もチャンピオン戦も素晴らしい内容だった。しかし心底楽しむ事はできなかった。それはそうだリョウのテストの結果が気が気でならない。私の中では今回もダメだと思っていた。今後の事を考えると頭が痛いのだ。後楽園ホールからの帰り道は憂鬱でしょうがなかった。「まっ結果は明日だ。今日は考えるのをやめてそっとしてよう」
矢沢ジムは駅から自宅に向かう途中にある。「あっそうだ。今日もらったポスタージムに置いて行くか」何気にジムに寄った。「お疲れ様」ジムには女子プロ選手と女性トレーナーの高木の二人がいた。「ちょっと今電話があってもう今日のテストの結果が発表されてるって。何だかリョウ君の名前が載ってるとか載ってないとか言ってたよ」「えっ本当。だっていつも明日じゃない」「ちょっとネットで見てよ」私はスマホで協会のホームページを開いた、「んっ。あっ本当だ載ってる。ちょっと拡大して見るよ」そこには高杉リョウとはっきり記載されていた。「うぉー受かった。受かったぞ」「いやったー」「いやったーおめでとうございます」二人と握手を交わした。トレーナーが「よく頑張ったよ。普通2、3回落ちるとめげて諦めちゃうもん。いやー良かった」女子プロも「おめでとうございます。なんかめちゃくちゃ嬉しいです」「いやー本当にありがとう。早速リョウに知らせてきます」私はジムを出て自宅まで急いだ。「いやったーいやったぞリョウ」目からは涙が溢れていた。「ただいま。リョウいるか」「いるよ。なーに」「受かった。受かったよ」「受かったってプロテスト。発表明日じゃないの」「ところがもう発表されたんだよ。見ろ」スマホを差し出した。「あっ本当だ。受かった」「だろう。受かったんだよ。万歳。万歳」私はリョウを抱きしめた。「なっ。努力は必ず報われる。努力は嘘つかなかっただろう」「うん。本当だね」「よーしこれからも頑張ろう」「何だかリョウよりパパの方が喜んでるね」真里が笑った。ジュンは呆れていた。
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