第68話 恋する迷宮
ぼんやりとしていたセシリーさんが包丁で指を切った。
サラダ用のカブがみるみる赤く染まっていく。
その様子を見てジェニーさんがため息をついた。
「セシリーがああなったらもう駄目ね。一刻も早く地上に連れ帰らないと命がいくつあっても危険だわ」
「もしかして一目惚れ? 早すぎません?」
俺の言葉にジェニーさんは頭を押さえながら首をふる。
「セシリーの惚れっぽさは異常よ。ただ今回は相手が悪すぎです。クロ君はセシリーの理想のタイプなのよ」
「なんとなくわかる気はする」
セシリーさんは切った指を口に加えながら、今もクロをチラチラ見ている。
俺の横にいたジャンがこぼした。
「あのおばちゃん、クロに惚れちゃったの? イテッ!」
俺はゲンコツでジャンを
「おばちゃんじゃなくてセシリーさんだ」
「わかったよ、いてーな。にしても、下手にクロに惚れたら火傷するぜ」
ジャンの口がニヤニヤしている。
「なぜですの?」
ジェニーさんが知る由もない。
「アイツの股間はオーガ級だ」
何故か胸をはるジャン。ジェニーさんがあんぐり口を開けて驚く。
「そ、その、それは……あんな可愛い顔してるのに?」
「あのオバ……セシリーさん、びっくりして腰抜かすぞ」
「案外ギャップ萌えかもしれんぞ」
俺の言葉をジェニーさんが真面目な顔で肯定する。
「その可能性は高いと思います。セシリーはいったん好きになると相手のことは何でも許せるタイプなので……」
それは「都合のいい女」まっしぐらな人ですよ。
クロが相手なら、いいように遊ばれて捨てられるなんてことはないと思うけど、
「クロ君は何歳ですか?」
「14歳です。来月で成人(15歳)です。セシリーさんは?」
「27歳です」
歳の差13歳か。
どうなるんだろ?
そんな風にのんびり見ていたのがいけなかったのかもしれない。
魚の内臓を川で洗い流して戻ってきたクロがセシリーさんの指の怪我に気が付いた。
優しいクロが怪我をしたご婦人を放っておくはずがないのだ。
心配そうにセシリーさんの怪我を気遣うクロ。
「まずい!」
ジェニーさんが小さく叫ぶ。
だが既に手遅れだ。
クロのハンカチに指を包まれ、手当てを受けるセシリーさんの顔が蕩けている。
うわ、セシリーさん涙ぐんでるよ。
「これは
ジェニーさんの目つきが鋭い。
「引き離しますか?」
「いえ、いま引き離すと発狂する恐れがあります」
そこまでかよ!
こうなっては成り行きに任せるしかないだろう。
俺たちはすべてを見なかったことにして粛々と食事の準備をすすめるのだった。
香草とパン粉を付けたネピア・マスのバターソテーは大変おいしかった。
パティーも大満足だ。
他に誰もいなかったらほっぺにチューくらいしてくれていただろう。
「イッペイのご飯食べるの、久しぶりだわ」
「本当は毎日作ってやりたいんだけどな」
「うん……」
パティーが少し寂しそうだ。だから俺は幸せな未来を提案してみる。
「こんな寒い日は、朝一緒にベッドの中でカフェオレとか飲みたいな」
「まあ、ベッドで飲み物なんて悪い子ね」
「お互いの体温で温め合いながら今日の予定を話し合うんだ。カフェオレを飲みながらね。ダメかな?」
「悪いこと大好きよ」
やっぱりパティーは笑顔が一番かわいい。
「お話し中失礼します!」
後ろから大声で話しかけられて心臓が飛び出そうになった。
今の会話聞かれてないよな。
みれば思いつめた様なセシリーさんが立っていた。
「どうしたのセシリー?」
パティーがポーカーフェイスを
「あ、はい。イッペイ殿にお聞きしたいことがありまして。その、少々お時間をいただけないでしょうか!?」
まさか、いきなりクロをくれとは言わないだろうな。
「なんでしょう?」
「その、あの……」
自分から話しかけてきて黙ってしまったぞ。
しょうがないな。
「先ほどは料理を手伝っていただいてありがとうございました」
「ととととんでもない。あれくらい……」
会話が続かないな。
苦笑するしかないぞ。
「いえいえ、なかなか見事な包丁さばきでしたよ。ウチの若いのにも見習わせたいくらいですよ。クロはともかくジャンは料理が下手で」
「クロ君……」
やっぱりクロという名前に反応したぞ。
「ええ。あの銀髪の犬人族の少年です」
「彼は……彼はいくつですか?」
「十四歳ですよ。来月十五歳になると聞いています。歳のわりになかなかしっかり者でしてね。私なぞもクロにはよく助けてもらっています」
「そうですか……来月誕生日……」
「ところでお聞きになりたいというのはどういったことですか?」
「はい? あっ! そ、それはもう伺いましたので大丈夫です!」
セシリーさんは逃げるように去って行った。もしかして聞きたかったのはクロの年齢か?
「パティー、あの人大丈夫か?」
「うーん、普段は優秀な魔法使いなんだけどね。ああなるとちょっと心配」
「ジェニーさんも言ってたけど、恋をすると迷宮でも上の空になるらしいな」
パティーが困ったように頷く。
「そうなのよ。以前にも何回かこういうことがあってね……。でもここまではひどくなかったわ。今回は特別かもしれない」
地上までの行程はまだ長い。
パティーは憂鬱そうに頭をふるのだった。
「イッペイ、いろいろありがとう。さあみんな、出発するわよ!」
パティーの言葉を皮切りに皆が笑顔で挨拶をかわす中、セシリーさんだけが地獄に落ちたような表情をしている。
クロと別れるのが辛いのだろう。
お、クロがセシリーさんに声をかけているぞ。
「お怪我は大丈夫ですか?」
「あ、クロ君! その、え、ええ! もうすっかり平気よ。貴方のハンカチに血を付けてしまったわ。ちゃんとしたのを買って返すわね」
「そんなの気にしないでください。お大事に」
クロの笑顔は誰だって癒されるよな。
ましてやセシリーさんには
クロはセシリーさんの気持にはこれっぽっちも気づいていなさそうだ。
まさか十三歳も年上から愛されるとは想像の
彼女の恋の行方がどこに行くかはわからないが、そっと見守ることにしよう。
そんなことを考えながら、俺も狩りの準備を始めた。
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