行平2
また海の夢だ。灰色の砂浜が続く、荒れ果てた冬の海だ。
朽ち果てた枯れ木が何本か落ちていて、僕はそれを掴んで、折ったり、引きずったり、線を描いたり、集めたりする。一人遊び。
一度空を仰ぐと顎は上を向いたまま、周りの空気が僕の肩から頭にかけて石膏のように固めようとするから、あわてて波打ち際にしゃがみ込む。
海はやはり碧い。波が届くと白い泡が現れて、僕に何か語りかけてくる。
沖の方で誰かが僕を呼んでいた。何度も呼んでいた。知っている声のような気がする。淋しい音色のような声が、その日の僕を不安にし続けた。
*
今夜の彼女は、白ワインを飲んでいた。
ワインは信号だ。白の日は少し元気がないから、僕はまた意味もなく隙間を埋めるような話ばかりしてしまう。彼女は人生に色々抱えているように見えたから、まだ底の浅い僕は、少しでも追いつきたくて無邪気を捨て、落ち着きを装おうとする。
彼女が目を輝かせるような話を未だに僕はできないでいる。気持ちを告白して以来、何度か夢についての話を持ち込もうとするけれど、いつもはぐらかされる。彼女の瞳を覗いても僕たちの視線が合わさってないことに気付かされ、気持ちが沈んでいく。
ふと、あの子ならこんな時、にっこり笑って僕の目を見てくれるだろうと唐突に思った。喫茶店のあの窓際の席で。僕の真向かいで。
*
ただただ噛み合わない月日が過ぎていった。やがて彼女は、大切なことが揃わないままに僕の部屋にやって来るようになった。
「また夢の話なの?」
めずらしくビールを飲む彼女は、その晩少し荒れていた。僕はその強い言い方にたじろいでしまって、言葉を足すことができなかった。
「ごめんなさい。でも、どうして、そんなに、あなたは、夢に、こだわるのかしら」
一語一語強調するように切る、冷たい言葉。彼女の指からは白い煙がイライラと立ち昇っていった。
「僕は昔から、夢に見た人を好きになるんです。それまで何とも思ってなかった人を急にその日から意識してしまって、のめり込んでしまう。はじまりはいつも夢からなんです」
「待って。そういうことなの? もし夢を見なかったら、私の存在に気付かなかったってこと?」
「でも、僕はあなたの夢を見ました。それに、もう好きになったのは事実です」
「そんな……。夢なんて偶然の産物よ。私は現実で好きでも嫌いでもない人だって、夢にたくさん出てくるわ」
「僕は無意識のうちにその人を想う心が積もってきて、夢がそれを教えてくれるんだと思っています」
呆れたように、テーブルをトントンとあなたの指先が叩く。
「ね、夢に見るほど好きと、夢に見たから好きとは違うのよ」
「あの『万葉集』の話は嘘ですか」
「そうじゃないけど、あれは、ほんのきっかけよ。全てではないわ」
「僕の気持ちを信じられませんか」
「この先あなたがもし他の女の夢を見たらそれで終わりだなんて、耐えられないわ。そんなのに怯えながら一緒にいるなんて。あなたが言っているのはそういうことよ! そんな罠が待ってる相手だなんて」
彼女はそれから、僕を避けるようになった。
今まで夢で始まった恋の結末は、破滅だっただろうか。好きになったきっかけは思い出せるのに、何故終わりが来たのか、記憶が曖昧だ。僕は今までも簡単に好きな人を手放して来たのだろうか。
*
ふと見かけた硝子越しの花束の包み紙に見覚えがあった。もしかしたら雪ちゃんが働いているのは、この花屋ではないだろうか。
あの子にしばらく会えてない。電車で一緒になると珈琲に誘うようになっていたけど、あの時以来ずっと見かけてなかった。突然の告白に何も応えられなかったあの夜。
雪ちゃんは、大学の頃からおとなしい女の子だったな。ほっとくと一人でぽつんと部屋の片隅でこっちを見ている。でも、さみしそうでもなくて、不思議な温かさを持っていた。きっと集団の会話が苦手なだけなんだよね。話しかけるときちんと会話できるし、可憐に笑っていて、小さなさりげない花のようだった。
花屋に足を踏み入れるは初めてだ。昔、母の日に店先の赤いカーネーションを買ったのは別として、女性に花を贈ったことがなかった。あの子がふっと働いているような気がしたが、店の奥から出てきた人は別の人だった。
彼女の誕生日でもない。特にイベントもない日だ。
「理由もなく花を贈ってもいいものでしょうか」と尋ねると
「女の人が花を贈られて嫌だって聞いたことはないですよ。記念日じゃなくても、きっといつでも」
と、笑いながら答えてくれたので、僕は赤ワインに似合う小さな花束をお任せでお願いした。
彼女を誘ってみよう。これを抱えてもう一度。赤いアネモネの花束をあの人に。あの子には似合わない、強い光の花。
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