雪2


 その夜、夢を見た。

 私は広くて冷たい床に一人座って、黙々と積み木を重ねてゆく。あ、きれいな形になってきた。そう思った途端、がらがら崩れていった。なのに夢の中の私は冷めた感情でそれを一瞥してから、またひとつひとつ積み始める。ただただ虚ろに積み上げ、また崩れ、また積み始める。気が遠くなる作業を何度も繰り返し、嫌な空気が身体中に纏わりついてくる。

 起きた時、空しさだけが残っていた。ばらばらの積み木が自分の無力さに思えた。すれちがい、ゆきちがい、追いつけず、残される。



 梅雨明けの夏の晩のこと。行平さんが「一杯つきあって」と言って、バス乗り場と反対方向へ歩き出した。

「私はお酒はあまり」と言うと、

「ああ、一杯って言っても珈琲だよ」

と、豆をひく真似をしてみせた。


 並木道をしばらく歩くとその喫茶店はあった。彼は重そうな木の扉を押し開けると、窓際の席に私を誘った。

 そこからはひっそりとした夜が見えた。一つだけ奇異に目立つビルが高くそびえ、外側にはらせん階段が、人の指を巻き付けたような形に廻っている。その巻貝ビルから重さは感じ取れず、すっと地面から引き抜かれて空に持っていかれそうな気がした。


 チェット・ベイカーの気怠く少し投げやりな歌が流れていて、その場に居合わせた人たちも、ああ今日も疲れたなと、一日の終わりを思い出すような表情をしていた。

「近くにこんなお店があるの知らなかった」

「僕も最近知ったんだ。夜更けまでやってる喫茶店って珍しいからね。カフェイン中毒には有難いよ」

「珈琲たくさんあるけど、どれがおいしいんですか」

「僕は断然モカなんだ。雪ちゃんは紅茶党だったね」

「私はこれにします。蜂蜜入りのロイヤルミルクティー」

 彼がこどもに対するような顔で笑ったので、私は少し自分の注文を後悔した。やっぱり珈琲にしてみたら良かったかな。


 大学時代はいつもジーンズばかりだったのに、たった三ヵ月で随分スーツが似合うようになったんですね。なんだか大人みたい。

 初めて会った時に、周りの人たちにからかわれたのを覚えていますか。

「雪って名前なんだ。じゃあ、こいつと結婚したら面白いね。行平雪。ゆきひらゆき。まるでフジコフジオみたいだな」


 二つのカップから離れた珈琲と紅茶の湯気は、空中で羨ましい程に溶け合って上昇していった。

「新人全体の研修がやっと終わってね、配属が決まったんだ」

「希望通りだったんですか」

「いや、それがね、顧客相談課。あまり人への対応は得意じゃないけど。まあ、今は全てが経験になると思うようにしてる」


 私は会社の人はちゃんと見ていると思う。人と話すのは苦手だと言うけれど、言葉を一つずつ誠実に折り畳むような話し方をする彼は、いつも周りから好感を持たれていた。女の子の機嫌を取ろうとしてわざとふざけた態度ばかりのサークルの男の人たちの中で、彼は信頼できる数少ない人の一人だった。


「昨晩、すごくいい夢を見たんだ」

そう言って少し目を細めて笑ってみせる。この笑顔を見る時、私は本当にこの人がすきだと思う。あまり長い時間、正面切って見つめられはしないけど、この瞬間をずっと大切に取っておきたい。忘れないように記憶の底に焼き付けたい。

「だけど、どんな夢かは秘密だよ。いい夢は人に話すと効力が無くなるんだって」


 今日はいつになく近くなれたような気がして、その店が特別な喫茶店になった。



 たとえて言うなら私はかすみ草だ。小さくて存在感がなくて、華やかなお花たちに添えてもらうことで、やっと外に連れ出してもらえる。

 大学のサークルでも、いつも隅っこで行平さんを見つめていた。そっと見つめていた。それだけで嬉しくて、そこにいられたの。

 行平さんはいつもふわっと笑っている、みんなの王子様。私には高嶺の花。


 でも、気づくと時々話しかけに来てくれる。ぽつんと座っている私の横にすっと自然に座って、今日は何か楽しいことがあった? なんて聞いてくれた。

 そのうちにまた女の子たちが迎えに来てしまうけど、困った時に助けてくれるヒーローみたいだったな。


 今夜の喫茶店のことを思い出す。静かな場所だから声を潜めて話した。だから自然に顔が近付いて、いつもより距離が縮まるから、どきっとしたの。折角だから、少しでも瞳の中を見られるようになりたいと願って勇気を出して顔を上げてみた。

 すきです。伝えられない言葉を目で送ってみても届かないことはわかっていて、それでも心の声を開放してみたくなる。


 一人暮らしの部屋に戻って、花を活ける。透明なガラスのシンプルな花瓶に、そっと水切りした花を一輪ずつ差し入れていく。お互いに会話するように、今夜のできごとを思い出しながら。





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