小学校
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ちょうどこの頃僕の暮らすまちでは市会議員の選挙が行われた。何とここに父さんが立候補した。地元からの推薦ももらえず大変厳しい選挙だった様だ。又、僕を地元の公立学校ではなく私立に入れたのが仇となった。「自分の子を地元の学校にも入れない奴が何で地元の為に仕事をする市会議員に立候補するんだ。おかしいだろう」結構色んな事を言われた様だ。当時僕の言語の発達障害の事は誰にも言わなかったので周りの人たちは言いたい事を言ってた様だ。父さんは時の市長の要請で出たみたいだけど地元からの反発はひどく「勝手に出たんだからほっとけ」「他に候補者もいるんだから迷惑なんだよ」色々言われた様だ。でもお陰様で何とか当選した。家には無言電話とか掛かって来て変な雰囲気だったけど当選した途端目の前の霧がぱっと晴れたように家の中も周りの人たちも明るくなった。そしてこの選挙を通して父さんと母さんは一段と仲良くなった様だ。
さて、僕の小学校生活が始まった。初めての電車通学。最寄り駅にはスクールバスが迎えにきている。毎日ワクワクして楽しかった。最初の2週間だけ母さんも学校の最寄り駅まで一緒に来てくれたけどその後は一人だ。父さんは母さんに「おまえ幾ら何でもたったの2週間じゃ無理があるだろう」「大丈夫。大丈夫。皆んなそんなもんだよ」「本当かよ」やっぱり母親の方が度胸がいい。僕も度胸がいいのか無頓着なのか一人でも全然平気だったしかえって気楽で楽しかった。又、うちの最寄り駅では父さんが毎週1回駅で喋っていた。所謂朝の駅頭。該当演説だ。「行ってらっしゃい」「いってきます」父さんとアイコンタクトを交わすのも楽しみの一つだ。
でもやっぱり私立でもいじめはあった。ゴールデンウィークが終わって6月頃から何となくクラスの体勢みたいなのが出来てきて案の定僕はいじめられる側だった。そりゃそうだ。何たってまともに会話が出来ない。友達も作れないし幼稚園の後半から話をするのも面倒臭くなっていた。それに一人でいる方が楽しかったから自分から打ち解けようとは全くしなかった。
1年生の夏休み前に初めての三者面談が行われた。母さんが来た。「先生。どうですかうちの子は」「はっきり言ってちょっと自閉症の気がありますね」実は入試に合格した後に母さんは父さんに「あなた。リョウの障害の事。話した方がいいかしら」「別にいいだろう。ちゃんと面接も受けて正々堂々受かったんだから」結局言わなかった。だけどさすがに先生にはわかった様だ。「お母さん。何れにしてもまだ小学校1年生。子どもはどんな成長をするかわかりません。しっかり見守って行きましょう。私は彼の成長を楽しみにしてます」「ありがとうございます。よろしくお願いします」
いじめには大きく分けて2種類あると思う。一つはやたらと構われる。ちょっかい出される。二つ目は無視。仲間はずれだ。最初は一つ目だった。兎に角休み時間になるとちょっかい出された。「おまえさーなにいってるかわからねーよ。ちゃんとしゃべろよ」「だから。あー。・・・・・」言葉が出てこない。ちくしょう。「なんだおまえ。ばかじゃねーの。おーい。こいつしゃべれねーぞ」ちくしょう。ちくしょう。こんなのはしょっちゅうだ。こづいてくる奴もいた。最初の頃はいい加減頭にきていじめっ子に向かって行った。「あー」「ドスン。バタン」返り討ち。そりゃそうだ。僕はクラスで一番のちび。相手は一番のでか。
それからはあまり無駄な事はしなくなった。授業が終わって休み時間になるとすぐに教室から出て行って一人になれる場所を見つけた。そこで一人で休み時間は過ごした。これが僕にはとっても楽しかった。何故なら周りを気にせず一人で色んな事を想像したりできるからだ。時にはチャイムが鳴ったのも氣付かずにいたら先生たちが探し回って迷惑をかけた事もあった。それからは僕の4つある学校での「居場所」は担任の渡辺先生だけには教えた。
二つ目のいじめ。無視。仲間はずれ。これは授業なんかでよく先生が「じゃーお友達3人づつ。好きな人と組んで」何て言う時がある。こんな時は僕の周りには誰もいない。いつも先生が見兼ねて僕を何処かのグループに入れてくれるけどそこでも「せんせい。だめだよ。こいつなにいってるかわかんないんだもん」「くそっ。だから嫌なんだ。ちきしょう」こんな感じで1年生は終わり2年生に進級した。
2年生になっても状況は変わらない。でも別にいい。どうって事ない。
ある日うちに帰るとでっかいボールがあった。「ママ。なにこれ」「あーなんかパパが運動の為に買ってきたバランスボールよ」「ふーん」このバランスボールが僕は非常に気にいった。この上に座ってぴょんぴょん跳ねていると何故か落ち着いた。これは未だに愛用している。
夏休みに入る前に三者面談が行われた。母さんが来た。「先生。どうですか」「そうですね。上手くやってると思います。入学した頃はよく周りからちょっかい出されたりしてたみたいですけど今は休み時間になると教室を出て行ってどっか行っちゃうんですよ。何だかお気に入りの場所があるみたいで。でもそう言う自分の「居場所」がある。「居場所」を作れる子は大丈夫ですよ。この子はそう言う子です。ところで家ではどうですか」「とにかくマイペースでのんびりしてます」「そうですか。1年生の時から比べると大分落ち着いてきている気がしますね。このまま見守って行きましょう」「ありがとうございます。よろしくお願いします」
小学校3年生の時に妹のジュンも僕と同じ小学校に入学した。毎朝一緒に通学した。この頃はジュンも本当に可愛かった。ジュンは僕と違い活発な子で友達もたくさんいて皆んなの先頭に立って遊ぶタイプだった。同じ兄弟でも全然違う。不思議なもんだ。父さんと母さんは僕がちょっと特殊だったので私立に入れたけどジュンは公立に入れようかどうか迷ったみたいだ。結局別々の小学校と言う訳にもいかず僕と同じ小学校に入学させた。僕を私立に入れて周りからさんざん言われたけど今更何言われてもどうって事ないやとも思ったようだ。
3年生になっても学校生活に変化はなかった。唯、一度こんな事があった。遠足でディズニーランドに行く事になり現地集合で3人1グループになって向かうことになった。行きは先生が決めたグループだから良かったんだけど帰りはなぜか僕は一人になってしまった。大丈夫だろうと一人で電車に乗って帰ったんだけどいつになっても目的の場所に着かない。全然違う電車に乗ってしまった。駅員さんに助けて貰いうちに電話して母さんが駅員さんと話をして何とか家の駅に着いたけどもうお金もないので駅まで母さんに迎えにきてもらった。うちに着いたのは夜の10時頃だったかな。流石にこの時は参った。そんな仲間はずれのいじめにもあった。でも僕はなんだろう無頓着なのかこういったのがいじめって言うんだって言うのが後から分かった。僕に取っては一人の方が楽しかったからあんまり苦にならなかった訳だ。いつだったか父さんとお風呂に入っている時「おまえ。いじめとかに会ってないか」「あってないよ」さっきの話をしたら。「おまえ。それがいじめだろう」「えっそうなの」こんな感じ。
でも一度父さんに「あのさー。なんだかみんなぼくのいうことがわからないみたいなんだ」「そうか。なーリョウ。おまえはしゃべるのが苦手で自分の言いたいことを相手に伝えるのが苦手だろう。これはしょうがないんだ。だからゆっくりとじっくり相手に話す様にしないとな。でも相手も子どもだからそんな根気はないか。人より遅いけど段々と話も伝わる様になるよ。今年より来年。来年より再来年だ。病気と違って治せるもんじゃないからな。とにかくマイペースで行けよ」「うん。わかった。でもやっぱりくやしいときはあるよ」「そりゃそうだ。マイペースよりもマイウェイだな。俺が付いてるから頑張れ」
まーそんな感じでクラスにはあまり馴染めなかったけど自分なりに楽しんでいたから学校に行きたくないと思った事は一度もないし結構学校は好きだった。毎日電車にも乗れたし色んな体験も出来て楽しかった。でも流石に親は心配していた。
ただ公立に行ってたらもっと全然いじめられてたと思う。なぜわかるかって。実は父さんが子どもの頃からサッカーをやっていたので僕にも「サッカーやるか」と言うので思わず「うん。やる」と答えた。それで地元のサッカーチームに入った訳だけどここではいじめられまくった。まー地元の小学校じゃない事もあったのかもしれないけど6年間だ。1年生から6年生までだ。さすがに嫌んなった。特に「まこと」と言う奴には参った。これがやっぱり体がでかい。何ででかい奴はいじめっ子が多いのか。会うたんびにちょっかい出してくる。一度散々殴られて頭に来たから近くにあった手ハンマーで殴ってやろうかと思って手に持ったら父さんに「おまえ。ダメだ。やるんなら素手でやれっ」って言われて止められたけど本当むかつく。見兼ねた父さんに一度「リョウ。サッカー嫌だったらやめてもいいぞ」って言われた事があるんだけど僕は「あいつらがいるかぎりぜったいにやめない」って言ってやった。あいつらって言うのは僕をいじめてた奴らだ。これ言った時はなんか父さんはやたらと感動してた。「おまえ。いい根性してんなぁ」って言われたけど正直当時はあんまり意味がわからなかった。
どうやら父さんは練習を見に来るたびに僕がいじめられてるのを見てあんな事を言ったらしい。それとはっきり言ってサッカーは全然ダメだった。父さんは中学生の時県の代表選手でそこそこうまかったみたいだからきっと僕も行けるだろうと思ってた見たいだ。でもからっきしダメ。どうやら団体競技はコミュニケーションが取れないから向いてない見たいだ。それもあって言ったのかもしれない。
そうそう僕をいじめてた筆頭の「まこと」が突然いじめられっ子になったんだ。ある日もっとでかい「タッちゃん」って子が入って来て「まこと」がやられた。ざまーみろだ。それから「まこと」はおとなしくなった。おかげであんまりいじめられなくなった。あれは助かった。
正直サッカーはあんまり楽しくなかった。でも一度だけ嬉しかった事がある。珍しく試合に出して貰ったんだけど相手ゴール前にいたら僕の目の前にボールが転がって来た。思わず蹴ったら何とゴールに入った。人生初ゴールだ。この時は普段僕をいじめてた奴らも「リョウ。やったーって」皆んな大喜びしてくれた。これが6年間サッカーをやっていて唯一の楽しかった思い出だ。まっ一つでもあるから良しとしよう。
もう一つの思い出はある日「れんしゅうにいってきます」って言って駅で着替えて電車に乗って遊びに行った事がある。何たって電車通学だからお金は無くても定期がある。でもこういう事はやっぱりばれる。たまたま父さんが練習を見に行ったら僕がいない。結構大騒ぎになっちゃった見たいだ。何食わぬ顔で帰ったら散々怒られた。「嘘は絶対につくな」流石に反省した。でも今思うと小学生のガキが駅で着替えて遊びに行くなんて結構やるよね。その時は何にも考えてなかったけどいつも一人だから結構パッと行動できるんだ。
小学校の時はサッカーと空手を習っていた。空手はどっちかと言うと個人競技だからまだこっちの方が良かった。でも先生がめちゃくちゃ強い先生で参った。流石に行きたくないって思った時も何度かあったけどサッカーと空手は両方とも6年間続けた。
サッカーはからっきし。空手は型はまーまーだったけどやっぱり組手は全然ダメだった。子どもだから体重別じゃなくて学年別でやる。僕はちびで体重も6年生の時でさえ30kg位だったから相手にならなかった。小学生もやっぱり体重別でやって欲しいもんだ。全然体格が違うんだから勝てる訳がない。
小学校4年生になっても相変わらずだった。身長もまだクラスで一番小さい。
4年生の冬休みに初めて海外旅行に行った。場所はサイパン。やっぱり父さんは海が大好きだからサイパンでもダイビングをした。僕らはシュノーケリングだ。サイパンも綺麗だったけど僕はやっぱり沖縄の海が好きだ。赤ん坊の頃から行っていたので第2の故郷みたいに感じていた。
サイパンは外人さんが沢山いてやっぱり同じ南の島だけど沖縄とはちょっと違う。レストランに行っても外人さんだらけ注文も全て英語だ。父さんはメニューを見ながら「こいつとこいつとこいつ」通じた。流石父さん。
サイパンも沖縄と同じで戦争の爪痕が沢山残っていた。天気も良く最高の冬休みだった。
小学校5年生の時からだったと思う。父さんが僕の事を相談した大学の先生。持田先生の所に通うようになったのは。ここでは算数を教えて貰った。週1回通ったけどここが僕の性にあった。先生の教え方も上手で一人きりだから楽しかった。この持田先生は当時75歳の高齢だけど全くそうは見えない。やっぱり頭を使っている人は若く見える。唯、毛はない。ここも僕の大事な「居場所」になった。学校の「居場所」以外では初めての「居場所」だ。おかげで全体の成績は酷かったけど算数だけはまーまーになった。
父さんは運動が大好きでこの頃は毎日ジョギングをしていてフルマラソンも走ってた。
父さんが「リョウ。おまえも走るか」「うん。走る」それから毎朝僕も父さんと一緒にジョギングをする事になった。唯、たったの2㎞位だったから父さんは物足りなかったと思う。このジョギングは5年生から始めたんだけど段々体力がついてきたのが目に見えてわかるようになった。
この年の夏休みに家族全員で富士山に登った。誰が最初に言い始めたのか覚えてないが多分父さんだったと思う。はっきり言って悲惨だった。計画は5合目まで車で行き。そこからスタートし8合目の山小屋で仮眠してそこでご来光を見て頂上を目指す計画だ。8号目まで登る頃には少し頭が痛くなった。所謂高山病だ。富士山をなめちゃいけない。
山小屋で寝ていると父さんに起こされ「おい。日が昇るぞ」表に出てちょっと待っていると段々と明るくなってきた。すると太陽が下から上がってきた。太陽は上にあるものだと思っていたのでこれには驚いた。雲が下にある。まるで絨毯の様だ。歩けるんじゃないかと思うほどの雲の絨毯の中から顔を出したのだ。このスケールのでかさと美しさには感動した。来てよかった。暫くご来光を見ていると頂上に向かっていた人々が「ダメだ。ここから上は土砂降りの強風でどうしようもない。頂上まではとても行けない」口々に語っていた。父さんが「子供たちもいるんですけど無理ですかね」と尋ねた。「とても今日は無理だよ。子供が一緒じゃ尚更だよ」「仕方ない。もう一眠りして休んで下りよう」
朝8時頃目覚めて準備し外に出ると快晴だ。頂上も見える。「なんだ。天気良くなったな。せっかくここまで来たんだから頂上まで行こう」父さんが登り始めてみんなそれに続いた。30分位登ると雨が降ってきた。驚いた事に雨が下から吹き上げて来る。こんな事は初めての経験だ。段々と風も強くなってきた。見る見るうちにもの凄い風に変わりジュンは風が強すぎて全く進めない。帽子も飛ばされた。危険な状態だ。「ママ。ジュンとちょっとここで待っててくれ。先にリョウと頂上登っちゃうから」父さんと僕は先に頂上の山小屋に到着した。「リョウ。ちょっとここで待ってろ。ママ達迎えに行ってくる」「うん。わかった」父さんは途中まで下山しジュンを抱きかかえて登ってきた。さすが父さんだ。全員頂上の山小屋に到着したのはいいが山小屋の人から「早く下山しないと帰れなくなるぞ。ところでお嬢ちゃん幾つだい」「はっさい」ジュンが答えると「へーこの天候でよく登って来れたもんだ」驚いていた。富士山登山はお年寄りの方々も登っているのでなんとなく楽勝ムードがあるけどとんでもない話だ。だてに3,776mあるわけじゃない。高山病にもなるしなめてかかったら大変な事になる。山小屋の人に脅かされトイレを済ませてすぐに下山することになった。なんとトイレの使用料は500円だ。これには父さんも驚いていた。山小屋からトイレまで行くにもものすごい強風でなかなか進めない。せっかく頂上まで来たのに周りは何も見えない。風景は見えないが写真だけ撮りすぐに下山した。僕らは出かけるたびに家族写真を一杯撮った。
7合目まで下りると天気は快晴だ。頂上は猛烈な雨と強風。気温も低かったが7合目は夏の暑さだ。山の天気は本当に変わりやすい。ジュンも急に元気になり砂走りを僕と一緒にさっさと下りて行った。河口湖を下に見ながら最高の気分だ。登りは時間が掛かったが下りはあっという間だ。5合目まで下山し車で父さんの友達の旅館に向かっている途中で「いやー。それにしても凄い天気だったな。へとへとだよ。一回登ったからもういいな。富士山は1度も登らないばか。2度登るばか。って言うからな一度でたくさんだ」「もう僕は二度と登らない」「あたしも」「ところでパパ。一体誰が登ろうって言ったの」「んーそりゃリョウだろう」「僕じゃないよ」「パパだな」「絶対パパだよ」「そうだ。そうだ」「まーいーじゃねーか。とにかく我が家はこれで富士山には二度と登らないと言う事で決定だな」天気には酷い目にあったけどあのご来光のスケールのでかさを経験出来たのは良かった。まーこれもいい思い出だ。
宿に着くと早速風呂だ。もう汗だくのどろどろだ。疲れを癒すには風呂が一番だ。しかも温泉だ。父さんは本当に風呂が好きだ。うちにいても朝晩入る。温泉に行けば1泊二日で最低3回は入る。それにこの宿は父さんの友達が経営していて何回も来ているので勝手知った我が家の様で本当にリラックス出来る。料理も美味しい。
翌日目覚めると父さんが悲鳴を上げていた。「イテテっ。足と腰がぱんぱんだ。こりゃー下りが効いてるな。やっぱり登りより下りの方がこたえるな。あーやっぱり二度と登るのはやめよー。イテテっ。でもリョウは4月からのジョギングの成果が出たな。足腰が強くなったよ」「そうかな」「間違いない」
夏休みが終わり2学期が始まった。そしたら不思議な事に学校では段々いじめられなくなった。僕の変化に周りも何となく気づいて来たのかそれとも飽きたのかはわからないけど僕はきっと両方だろうと思う。でもサッカーでは相変わらずだった。「クソ。まこと今に覚えとけ」
僕が5年生の時。父さんの2回目の市会議員選挙があった。結果は見事当選。
今思えばこの5年生の時が僕の転機になった年の様な気がする。持田先生との出会い。父さんとのジョギング。富士登山。
6年生になると進路を決めなくちゃならない。僕の学園は大学まである。所謂エスカレーター式で上の学校に上がって行ける。唯、中学に進む時に3つの選択肢がある。一つは全く違う別の中学に進む。もう一つは系列校で学力レベルが高いA中学校を選択する。最後は学力レベルがさほど高くない系列校のB中学校に進む。僕は当然最後の選択肢だ。ところが何処の親でも出来ればレベルが高い所に入れたがる。うちも最初はそうだった。父さんが母さんに「とりあえずどっちも入れるならレベルの高い方がいいだろう」「でも入ったら苦労するよ。リョウがついていけると思う」「わからん」その後三者面談があり先生は「皆さん学力の高い学校と言うんですがはっきり申し上げて選別をせざる負えません。私はリョウ君はB中学が良いと思います。正直A中学は生徒の面倒見は良くありません。自分自身で何でもやっていかなければならない。6年間リョウ君を見てきて私はB中学の方が彼に合っていると思います」「そうですか。わかりました。帰って主人と相談します」
「今日面談行って来たんだけどやっぱりB中学を進められたわ。私もリョウにはそっちの方が合ってると思う」「そうか。じゃーそうしよう。ところでB中学にも選抜クラスってあるんだよな」「あるわよ」「じゃーそこにしよう」「あのねーそれも先生の推薦がいるの。成績いかんなの」親と言うのは子どもの実力を過信しがちだ。
次の三者面談で母さんは「先生。うちはB中学でお願いします」「良く決断してくれました。実は本当に皆さんA中学を希望するんですよ。リョウ君が初めてのB中学希望者です。うちの小学校もリョウ君達が1期生で初めての中学進学ですからどうなるか不安だったんです。そしたら案の定A中学志望者ばかりでこれではA中学の方が受け入れられないので試験をすると言って来てるんです。ご存知の通りA中学、その上のA高校は県内でもトップクラスの学力です。現在のうちの学校の子ども達のレベルでは試験に受かるのは少数になると思います。ですからこの時点でB中学を選んで頂ければ何の不安も無く残りの小学校生活も満喫出来るし中学に向けての準備もしっかりとできます。それにB中学は本当に良い学校ですから安心してください」「よろしくお願いします」「それとリョウ君は本当に成長しましたね。入学した頃は正直心配してました。でもこの子は自分の「居場所」を作れる子でした。こういう子は大丈夫だと思いましたし私も勉強になりました。おい。リョウ。中学行っても頑張れよ」「はい」
でも冷静に判断すれば僕の学力ではどう考えても当然B中学なんだけど。
夏休みも終わりいよいよ小学校生活最大のイベント修学旅行だ。行き先は何と沖縄。小さい頃から毎年の様に行っている所だ。でも家族と行くのとは違いやっぱりワクワクした。何度来ても沖縄は楽しい。それに勉強にもなる。僕は実は歴史が好きで戦中戦後の沖縄の歴史にも非常に興味があった。父さんにも「ひめゆりの塔」や「海軍壕跡」等によく連れて行ってもらい資料等を見る度に胸がジーンとなった。来る度に伝わるものが違う気がした。本当に勉強になる。
この時期まだ進路が決まっていない子もいたけど僕は中学進学の心配もなくなっていたので存分に楽しんだ。
多少はまだあったいじめも段々と減ってきた。多分6年間で皆んな「あいつは変な奴だ」と慣れっちゃったんだと思う。
なんだかんだ色々合ったけど無事に小学校を卒業した。勉強もスポーツもからっきしでいじめられもしたけど電車通学は楽しかったし給食も美味しかったし変な上級生はいないし学校も新しくてとっても綺麗だったし最後には友達もできた。6年間本当にお世話になりました。ありがとうございました。
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