雪3
雪がそれに気付いたのは、ある夏の夜の出来事からだった。
ベランダに出て長いことぼんやり夜空を見上げて、空っぽになろうとしていた。私は夜がだいすき。いつまでも続けばいいと本気で思う。しんとした夜の真ん中にいると、ここからならやり直しがきくような気がしてくるから。
その夜は、空が妙な明るさをもってざわめいていた。私の知らないうちに山の向こうに野球場が建設されて、ナイターの照明が空に届いているのかもしれない。そんな異様な光が空を照らしていて、落ち着かなかった。
どの夜も眠ってしまうのが惜しい。明日は朝一番の授業がある日だ。でも、私の睡眠時間は極端に少ない。この夜を本当に大切に思うのならば、心ごと捧げないと逃げられてしまう。自分の本気を示すなら、明日のことなど心に浮かばない程にすきでいたいよ。
ひとしきり夜への情熱を勝手に語りかけて私は目を閉じ、お祈りをするような気持ちで伸ばした両腕を少しずつ上げてみた。今なら飛べそうな気がする。空気が、風が、腕をやさしく支えてくれた。その時、目の裏にはっきりと映像が浮かんだのだ。さながら映画の予告編のように。
南の島の海かしら。強い光が反射する波の中で、人々が陽気に笑っている。音まで聞こえてきそうなはじける大きな波。目の前を美しく日焼けした二人の女の人が歩いていく。腕に抱えた果実は、毒を含んだような原色の鮮やかさ。肩にまとった大きな布の間色の涼しさと対照的だ。絵画の中の世界みたい。
突然睡魔に襲われ、私はその圧倒的な色の印象をそのまま壊さないようにベッドに持ち込んだ。すると、全く同じ風景の夢を見ることができた。
あまりに太陽がまぶしくて、目の奥にさらにもう一枚黒い幕が欲しいくらいだった。私はそこで、いつまでも無邪気に遊んでいた。
*
楽しい気分で目覚めて顔を洗った。いつもの朝より水がひんやりと心地よく感じる。掬うと吹き抜けるように吸い付き、しっとりと滴り落ちる。あれ、なんだかひりひりする。
タオルで拭いながら鏡を見た途端、心臓がドキンと音を立てた。日焼けしてる……。そんなことって。
その日は一日中、友だちにすれ違うたびに、「雪ったら、もう海に行って来たの?」と聞かれ、夏休みを待てない子供みたいに思われた。なんて返していいかわからず、私は曖昧な笑いを繰り返した。
確かにものすごくリアルな夢だった。手に取れる程に。一体どこからが夢なんだろう。もしかすると、今もまだ夢の途中だろうか。
私はあの目の奥の映像と夢の関係を考えていた。あれはまるで予告編。これからそこに旅立つために引かれたレールの上。
何日も消えない日焼けの痕を見つめているうちに、雪はもう一度同じことをしてみようと思い立った。
夜空の下で目を閉じて空を飛ぶ真似をする。手に入れた二回目の映像は、京都の景色だった。そして、夢の中でやはり同じ場所に私は居た。連れて帰ってきた夢の証拠は、体中を包んだ仄かなお香の匂い。
*
いつのまにか自分のものになった不思議な世界を、雪は『パラレルワールド』として大切にした。夢とはいえ、実体験を伴ったリアル。そして、現実より楽しいことばかりだったから。疲れが残るのが唯一の欠点なので、日を選んで何度か試してみた。
現実を軸に、平行にどこかに位置する世界。そこに身を置くと透明な球体に丸く包み込まれるように浮遊する。安堵しながら、そのままどこまでも流されていきたくなる。
同時に存在する二つの世界。心は率先して受け入れたが、脳はいつまでたっても混乱していた。ここにいる私と、あの世界の私。夢にいる時、ベッドで眠っているはずの私の体はどこにあるのだろう。世の中の当たり前だと信じていたこと全てが揺れているような気がした。
夢の中に現実の潜在意識が現れると、人は考える。本当は夢の中の自分の行動が、現実の自分に影響するとしたらどうだろう。
夢と現実の境目なんて案外あやふやなのかもしれない。きっかけさえ掴めれば、どちらにも存在できてしまうのだとしたら。私の居場所は何処なのだろう。
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