行平の章
行平1
あたたかな感触が、まだ僕を覆っている。
また海の夢を見ていた。でも今朝も内容は覚えていない。みるみるうちに霞がかって、僕の腕からすり抜けていってしまう。
ただ幸せな夢だっという記憶。その心地よさだけが、上澄みのように僕の中に漂っていた。
*
初めてあの人を誘った。
彼女は僕より三つ年上で、隣のセクションに所属している。会社の大きな行事や合同の歓送迎会で、何度か言葉を交わしたことがあった。
僕の席から振り返れば、パソコンの画面の前でキーボードを叩いている姿が見える。落ち着いた低めの声のトーンと、憂いを帯びた瞳を持つ人。
残業の帰り際に、エレベーターで偶然二人きりになった。
甘く華やかな香りが小さな箱に閉じ込められて、無機質なエレベーターを彩る。先にあなたを降ろす。後から続く僕の胸に絡みつくように伸びる残り香が、今だとささやきかける。
「お腹空きませんか」と訊ね、彼女が「そうね」と軽く首を傾げて微笑む。会社の近くの店に二人で入った。長い長い木のカウンターが特徴的な店だ。
その夜は、ただ一緒にいることに夢中で、何を話したのかよく覚えていない。家に帰ってから考えてみると、ずっと僕だけが喋りかけていたような気がして、急に恥ずかしくなった。
二度目に誘った時は、他の店を提案した。同じ会社の者同士が会社の側の店なんて、気が利かなかったかと思ったからだ。だが、彼女は一向に気にする様子もなく「私はあの店が好きよ」と言った。
彼女は必ずワインを頼む。色はその日の気分によって選んでいるようだったが、ルビーのように透き通る明るい朱が多かった。
彼女にはワインが似合う。マニキュアをした白く長い指がグラスを揺らして、視線を愛おしそうに水面に落とす。その後、僕に視線を移して大きく瞬きをする。
僕はその姿に見とれてしまって、そこから思考が止まってしまう。
*
あの人に、好きになった理由を伝えたくなった。
「あなたの夢を見たからです」と。
「僕はあなたと並んで夜道を歩いている。寒いからあなたにコートを掛ける。ただそれだけなんだけれど、その日一日中、あなたのことが気になって仕方がなかったんです」
彼女は頬杖をつきながら、僕の話に耳を傾けた。
「好きになった。だからあんな夢を見たんだ。そう思って嬉しかったんです。その夜、偶然あなたを誘う機会が訪れた。僕は年下だけど……」
「待って」
そう言って僕の言葉を制した彼女は、そこで初めて会社の先輩ではなく、恋人みたいな顔をした。
「私、誰かの夢を見るたびに考えてたの。これは自分が相手を好きだからなのか、それともその人が私を想ってくれているからなのか。どっちだと思う?」
遠かったあの人が、今は僕の目の前にいる。そして、僕に語りかけている。
「『万葉集』には、たくさんの男と女の恋の歌があるの。その中にね、恋するあまり夜と昼の区別などなくなり、恋焦がれている相手の夢にさえ現れてしまう、という歌があるの」
「僕の夢に出てくれたのは、僕を想ってくれたから。そう思っていいですか」
「私の方が先に想いを伝えてしまったのね。いつ気づいてくれるかしらって思っていたわ」
「僕はまだ、あなたの夢に出てきませんか」
そう僕が問うと、彼女はやさしく首を横に振った。
「きっと今夜、叶う気がするわ」
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