雪6



 次の日、雪は駅のバス停で、夕方からずっと行平を待っていた。


 空は暗く重たげに曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。駅から出てきた誰もが一度空を仰いだ。自分の吐く白い息を見ているだけで、胸が痛みだしそうな夜。


「教えてほしいことがあります」

 私は喫茶店まで一言も話さずに、距離だけいつもより詰めて歩いた。

 窓際の席に座り、行平さんは心配そうに私を見つめた。

「どうしたの。思い詰めたような顔して」

「行平さん、今おつき合いしている方、いますか」

「いないけど……。どうして」

「じゃあ、すきな人は?」

「雪ちゃん?」

「お願い、行平さん。教えて下さい」

「好きになりかけている人はいる。でもまだ何も伝えてないよ」


 自分の声の音量がどのくらいなのかわからない。大きすぎるのか、小さすぎるのか。彼の声がどんどん低く小さくなって、目の前まで来ているのにここまで届かない。

 そうじゃない。本当は、声は、よく聞こえている。


「昨晩、一緒に歩いていた方ですか」

「大学の時の奴らと飲みに行ったけど、昨日は男ばかりだよ」

「行平さんがコートをかけてあげてた、綺麗な人」

「それ、僕の夢? どうして君が?」

「ゆ、め?」

 そこで、私は気づいてしまった。

 私が遊んでいた場所は、あれはみんな、誰かの夢の中だったんだ。



 お願いです。私に心がなくても構わないの。今夜抱いてもらえますか。

 もうこの先はいらないくらいに、あなただけをすきでいたいのです。

 

 全ての想いをこめて、たった一言告げる。

「私を抱いて下さい」

 男の人である行平さんは、ものすごく迷った顔で、すがりついた腕を外して、私から体を離した。

「雪ちゃん、だめだよ。自分を大切にしなくては」


 心は置いてきぼりだ。強く望んだ分だけ遠くなる。何かと引き換えになら、願いは叶うのかな。夢の中でなら、もっと先に辿り着けるのだろうか。



 冬の静まり返った道を無闇に歩き続け、急激な寒さを体の震えで感じていた。


 今までどんな人の夢の中に入り込んだのだろう。行平さん以外は、夢の中の人たちに見覚えはなかった。知らない人たちの夢。会った訳でも、すれ違ったとさえも言えない。

 私はいつもただの傍観者だった。誰とも言葉も交わさず、外側から透明人間のように忍び込んで見つめているだけ。行平さんも私に気付かなかった。



 部屋に戻り、雨が窓を伝っていくのを指で追いかけながら、私は寒くて仕方がなかった。最初は涙の粒ほどだった雨は、夜が更けるごとに強く強く窓を叩いた。


 部屋は今や箱だった。世界で一番冷たいガラスの箱。守られているのではなく、閉じ込められているだけの。微かな光を掬って一心に集め、反対側の壁に映し出し、浮かび上がる瞬間に揺れる、透明な箱。


 鏡は時に窓になる。そして窓は時に鏡になる。

 部屋にある映すものがみな、自分を向こう岸へと繋ぐ路になる。


 外は海の中のように波立って変化していき、雨たちは一瞬で消えてゆく泡のようだった。泡。人魚姫は想いが届かずに泡になったんだよね。私も気持ちを伝えた途端、行き場所を失った。もう消えてしまうのなら、それでもいいの。


 雪は窓を開けて、ちらちらと白いものが舞い散るベランダに出た。



 花束のリボンをぐるぐる巻きにされた私は、透明なベッドに横たわる。

 包まれたのは花であって、私自身。行平さんが抱え上げて、まるで一枚ずつ占うように、私の肌にまとった花びらを剥がしていく。見つめられて、私はあなたのものになる。

 あなたの目に映るのは、ただの花びら。でも、何処かで私だと気づいている。夢だからと安心して、あなたは蝶になって試そうとする。


 明け方、そんな白く霞んだ世界の夢を見た。まるで海の底みたい。もっと奥へと泳いでゆく。ねえ、ここはやっぱり綺麗な碧い色をしているよ。


 色は存在している。でも音がよく聴こえない。あの人がいる。こっちを見ていつものように笑ってる。お願いです。もう戻りたくない。このまま、ここに、ずっといさせて。



 雪が舞っている。


 雪が待っている。





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