平成27年秋
平成27年秋
暑い夏が終わり10月になるといよいよ実践練習。スパーリングだ。プロテストの内容は筆記試験とスパーリング2Rだ。この筆記試験は形式的なもので落ちるものなどいない。ボクサーにはまともに字を書けないものもいる。勘違いしないで頂きたいがごく稀にと言う意味だ。ボクサーに能書きは不要だ。強いものがのし上がるだけだ。だから筆記試験の勉強などはしない。スパーリング、実践あるのみだ。だいだい筆記試験の問題と答えは公表されジムに貼ってある。それを見ておけば落ちようがない。
ジムにはリョウに合うウェイトの人間はほとんどいない。唯一いるとすれば女子のプロボクサーだ。それでも体重はリョウの方が軽い。必然的に出稽古に出かけなければならない。テストまであと1月半。週に一回の出稽古。それ以外はジムでトレーナー相手にマスボクシングだ。トレーナーと言っても成川ではない。若手のプロのトレーナーだ。誰も相手がいない時は私が付き合う。「おいリョウ。まだまだだな。俺に勝てなきゃプロテストなんか受かんねーぞ」「わかってるよ」私も伊達に6年ボクシングはやっていない。その辺の小僧には負ける気がしない。だがリョウは腐ってもプロ志望だ。50過ぎに勝てない様ではとても合格はしない。
リョウは私とやる時は正直なかなかいい。しかし他人とやると従来の優しさが出てしまうのかなかなかパンチを当てる事が出来ない。
会長の矢沢にはいつも「リョウ。パンチ当てろよ。そんなんじゃ受かんねーよ」と怒鳴られている。この会長の矢沢は元フェザー級の日本チャンピオンで15回防衛記録を持つ男だ。この記録は未だに破られていない。ちなみにトレーナーの成川は元日本ライト級チャンピオンでトレーナーとして2人の世界チャンピオンを育てている名トレーナーだ。
ここで二人の現役時代について少し話しておこう。会長の矢沢は元フェザー級日本チャンピオン。フェザー級にしては身長が低く160cm弱だ。ボクシングスタイルは身長が低い事もあり相手の懐に入り兎に角連打。休まず打ち続けるタイプだ。兎に角スタミナがあり当時はタイトル戦は15Rだったが1Rも休む事もなく打ち続けるほどスタミナには定評があった。ずっと手を出し続けるものだから相手選手がほとほと嫌になるそうだ。それに対して成川は元ライト級日本チャンピオン。こちらはどちらかというと接近戦ではなく自分の距離をしっかりと保って戦うタイプのボクサーだ。正直全くタイプが違う。この事が実はリョウを悩ませる事になる。
「リョウ。サンドバッグは全力で叩け。弱いパンチはいらない。手は絶対に休めるな連打連打」これが成川だ。
「リョウ。全力じゃなく兎に角アッパー、フック、ストレートで短くてもいいから細かく手数出せ」これが会長。
正直言ってる事が全然違う。元来不器用なリョウだ。それにすぐにパニックを起こしてしまう。どっちの言う事を聞けばいいのか頭を悩ませていた。
「ねーパパ」「なんだ」「あのさー会長と成川さんが言ってる事が違うんだよ。どうしよう」「そーだな。俺も見てて思ったよ。会長は滅多に来ないから来た時だけ会長のいう事聞いてればいいじゃん。普段は成川さんのいう事聞いて」「そうだね」「それが世渡りってもんだ」「よわたりって何」「世の中をうまく渡り歩くってことだよ」「世の中って渡るの」「まーいいや。どっちにしたって二人とも言ってることに間違いはないだろうから。只、二人ともタイプが違うからしょうがないんだよ。お前もプロテスト受かったら自分のスタイルを作らなきゃいけないんだからな。まずはテストに受かる事だよ」「わかった」リョウの会話は極端に短い。
「ダメだなー。やっぱり全然闘争心が感じられない。ボクシングにとってある意味それが一番大事だからその部分がないとテストは受かんねーぞ。もっと向かって行かなきゃ」成川が言う。
「はい。やってるつもりなんですけど」リョウにすれば精一杯やってるつもりなんだろうが側から見ると全くそれが感じられない。決して逃げているわけでもないのだが迫力が感じられないのだ。これはガリガリに痩せているのもあるだろうがやはり根本的に力がないのだ。パンチが軽く弱く見える。筋トレは続けているがこれまでスポーツ経験が無かったと言うのはやはり大きな弱点だ。ボクシングをやるような子は小学校、中学校、高校と運動には自信のある子たちばかりだ。この差を埋めるのは容易ではない。
「まー兎に角実践あるのみだな。テストまで1ヶ月もないからこれから体づくりじゃ間に合わないしな」成川が言う。
10月の後半に私は軽い心筋梗塞を起こし入院してしまった。幸い大した事もなく退院したが流石にリョウとのスパーリングは当分お預け状態になってしまった。
10月も終わりテストまでは後25日。11月26日がテスト日だ。
「高杉君。どうだい倅は」「そうだなーまー今回は厳しいんじゃないかな。まっ1回で受からなくてもいいよ。運動なんて全然やった事もない子だからね。今回ダメでも受かるまで頑張れって言ってるよ」「そうだな。それでいいんだよ」私は練習後の一杯をやりに太郎にいた。例によってマスター相手に与太話だ。
「でもねマスター。俺は嬉しいんだよ。あのいじめられっ子のリョウがボクシングのプロテストだよ。信じらんないよ。まー内藤チャンピオンもいじめられっ子だったみたいだけど実際に自分の息子がプロを目指すと思うとなんとも言えない気分だよ。でもあれだねやっぱりスパーリングで息子が殴られてるのを見るのは嫌だねー。女房が見にこないのはわかるね」「そりゃそうだろう。自分の子が殴られるのなんて親なら誰でも嫌だろう。特に女親はな」「そうだよなー、でも後楽園ホールなんて行くときゃっきゃっ言いながら指の隙間を大きく開けて一番はしゃいで見てるのは女の子だけどね」「そっ。女は血を見るのに慣れてるからね!それに戦いが好きなんだよ。基本的に。ライオンも狩をするのはメスだからね」「なるほどね。でも結構可愛い子が多いんだよね。ボクシングファンは。リョウもモテるかな」「そりゃー強くなればモテるよ」「そりゃー楽しみだ。まっ難しいと思うけどな」今日も与太話だ。
「さて、誰かリョウとスパーリングやる奴いないか?おっ畳屋お前やれ」成川が言った。「えっ俺っすか。全然ウェート違いますけど」「いいんだよいないんだからグズグズ言ってないでやれ」「わかりました」この畳屋と呼ばれた練習生は元々アマチュアの選手で現在は畳職人だ。実力的には十分プロのレベルである。しかしウェートはリョウより10kg以上重い。なかなか男子でリョウ程度の体重の人間はいない。通常フライ級の選手も減量してその体重にするのであって普段ははるかに体重は重い。しかしリョウは減量も何もせずに普段から50kg前後の体重だ。相手を探すのは一苦労だ。
「普段から重いのとやってた方が本番になれば楽だからいいよ。本番では同じくらいの奴と当たるんだろうから楽に感じるだろう」「でもパンチの重さが違いますけど」「パンチもらわなきゃいいんだよ。いいなリョウもらうなよ」「はい」「はいってリョウ俺のこと舐めてる」「いいえ」「もういい。とっと始めろ」「ブー」ゴングが鳴った。やはり畳屋はうまい。伊達にアマチュアではやっていない。今の時代。世界チャンピオンを見渡すとほとんどがアマチュア出身の選手だ。そうでないのはパッキャオくらいだろう。それだけアマチュア全盛の時代だ。
「リョウ。もっと体振れ。正面に立つな。お前の方が手が長いんだからもっとジャブ出せ。ワンツー主体。ワンツー主体」
2Rが終了した。「やっぱり全然力強さがねーなー。まっ今回はダメでも次があるからな。負けんなよ」「はい」受ける前から絶望的な言葉だ。
なんやかんやであっという間にテストの日がやってきた。
「リョウ。余裕持ってちょっと早めに行こう。12時までに着こう」「わかった」私はあまり車の運転は好きな方ではないので移動はほとんど電車だ。それに電車の方が時間が読める。しかしここのところ電車はよく止まる。事故が多いのだ。実はこの日も電車が止まった。「参ったな。どうするか。今更車で行く訳にもいかないし」「そのうち動くんじゃない」運よく10分足らずで動き出した。「やっぱり早めに出ておくもんだな。何かあっても対応できるもんな」テストは12時30分集合。13時からだが何とか集合時間には間に合った。テストはまずは体重だ。
「はい。次」「矢沢ジム所属高杉リョウです」「はい。乗って。んー50kgジャスト」
リョウのウェイトは50kg。ゼッケンは1番。やはりテスト生の中では一番軽い。
「はい。体重測った人はこっちの部屋で随時筆記試験始めて」試験管の目もゆるゆるの試験だ。暫くするといきなりリョウが手を挙げた。「すいません。ここわかりません」
「はあー。お前何言ってんだ」前代未聞である。わからない問題の答えを堂々と尋ねるとは流石の試験管も呆気にとられた。しかし驚いたことに答えを教えていた。さすがボクシングの筆記テスト。全然関係ない。結果は85点で合格。普通は100点か1問間違い程度だ。85点は相当低い方だ。しかし合格。そもそも合格ラインが何点かもわからない。要は筆記で落ちる奴はいないって事だ。無事に全員合格。
「おい。リョウ。いくら落ちる奴はいないって言うけど試験管に答え聞く奴はいねーぞ。お前面白すぎ。それにジムに問題と答え貼ってあっただろう。見なかったのかよ」「あーそうだった。いやっなんかさ思わず手上げちゃったんだよ」「これで完全に目をつけられたな。まっいいや。兎に角スパーリング頑張れ」「うん。わかった」リョウの会話は短い。
次はいよいよメインのスパーリングだ。通常は軽いクラスから行われる。そうなると当然リョウは一番最初だ。しかしこの日は女子のテストとB級ライセンスを受ける選手がいたのでこれらが終わった後に男子のC級ライセンスの試験が始まった。
「リョウ。少し体動かしとけよ。リングに上がってシャドーでもやってろよ」「うん。わかった」今日のテストには私も付き添いでやってきていた。「しかしみんなうまそうに見えるな。大丈夫かリョウは」何だか不安になった。思わず対戦相手を探して見てしまう。
さて、いよいよC級ライセンスのスパーリングが始まった。「1番」「はい」リョウが呼ばれた。相手は2番の選手だ。スパーリングでは名前ではなく番号で呼ばれる。囚人の様だ。スタイルは上半身裸、下は短パンだ。中央でレフリーの注意が終わった。「ボックス」いよいよ始まった。ボクシングで「ボックス」と言うのは「始め」の合図だ。1R中盤。いきなり止められた。バッティングの注意だ。プロテストではバッティングは特にうるさい。何とか1Rは乗り切った。続いて2Rが始まった。ここからはスタミナ勝負だ。だが途中またしても止められた。ここでスパーリング終了。最後までやることはできなかった。リョウがリングを下りてきた。やはり相当息が上がっている。テスト本番は普段の倍疲労すると言われている。そりゃそうだ初めての聖地後楽園ホールのリング。スパーリングの相手は初対面。緊張するなと言う方が無理だ。
「おーリョウ。お疲れ。とりあえずシャワー浴びて着替えてこいよ」「ハアハア」「何だ疲れたか。ここで待ってるから着替えてこい」「わかった」
「会長。今回はやっぱりダメですね」「まーいい経験じゃないの。次も受けるの」「そりゃーそうでしょう。受かるまでやるでしょう」「じゃー次頑張りましょう」「そうですね」
リョウが着替えを終え戻ってきた。
「さて、帰ろう。リョウどうだった」「うん。自分なりには出来たかなって」「そうか。でも厳しいかもよ。まっ明日に何なきゃわかんねーけどな。もしダメでもまだやるんだろう」「うん」「一度やると決めたんだから受かるまで頑張ろうぜ」「わかった」「でもよくここまで来たよ。もうちょいだもうちょい。もう11月だから今年も終わりだな。ダメだったらもう一回体を作り直して来年受けよう」「そうだね」リョウの会話は短い。
翌日テストの結果が発表された。結果はやはり不合格。
「リョウ。やっぱりダメだったな。どうする今日の練習は」「どうしよう」「まーそんな調子じゃ練習してもしょうがないから今週一杯休んで来週から又、気合い入れてやろう」「そうだね」この時はまだ二人とも次だ次と言う軽い気持ちでいた。
私は一人ジムでトレーニングをしていた。「やっぱり根本的に力がないし痩せてるから見た感じも貧弱に見えるのがよくないよな。どうすっかな」今後のリョウのトレーニング方法を考えていた。「まずは足腰強化だな。ランニングはもちろんだけど俺を乗せてスクワットやらせるか。後は腕立てだな」成川が来た。「成川さん。やっぱりダメでした」「そうか。まっ仕方ないよ。次も受けましょうよ」「えーもちろんそのつもりで本人もいます」「やってりゃそのうち受かるよ」「そりゃそうですね。でも成川さんには感謝してます。成川さんが言ってくれたお陰であのリョウがテストを受けられるまでになったんですから本当ありがとうございます」「何言ってんの。そう言うのは受かってからにしてよ」「アッハハそうですね。まずは受からないとですよね」
練習後いつも通り太郎に行った。
「マスター。リョウダメだったよ」「そうかー残念だな。まっ次もあるよ」「そうだね。でも頑張ったよ。だいぶ上手くなって来たよ」「やっぱり継続は力なりだよな。諦めなきゃそのうち何とかなるさ」「そうだね。いやー今日も生がうまいよ。寒くなって来たけどやっぱり最初はこいつだよな。マスターも一杯やりなよ」「サンキューありがとう。ヘイ。生一丁。高杉君の奢りで」「何だよ俺にもご馳走しろよ」「あれ。先輩いたんすか。いいっすよ。今日は残念会だ。丸田さんにも生一丁ね」「はいよ!生一丁。高杉君につけといて」太郎はいつも陽気だ。
週が明けて朝のトレーニングが再開された。
「リョウ。今日からシャドーやるときバーベル持ってやれ。パンチ力もスピードもまだまだ全然ダメだからな。それと50mダッシュをもっと入念にやろう。それと最後に俺を肩に乗せてスクワット50回な」「えっ。できるかな」「できるかなじゃなくてやるの」「わかった」最初はやはり私を乗せてのスクワットはできなかった。ちなみに私は身長180cm、体重80kgだ。リョウは身長170cm、体重50kgだ。「やっぱ無理だよ」「大丈夫だ。やってりゃできる様になる」案の定一週間でできる様になった。「ほらな。できるようになっただろう」「うん。本当だね」やはり継続は力なりだ。
朝晩のトレーニングは続いた。朝は6時半からランニングがスタートする。真冬のこの時間はまだ薄暗い。気温も低い。練習時間は凡そ1時間。トレーニング場所は近所の公園。終わる頃には汗びっしょりだ。その後家に戻りひとっ風呂浴びる。これが最高に気持ちがいい。朝練の辛さも吹き飛ぶ。リョウはこのあと約1時間一眠り。これが又、至福の時だ。朝練で疲れた体を睡眠で癒す。ベッドに横になると同時に吸い込まれて行く。まさに至福の時だ。私はと言うとストレッチをしながら8時からのNHKの朝ドラを見て朝食をとり9時から仕事だ。この朝ドラはクセになる。リョウは大学に行く。言葉に難があり会話が苦手であった為入試の時には面接で大変苦労したようだが何とか進学することができた。リョウが大学に行けるとは全く思ってもいなかったので受かった時には大泣きして歓喜の声をあげたものだ。
夕方は6時からジムでトレーニングがスタートする。約2時間のメニューをこなす。これが二人のルーティンだ。只、私にはもう一つあった。それは練習後の一杯。太郎への出勤だ。これが私にとっての至福の時だ。
こうして平成27年も暮れようとしていた。
「リョウ。次テストいつ受ける。年明けて2月にするか。それまでにはだいぶ筋力もアップして力強くなるだろう」「そうだね」「じゃー年明けジムが始まったら会長と成川さんに2月に受けますって言っとけよ」「うん。わかった」こうして初めてのプロテストを受けた平成27年も残念な結果だったが暮れて行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます