僕は発達障害「親父と息子」

@0906

息子 幼少期

息子


  幼少期

 平成8年9月6日2828(ニヤニヤ)㎏で僕は生まれた。父の名は晋作。母の名は真里だ。両親は大学時代から付き合い卒業後3年で結婚した。父さん曰く「大恋愛だった」そうだ。なかなか子どもが出来ず7年目にして待望の子どもが出来た。それが僕、高杉リョウだ。見た目は五体満足な元気な子。僕には妹が一人いる。ジュン17歳高校2年生。そして僕は現在19歳大学1年生。青春真っ盛り。

 家業は建設会社を営んでいた。正直何不自由無く暮らしていた。毎年ゴールデンウィークは一泊二日で舞浜のシェラトンホテルに泊まりディズニーランド、ディズニーシーで遊ぶ。しかも部屋はスウィートルームだ。夕飯は鉄板焼き。ステーキだ。これがまた美味い。後から聞いた話だけどシェラトンホテルには当時父さんの友達が居てスウィートルームも通常のツイン料金で泊まれた見たいだ。持つべきものは友だ。夏休みは両親がダイビングをするので沖縄か離島に行く。そこでボートで沖に出て父さんが潜っている間、母さんとジュンと僕はシュノーケリングで遊ぶ。母さんもダイビングのライセンスを持っているけど僕らが小さい頃は潜らずに僕らの付き添いだ。冬休みは祖父母が暮らす宮城県に行きうちから見える裏山で毎日スキー三昧。スキー場は見えるけど車で行くとぐるっと廻るので45分位掛かった。春休みは父さんの友人の温泉旅館に泊まりに行くのが一年間のパターンだ。僕が初めて飛行機に乗り沖縄に行ったのは写真を見ると生まれて8ヶ月の頃だ。今思えば贅沢な話だ。

 僕が2歳の時妹のジュンが生まれた。僕は生まれて8ヶ月で飛行機に乗ったけどジュンは10月生まれで何と年が明けた1月に飛行機に乗って沖縄に行った。僅か3ヶ月だ。驚く。

 母さんは父さんに言ってたそうだ。「私はきっと男の子一人に女の子一人産む。でもそれで打ち止め」父さんはもっと欲しかったみたいだけど結果は母さんの言う通りになった。でもとりあえず男の子と女の子一人づつ生まれたのだから父さんも満足しているようだ。そして僕と妹の二人はお陰様でとっても丈夫に育った。病気という病気は二人ともしたことがない。父さんは良く「やっぱり母乳が良かったんだな。でもおまえらのせいで母さんのおっぱいは全部おまえらに吸い取られてしまった」となんだかよくわからない事を言っていた。父さんはお酒が大好きで毎晩酔っ払ってたけど兎に角明るいので僕のうちは家族4人とっても仲が良く本当に楽しかった。

 3歳になり地元の幼稚園に通い始めた。この幼稚園はプールもあり地元では人気の幼稚園で入園する為に徹夜で並ぶ人もいるほどだ。唯、身内に卒園児がいると優先的に入れる。運良く僕のおじさん(父さんの弟)がここの卒園児だったのですんなり入る事ができた。こうして僕の幼稚園生活がスタートした。

 父さんは身長180㎝位あって背が高い。だけど僕はこの頃は幼稚園で一番小さかった。順番はいつも一番前だ。又、正直言って僕は落ち着きがなかった。時々自分でもわからないけど大声を出してしまう。いわゆる切れるってやつだ。それとざわついた場所が苦手だった。大きな音がする所とか会話が激しい場所に行くと頭が変になりそうになった。「おばけのこえ」が聞こえる。あっちこっちから色んな変な声、音が反響して「おばけのこえ」になる。だからそういう場所では必ず耳を塞ぐ。最悪の時は耳を塞ぎながら逃げ出す。そんな状態だったけど何とか年少、年中と問題なく幼稚園生活を過ごしていた。でも何か違和感を感じていた。友達とうまく会話が出来ない。僕の言っている事が友達に通じない。「りょうくん。なにいってるかわかんない」こんな事を良く言われるようになった。両親も最初の頃は男の子は言葉が遅いと言うからあまり気にしてなかったようだけど流石に年長。6歳になる時期になっても上手くしゃべれないのはちょっとおかしいのではないかと思い始めた様だ。僕も意思が伝わらないので段々しゃべるのが面倒臭くなってきていた。そうなると周りからも自ずと離れる様になる。

 この頃母さんは自閉症の本なんかをよく買ってきて読んでいた。「ねーちょっとこの本読んでみてよ。ここに出てくる子。リョウと行動がそっくりなんだけど。うろうろしたりぴょんぴょん跳ねたりぶつぶつ独り言言ったりするのなんてそっくり。やっぱりあの子自閉症の気があるんじゃないかしら」「んー流石にちょっと変だよな。一度カウンセリングみたいなの受けてみたら」父さんと母さんは話していた。ある日病院の様な何だかよくわからない施設に連れて行かれて色んなテストの様な検査をさせられた。3箇所位でそんなテストを受けた。結果は当時は当然小さかったから聞かされなかったけど言語の発達障害だった。両親は相当ショックだった様だ。

 父さんは僕の様な発達障害の子を持つ親の集まりに一度参加したけど何か違和感を感じた様だ。「ママ。参加してきたけど何かちょっと違和感を感じるんだよな。子どもの行動なんかはリョウに当てはまる点も沢山あるんだけど、落ち着かせる為に薬飲ませたりするらしいんだ。何々って薬は効果があったとか副作用はどうだとかそんな会話なんだよな。リョウに薬を飲ませるとか冗談じゃないよ。何かあのグループとは合わない。もう参加はしない。リョウはそこまで酷いとは思えない」

 そこで父さんは知り合いの大学の先生持田先生に僕の事を相談した。持田先生は「兎に角お父さんと一緒にいる時間を増やしなさい」男の子はやっぱり父親と過ごす事が特に僕の様な子には大切だって言われた様だ。それからは出かける時はいつも父さんと一緒だ。父さんはスポーツが好きなのでサッカーを見に行ったり色んな所に一緒に行った。特に父さんは若い頃サッカーをやっていたのでよく見に行った。うちでも日本代表の試合はテレビで欠かさず見ていた。代表戦のテレビ観戦はまず代表のユニホームに父さん、ジュン、そして僕の3人は着替える。そして国歌斉唱の時には「全員起立」君が代を歌う。これが我が家の代表戦の観戦スタイルだ。流石に母さんは着替えてなかったけど君が代は歌っていた。実は意外にのりのいい所もあるけどほとんど父さんに無理やりやらされていたんだと思う。父さんとはお風呂も寝床も一緒だ。時には母さんとジュンを置いて二人だけで出かける時もあった。父さんが言う事は何でも聞いた。

 僕は体も小さく幼稚園では一番身長も低かったし自分の意思も上手く伝えられず会話も満足に出来ない。何か話そうとしても何て説明したらいいのか言葉が出てこない。終いには「あーもういいや」と投げ出してしまう。自分から友達を避ける。作らない様になっていた。

 自分の意思も伝えられず会話も満足にできない。ましてや体も小さいと言う事でいじめを危惧した両親は僕を公立では無く私立の小学校に入れる事を考え始めた。公立より私立の方が多少はそういったいじめも少ないのではないかと思った訳だ。当然受験準備何か全くしてなかった。ダメ元で3校受けて見た。結果は何と2校合格。当然面接もあったけど小学校受験の面接は「好きな食べ物はなんですか」「ラーメン」こんな調子だ。とても会話とは言えない。正直助かった。合格した2校は1校が歴史と伝統がある学校。もう1校は新設校で僕の代が1期生。両親は新設校を選んだ。理由は「新設校なんてなんだかリョウの為に新しく作った学校って気がするじゃん」って父さんが言っていた。まー他にもちゃんと選んだ理由はあると思うけど。結果的にこれは大正解だった。少人数制で1クラス20人。学校には水族館やプラネタリウムもあり僕は大変気に入った。特に何が良かったって本当に面倒見のいい学校だった。ここの学園グループは中学校から大学まであったが小学校がなかった。学園長は小学校を創る事が夢であった様でようやっと悲願の小学校を設立する事ができた訳だ。だからかも知れないけど大変な力の入れ様だった。一人一人に本当に目を配ってくれた。ここに入れてくれた両親には本当に感謝している。「ありがとう」

  

  

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