第2話

数年前まで会社勤めをしていた。その会社には俗物しかいなかった。最近は俗物と言っても通じないことが多い。俗物とは、知的レベルの低いくだらない娯楽で毎日大喜びしている一般庶民のことだ。そして会社員、サラリーマンとは世間における俗物の代表である。通勤時間には雑誌や新聞を読み、仕事は他人の顔色をうかがうこと、電話で喋ること、一日中無駄な時間を過ごし、残業までする。自宅に帰ると酒を飲みながらテレビばかり見て、パソコンは仕事で使うだけ、もしくはヤフーニュース。スマートフォンはLINE、Instagram、頭が悪い人用に作られたソーシャルゲーム。休日には買い物をするかスポーツをするか食事に出るか、連休があれば温泉に行ったり近場の海外に行ったり、みんなそろいもそろって同じような写真を撮りSNSに上げるだけ。会社員とはそういう絵に描いたような世間一般の価値観に毒されている機械のような人間のことだ。一般企業にはそういうやつらが集められている。やつらは"社会人の常識"というルールに則って働くだけの産業ロボットで、その枠におさまるように、はみ出さないように生きる。仕事もプライベートも横にならえで、良い悪いの基準が社会人という枠組みの中だけで固まっている。花形があり、窓際があり、階級があり、表彰があり、軍隊のような空間だった。


そこで僕は浮いていた。考え方も浮いていたし、人間関係でも浮いていた。おまけに業績も上がらず孤立していた。いてもいなくてもいい存在だった。僕はその場に居続けることができなくなり、3年で退職した。多少なりとも仕事ができていれば残れたかもしれないが、仕事はできない、環境に馴染めない状態で開き直ってその場に居座るほど無神経ではいられなかった。仕事ができない無能なバカでありながら、俗物のバカと歩調を合わせられない二重の苦痛のおかげでいてもたってもいられなくなった。今考えればよく3年も持ったほうだ。あいつらの頭の中にあったのは金、性欲、食欲、結婚、子供といった動物的な欲求にまつわるものばかりだった。そういうものにしか興味を示さないから本当につまらない。だから俗物だというのだ。facebookには続々と子供の写真が載せられる。子供が嫌いというわけではないが、他人の子供がどうなろうと興味がない。あまりにどうでもよすぎる。何も有益な情報をシェアしろとは言わない。だがせめておもしろく感じる可能性の欠片ぐらい残してほしい。毎回毎回同じ子供の同じような表情で同じようなことを繰り返しているだけの写真を見せられたところで、こちらはどんな感想を抱けばいいんだ。自己満足なのはわかる。好きにすればいい。しかし、現実はそれに同調するやからが多い。そういう写真に限ってかわいいだのなんだのコメントをつけたりいいね!を押したりするやつらが多い。僕がネットで拾ったおもしろ画像を紹介してやっても総スルーのくせに、そんなわけのわからないどうでもいい子供の写真にばかり俗物がむらがる。それはやつらが同じ俗物同士で歩調を合わせているからだ。やってられない。こいつらとは合わない。価値観が合わない。感性が違いすぎる。レベルが低い。センスが悪い。ユーモアが理解できない。


僕からそう見えるだけで、向こうはきっと同じことを感じていただろう。アイツ一人おかしいとか、空気が読めないとか。やつらのことを"悪い"とか"低い"と言うが、本当は悪いわけではない。やつら大衆には大衆なりの価値観があり、その基準で言えばやつらが評価するものは良くて、僕が評価するものは価値がないのだろう。しかしこのように、なんでもかんでも"価値観の違い"なんていう言葉で片付けてしまうのは愚か者がやることだ。ものの価値にはれっきとした優劣が存在する。上か下かだ。上が嗜むカルチャーは、下の者には難しくて理解できない。逆に下が嗜むカルチャーは、上の者にとって幼稚過ぎる。このまぎれもない上下関係が価値観の優劣である。例えばラノベ読みが文学作品を読んでも難しくて理解できないか、読めないか、おもしろさがわからずラノベのほうが良いという評価になってしまう。逆に文学を日常的に嗜む人間がラノベを読んでも中身スカスカの薄っぺらい本と感じる。同じ娯楽としてもそこに価値を見いだせない。ラノベ書きの中には、文学に通じている者も多い。彼らは対象のレベルに合わせて作品のレベルを下げている、もしくは読み手としては文学愛好者であっても作家としてはラノベしか書けない、あるいはラノベの書き手として文学に追いつこうと底上げを図っている、ここらあたりのいずれかに当てはまる。まあ一般人はラノベ読んだりしないから、大衆文学あたりを引き合いに出したほうが適切かもしれない。文学作品はハイカルチャーで、大衆文学がメインカルチャーだとしたら、ラノベはサブカルチャーに位置する。サブカルチャーの位置づけではまた話が変わってくる。要するに、価値観には優劣がある。頭の悪い大衆に親しまれるものは、その分だけ意図的にレベルが下げてある。レベルが低いものを頭の悪い者同士で褒めあって盛りあがって喜んでいる場にいても、僕は浮いてしまう。本質的に合わない。そしてそんな合わない連中と一緒の時間を過ごすのは、退屈なだけでなく苦痛なのだ。僕が「そんなレベルの低い物より、文化的価値の高い物を」なんて勧めたところで、ただ気持ち悪がられる。中には善良な者もいて、彼らは受け取って試してみるが、やはり頭がついていかなくてわからない。「僕にはよくわかりませんでした」と言うだけ謙虚な方だ。それでも僕と彼との間に一定の価値観が共有できないという点については同じことで、結局彼も頭の悪いコンテンツを楽しむことしかできない、あちら側の人間であることには変わりない。


ここでさらに事態を複雑にしているのは、必ずしも頭の悪いコンテンツを消費するのが頭の悪い人間に限らないという点だ。俗物は頭の良い人間にも数多く存在する。優れた知性を持ちながらも俗物的な価値観にとらわれ、俗物と同じようにレベルの低いコンテンツを消費して楽しんでいるやから。彼らは決して世渡りのため意図的にくだらないものを消費しているわけではない。知性を持っていても、感覚が大衆でしかないのだ。大衆の価値観でしか物事を判断できない。こういうやからは大衆受けする新しい物を生み出しやすく、金儲けも上手い。大衆のことを感覚的に理解しているから、彼らの心も掴みやすい。非常に恵まれたうらやましい存在だ。僕とは全く相容れない。彼らは僕より優れた頭脳を持ちながら、大衆の価値観でもって僕に向かって言う。「そんなのつまらないでしょ」僕からすれば知性のかけらも感じられない頭が悪い人に向けたエンタメ商品で喜んでいるほうが理解できないが、彼らは大衆の味方であり、大衆もまた彼の味方である。僕ひとりがわけのわからないことを抜かしているつまらない人間ということになってしまうわけだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る