雪の章

雪1

 夜十時十分発。私のすきな人はその列車でよく見かける。降車駅からのバスの接続がいいからだ。私もアルバイトの日にはその列車に乗り合わせ、同じ駅で降りて、違う方向のバスに乗る。


 私は花屋で週二回働いている。

 何処かで働いてみたくてバイト先を探していたのは確かだけど、人との会話が得意ではない私は、あまり繁盛していない雑貨屋や文房具屋がいいなと漠然と考えていただけだった。その一軒の花屋の前を通りかかった時、自分に問いかけるようなノックの音が聴こえたんだ。


 それは閉店後の夜のことで、まだ中には人がいて片付けをしている時だった。

 店のスモークグレーの壁は光が必要以上に明るくなく、かえって一輪一輪が際立ってみえるようだった。ここなら私自身は影でいられるような気がした。

 選ばれている花は、紫、白、黄の花片が中心の落ち着いたトーン。くすんだサーモンピンクがぽっと目にとまる。間を繋ぐのは色褪せたグリーン。まだ花の名前も知らず、作りかけのキャンディみたいだなと思った。


 ガラス越しに中を見渡したら、無数の透明な立方体が浮かんで見える気がした。端から端へと手にとって、ここでひと時の時間を過ごしたいと、素直に思えた空間。

 実際に働きはじめたら、そんなぽけっとできる時間なんてなくて、思った以上に仕事は重労働だった。水は冷たいし、苦手な虫の出現には脅かされたし、手に切り傷をつけて髪を洗う時ひどく沁みた。


 でも、きもちが無性に華やいだ。視覚から入り、肌で触れ、匂いが宿り、水音に連れて行かれ、最後に唇で確かめるような思い。私にも五感があることを確認する。

 トルコ桔梗のような、頬ずりしたくなるやわらかい感触の可憐な花がすき。時折、少し開ききった花を、店の終わりに持たせてもらえる。くるっと若草色のペーパーや、破れた英字新聞でくるまれた、一日の終わりの小さな花束。

 殊にあの人に逢えた夜は、花を抱えている自分が少し特別に思えて、しあわせな気分になった。



 改札を抜けると、いつも胸がどきどきする。今夜はいるかな。それから。


 ホームにあの人の後姿を見つけた瞬間、並んでいる位置を確認する。前から三番目の列までに並んでいる時は、隣の車両に移動することに決めている。きっと仕事で疲れて眠って行きたいだろうから。


 後ろの方に並んでいる時は、立って帰るつもりなのだろう。私は「行平ゆきひらさん」と小さな声で名を呼ぶ。新品の革の書類鞄を持った彼は、やあ、とにっこり笑って、それからの三十分間、色んな話をしてくれる。

 やっと慣れてきた会社の話。地方に散ってしまった大学時代の友人のそれぞれの消息。夏に計画している旅の話。

 そして少し照れたように頬を撫でながら、「今日の花の名前は何ていうの」と訊ねてくれるから、いつもは長く感じる時間が一瞬に思えてしまう。



 改札の前で駅の時計を確認すると、九時二十八分だった。あの列車にはまだ早過ぎるけれど、待っていれば今夜は逢えそうな気がする。先に並んで、いつもとは逆に彼に見つけてもらおう。

 本を読んで少し時間を潰してから、急行列車のホームに入る。いつも彼が決まって並ぶ乗車位置の一番前に立って深呼吸した。見上げると高層ビルの航空灯が、私の心臓の音に呼応するようにチカチカ光っている。


 しばらくして隣に新聞を持ったサラリーマンが並んだ。コツコツというハイヒールの音が真後ろに立った。その横に軽いスニーカーの擦れる音。後ろをゆっくりよぎる重い足の運び。こうして聞いていると足音には特徴がある。そして一列置いて斜め後ろに、若々しい軽快な革靴の音がした。


 時刻掲示板を見る振りをして後ろを確かめると、やはりあの人だった。彼は真っ直ぐ前を見ていて、こちらに全く気付く様子がない。少しでいいから斜め前を見てくれないかな。

 そうするうちに列車がやってきて、私は流れに沿って入口に一番近い席に座った。彼は向かい側の端から三番目に腰掛ける。彼は私の方を見ない。私たちは目が合わないまま。今夜は目印の花を持っていないからですか。それとも気付かない振りですか。


 降りてすぐに声を掛けた。彼は「あれ、同じ車両だったんだね」と、いつもと同じ屈託のない笑顔で答えた。

 本当に気づかなかったんだな。こんなによく会うのに、この人は多分一度も私を探したことがないんだ。ただそれだけのことなんだよね。

 彼には何の罪もないのに、何の罪もないからこそ、少し恨めしい気持ちが湧いた。





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