第八話 ムンザシ様

(一)


 冷え冷えとした闇の中で、おろくの意識は目覚めた。何も見えず、何も聞こえない。ただ酸えたような、湿った土の匂いが鼻についた。

 しかし……

(何か、いる……)

 おろくは神経を研ぎ澄ませて辺りの気配を探った。うねるような強い「気」を感じる。

 ここは一体どこなのか? 川辺で出会った三匹の化け物に襲われ、彼らの言う「ムンザシ様」という者の元に連れてこられたのか。

 化け物達は、おろくがムンザシ様を助けると言っていた。一体それはどういうことなのか?

「蛇神さま」「へびがみサマ」「ヘビガミさま……」

 おろくが考えを巡らせていると、件の化け物達が呼びかける声が聞こえた。

「目をお開けください、蛇神様」

 おろくを無理矢理連れてきたというのに、三匹は慇懃な態度を崩さない。

 おろくはぎゅっと目を瞑って開けなかった。化け物達の目的がおろくの右の赤い目であることは明白だったからだ。

――これは、底なし沼の蛇神の目玉だ……――

 幼い頃に三途の川のほとりで出会った目玉売りの男は確かにそう言った。右の目には、おそらく「蛇神」という得体の知れないモノが宿っている。

 不意におろくの顔に、生温かい獣の息のようなものが吐きかけられたような気がした。

「……目を開けよ。蛇神の力を宿せし娘よ……」

 地を這うような、重く、低い声。「ムンザシ様……!」と化け物の一匹が小さく声を上げた。

「……吾はムンザシノスクネノクロマロ……吾は千五百年以上に亘り、この地の下、闇の中に潜むモノ達を治めてきた……」

「ムンザシ様」が言葉を発する度に、おろくの意識は熱い息に包まれる。くらくらと目眩がした。

「……吾は蛇神の力を得て再び地上に甦る……この地にはヒトが増えすぎた。数千数万の汚れた思念が渦を巻いておる……吾が焼き尽くしてくれようぞ……」

 ムンザシ様のもやもやと熱い吐息は、おろくの顔に、目元に、じわりじわりと集まってくる。ムンザシ様の気がおろくの目をこじ開けようとしているのだと思った。

(だめ……目を開けては……きっと恐ろしいことが起きる……)

 おろくは力を振り絞り必死で目を閉じようとする。

 しかし、その努力も虚しく、朦朧とする意識の中、抗い難い強い力でおろくの瞼は徐々に押し上げられていく。

 ついに、おろくの目は開き切った。

 おろくの視界に映ったのは針金のような黒い毛に全身を覆われた巨大な土蜘蛛であった。

 土蜘蛛の黒真珠のような八つの目玉には、おろくの赤い瞳がはっきりと映され、火の玉のように浮かび上がっていた。

「あ……!」

 急におろくは右目に烈しい痛みを感じた。痛みはやがて燃えるような熱さに変わる。

「うう……!」

 おろくは呻いた。体はもう無いはずなのに、全身に引き裂かれるような衝撃が走る。

「おおおお……吾の体に……力が! 地の上に出られる……吾が……!」

 ムンザシ様が吼える。闇を揺るがし、突き崩すような地鳴りが大音響となって響いた。

 闇の世界に光が射し込む。

 すると、おろくの目からすぅっと嘘のように痛みが引いた。

 おろくは再び目を開ける。

 そこにあったのは見慣れた江戸の町並み……そして、往来の真ん中には天を突くほどに肥大化した巨大な「黒い影」が立っていた。

 闇を寄せ集めて出来たような、ゆらゆらと不気味に波打つ巨体には、八つの目玉が埋め込まれている。目玉は血のように赤い。

「ムンザシ様が……!」「起きあがられた……!」「ムンザシ様の世直しじゃ……!」

 三匹の化け物が甲高く叫ぶ声が聞こえた。

 グオオオオ! と、巨大化したムンザシ様は空に向かって吼えた。大地が、空気が、震える。

 しかし、往来を歩く人々には、悪意に溢れたこの大きな影の存在は分からないらしく、誰もが平然とした様子でいる。

「逃げて……!」

 おろくは叫ぶが、当然の事ながら誰の耳にも届かない。

 やがて、ムンザシ様の目からは血のような大粒の涙が珠になって次々に流れ出た。涙はぼとりぼとりとムンザシ様の足元に落ち……涙の落ちた場所からはボォっと火の手が上がった。

 突然の出火に、流石に人々は驚き、慌て、浮き足立つ。

 少し遅れて、半鐘の音。悲鳴。

 おろくの脳裏に十二年前の火事の光景が甦る。兄の命を奪い去ったあの……。

 ムンザシ様はもぞもぞと黒い毛で覆われた八本の足を蠢かしながら歩き出す。ムンザシ様の目からは涙が止まることなく流れ続け、涙が建物の上に落ちる度に炎は烈しく燃え上がり火柱を立てる。

 火の手はまたたく間に江戸の町に広がっていった。


(二)


「英太郎さぁん?」

 暖簾をかき分けて、お辰が店の中をひょいっと覗き込んだ。 

「……何?」

 英太郎はニコリともせずに仏頂面で返事をした。不機嫌はすぐに顔に出る。

「左之吉のやつ、いるぅ?」

 英太郎の不機嫌に気がついているのかいないのか、お辰は首を傾げて訊ねてきた。

 お辰の言葉を聞いて英太郎は、おや、と思った。店を訪れる早々、お辰が左之吉の事を聞いてくるのは珍しい。本心はどうであれ、お辰は左之吉に対して一貫して冷たい態度を装っている。そういえば、今日はいつものように牛頭、馬頭のお供も連れておらず、一人でここまでやってきたようだ。これもお辰には珍しいことだ。

「……左之吉がまた何かやらかしたのか?」

 英太郎の胸の奥に墨をこぼしたように不安が広がる。

「うーん……多分そうだと思うんだけどぉ……」

 お辰の言葉は曖昧だ。

「ねぇ、ムンザシノスクネノクロマロって知ってるぅ?」

 聞き慣れない長い言葉が唐突にお辰の口から出たので英太郎は眉根を顰めた。

 お辰は指先で宙に文字を書く。お辰の指がなぞったところはきらきらと輝き、文字が浮かび上がった。

 牟射志宿禰久老磨呂。

「人の名か? 随分と古風だな」

「そうねぇ……千五百年前だか千六百年前だか……かっきり何年前かは忘れちゃったんだけど、そんくらい前の人だから。今の江戸の町が出来るずぅっと前にあの土地一帯で力を持っていた人なんだけど、その人の持つマジナイの力も強くって。どっちかというと、あたし達に近いくらいでね。いろいろ見えたり、呼び出せたりもして」

 いわゆる呪術師というものなのだろう。だが、なぜ今そんな人物の名が出てきたのか、そのムンザシナントカがどう左之吉と関わっているのか、まだ英太郎には見当がつかない。

「そのムンザシノスクネノクロマロが死んだ時に地獄でも一悶着あってねぇ。力が強すぎて死神が束になってもどうしても魂を地獄まで連れてくることができなかったのよぉ」

「つまり、まだ現世に留まっていると?」

「封印したらしいのよねぇ……地の底に」

 あたしも子供の頃のことだからよく覚えていないんだけどぉ、とお辰は言った。そういえばこの娘はこう見えて俺よりも年上だったな、と英太郎は内心、妙なところに感心した。

「封印はしたんだけどぉ……封の仕方が甘かったのかしらねぇ。ムンザシノスクネノクロマロの魂に沢山の低級霊達が寄り集まって混ざり合っちゃったりして、長い間放っておいた間に、すーごくアブナイものになってる……と思うし、事実なっていたわ」

「なっていた……? つまり、封印が解かれたのか?」

「そう」

「その封印を解いたのが左之吉だとでも?」

「多分、そう」

「それはないだろう。あんな力の弱い下っ端の死神に何が出来るっていうんだ」

「でもねぇ……」

 お辰は英太郎を上目遣いに見上げた。

「閻魔庁の蔵に仕舞っていた首刈り鎌をね……左之吉が持っていっちゃったのよねぇ……無断で」

「……」

「江戸の町は今、大変よ……悪鬼になったムンザシノスクネノクロマロが暴れ回っている……もうすぐ地獄も死人で溢れて忙しくなるでしょうね」

 古代の悪鬼の封印を解く……そんなことができる力を持つ者は……

(おろく……)

 左之吉がおろくの魂と体を切り離したことで、おろくの魂に宿った蛇神の力が良からぬモノに狙われやすくなったのかもしれない。

 だが、もしそうだとして、左之吉は首刈り鎌なぞを持ち出して何をしようとしているのか。地獄の首刈り鎌は文字通り、首を切り落とすための道具だ。ただし、生きている人間の首ではなく、死人の首を切り落とし魂ごと消し去ってしまうのだ。

(まさか、左之吉のやつ……)

 英太郎には思い当たることがあった。

「ねぇ英太郎さん。左之吉は何をやらかしちゃったの? 首刈り鎌のことはまだお父つぁんには内緒にしているけど、今回の騒動に左之吉が噛んでるって知ったらお父つぁん、きっと左之吉を消してしまう……」

 おろくのことはお辰は知らない。ただ、深くを知らないまでも、お辰が左之吉の身を本気で案じているのが伝わってきた。

 英太郎は喧嘩別れをしたばかりの左之吉の事を考えた。

 左之吉はおそらくおろくの首を切り落とし、魂を消し飛ばすつもりだ。おろくと賭けをやり、戯れにおろくの魂を抜き取ったことが原因で悪鬼の封印が解けた。しかも、おろくは幼い頃に左之吉が誤って地獄に連れてきてしまったために、不思議な力を身に宿してしまった娘だ。

 閻魔大王が知れば、当然、全ての責めは左之吉にあると考えるだろう。確かに、左之吉が消される理由は充分過ぎる程ある。

 今度の騒ぎに気がついた左之吉は、事が明るみに出て自分が消されてしまうよりも先に、問題の大元であるおろくを消してしまおうとしているに違いなかった。

(何が、お前には迷惑はかけない、だ!)

 英太郎は土手道を去っていった左之吉の後ろ姿を思い出し、小さく舌打ちをした。

 生きている人間の魂を勝手に抜き取った挙げ句、その魂を消し飛ばす。そんな大それた事をやって、もしばれたら、それこそ灼熱の業火で千回焼かれて、全身を千本の槍で貫き通されても文句は言えない。

「ね、英太郎さん……左之吉が言うこと聞くの、英太郎さんしかいないから……」

「そうかな……」

 あいつが俺の言うことなんか聞くもんか、と心の中で毒づく。

「それを言うなら、お辰さん……閻魔大王様の心を鎮めることができるのこそ、あんたしかいないんじゃないのかい?」

「まぁ、そうねぇ……」

 お辰は形の良い眉をきゅっと顰めて考え込んだ。

「でも、本当にムンザシノスクネノクロマロを目覚めさせたのが左之吉なら、いくら私でもお父つぁんの怒りを抑えることはできないわ。今だって青筋立ててピリピリしっぱなしなんだもん」

「そこを何とかできないかい?」

「そうねぇ……しつこくて、いけすかないやつだけど、昔からの馴染みだし、なんとか助けてあげたいし……英太郎さんのお友達だし……」

 お辰が英太郎をチラリと見上げる。右の瞳は藍色。左の瞳は深い緑。その中に物欲しげな光が一瞬だけ煌めく。

 お辰の視線は、英太郎の背後にある棚の上、びいどろの器に注がれていた。

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