第七話 死神の運命
(一)
「馬鹿野郎!」
よく晴れた青空の下、三途の川の土手道に怒号が響いた。
仕事に向かう死神や通りすがりの一つ目の羅卒達がぎょっとして振り向く。
「何をやっているんだ、お前は! おろくと賭けをやって魂を抜き取っただと? そんな事をして許されるとでも思っているのか?!」
青筋を立てて怒っているのは目玉売り屋の英太郎だ。店先で同居人の左之吉の胸ぐらを掴んで怒鳴っている。
「うるせぇなぁ。そう怒るんじゃねぇよ」
怒られている本人の左之吉は、英太郎の剣幕にうんざりとした顔をしながら不満げに唇を尖らせる。
「おろくはどうした?」
「今度はこっちには連れて来ちゃあいねぇよ。死人の目録には名前がねぇしな。今頃は魂だけになって適当にさまよい歩いてるんじゃねぇのか? ……なぁに、ちょっとからかってやっただけよ。しばらくしたら、また行ってやって魂を体にくっつけなおしてやるよ」
のらりくらりとかわして反省の色がまるでない左之吉に、英太郎の怒りは未だ治まりようがない。
「お前は自分が何をしたか分かっているのか? 閻魔大王の許しもなく生者の魂を勝手に弄んで……お前、今度こそ本当に消されるぞ?!」
「勝手なこと、ねぇ……」
不意に、左之吉の瞳にすっと冷たいものが宿った。
「お前に言われるとは思わなかったぜ、英太郎」
左之吉は唇の端を吊り上げて、ニヤリと暗い笑みを英太郎に向けた。
「一番勝手なことをやった死神はどこのどいつだったかな? え?」
左之吉の胸元を締め上げていた英太郎の手の力が一瞬緩んだ。その隙に左之吉は英太郎の手をパシリと払いのける。
「いいよなぁ、お前は。死んだはずの人間を生き返らせちまっても消されなかったんだからな。死神を辞めて目玉売りだなんだと自由気ままに生きているじゃねぇか。うらやましいぜ」
「……」
心の奥に差し込まれるような棘を含んだ左之吉の言葉に、英太郎は何も返すことができなかった。
二人はしばらく無言でにらみ合った。店先のタライの中の目玉がポチャリポチャリと立てる水音だけがやけに大きく響く。
先に沈黙を破ったのは左之吉の方だった。
「俺は出て行くよ……長いことお前の住処に居座って厄介をかけたな、英太郎」
「もう戻らねぇつもりか?」
左之吉は答えずに背を向けた。
「お前にゃあ迷惑かけねぇよ」
左之吉は英太郎の方を見ずに手をひらひらと振って見せ、土手道を川上に向かって歩き出す。
英太郎はゆっくりと遠ざかっていく左之吉の背中を言葉もなく見送った。
もう百年近く前だったか、英太郎は一人の女を生き返らせてしまったことがある。生き返らせたというよりも、魂をあの世に連れて行くことができなかったのである。
死んだばかりの人間は、自分が死んだことをすぐには自覚していない場合が多い。だから大抵ぼんやりとしながら、死神に手を引かれて静かにあの世へと渡る。だが、その女は違った。生まれたばかりの乳飲み子を置いてこの世を去るのは辛い、としきりに言って泣くのだった。女は亭主だった男に捨てられ、身寄りもなく、貧しかった。女が死ねばその子供も乳がもらえずにやがて母親の後を追うだろう。
手を引いて三途の川の渡し場まで連れていこうとしてもなかなか動かず、我が子を想って嗚咽する女を見て、英太郎は「逝かなくてよい」とつい言ってしまった。そして、女の魂を元の肉体に戻してやったのだ。
英太郎は、生きている人間に対してしばしば同情や共感を感じてしまう。これは死神としては致命的な欠陥だ。
自分は死神稼業に向いていない、と痛感した英太郎は死神を辞めて三途の川のほとりの目玉売り屋になった。
改めて考えるとよく許されたと思う。
ヘマをやって閻魔大王の怒りを買い、消されてしまった死神達も数多く見てきている。英太郎も消されても文句は言えなかった。死ぬはずだった女の運命を変えて勝手に生き返らせてしまったのだから。普通であればただで済むはずはないのだが、なぜか英太郎にお咎めはなく、死神を辞めるだけで済んだ。
おそらく左之吉はそれを羨んでいる。左之吉も死神を辞めたがっているのではないか、と内心、英太郎は思っていた。正確に言えば、死神、という運命に縛り付けられるのを嫌がっているのだ。死神は、あの世とこの世を往復して死者の魂を運ぶためだけに作り出された存在だ。それ以上でもそれ以下でもない……そのはずだ。
だが、死神として生まれたはずの英太郎は今はもう死神ではない。
左之吉が、死神を辞めた英太郎に近づき一緒に住むようになったのも、そのことが関係しているのではないかと思う。左之吉は、死神が、死神として生きなくてはいけない、という呪縛から解放され、自由になれるという夢を追い求めているのではないか。だとすれば、左之吉が自分勝手な行動をとったり、お辰に手を出そうとしたりして、わざと閻魔大王の不興を買うようなことしているのにも一応の説明がつく。それは、閻魔大王の手足となって働く死神、という運命への左之吉なりの反発のつもりであったのかもしれない。
左之吉が望む「死神が死神でなくなる夢」を易々と叶えた死神……それが英太郎だった。
(二)
おろくは、実体のない指先で自分の唇をそっとなぞった。
肌の暖かさなど伝わったはずはないのだが、それでも口元には久仁八の温もりがわずかに残っているような気がした。
(……最期くらいいいわよね。どうせ私、死んじゃったんだし)
久仁八には自分のことが見えていたと思う。最期に自分の想いは伝わっただろうか?
江戸の街には夕暮れが近づいていた。おろくは、橙色の日の光に染まる川面を眺めている。
おろくの魂は未だ現世にある。だが、自分がどこにいて何をしているのか、という意識が次第にあやふやになってきていた。さっきも、神田にいたと思えば、いつの間にか黒船町の長屋の自分の住居に帰っていた。そして、久仁八に会った後は、意識がふっと遠のき、気がつけば大川端に佇んでいる。
このまま、自分は段々と「この世のもの」からかけ離れた存在になってしまうのか。そう考えると薄ら寒いような気持ちに襲われる。
ふと、夕闇の向こうにぼうっ、と五、六個の光の塊が見えた。
人魂だろう、とおろくは何とはなしに思った。おろくが、夜、大川のほとりを歩くといつもおろくを追い越してひらりひらりと飛んでいく、あの……。
しかし、やがておろくの目の前に姿を現したのは、思ってもみないものだった。
おろくは、それを川で死んだ子供達の魂であろうとずっと思っていた。だが、おろくが今はっきりと目にしているもの、人魂だと思っていたものは、三人の「ヒトのようなモノ」の目だった。
背丈は確かに子供のようで、おろくの肩にも届かない。しかし、普通の子供とは明らかに違う。まず、顔や手足が、緑銅色の細かな鱗にびっしりと覆われている。口はざっくりとザクロを割ったように大きく、閉じきらないままのその口からは赤紫色のねっとりとした舌先が覗いていた。毛は生えておらず、ボロボロの赤茶けた布を身に巻き付けている。目は三人ともに巨大で爛々と輝いており、顔の半分近くも占めているように思われた。体自体は歩く度にぐねぐねと伸びたり縮んだりするようで、そのため輝く目が人魂のように見えるのだ。
三人の化け物はおろくの前で歩みを止めた。じっとおろくを見上げる。
おろくは思わず後ずさった。
三人は何やら顔を寄せてひそひそと話し合いを始めた。
「いよいよ体の器を脱ぎ去ったようですな」
しばらく経って話し合いが終わったのか、化け物の一人が突然おろくに話しかけた。妙に甲高い声が耳に刺さる。
「めでたいことです」
「ムンザシ様も喜ばれましょう」
二人が続けた。
「あの……何のこと?」
おろくはおそるおそる尋ねた。
「今までヒトの体の器に入っていらっしゃったので、私どもも貴方様にお呼びかけすることができずにいた」
「夜にこの道を通るのをいつも見ていました」
「ようやくこうしてお話することができる」
「貴方様に助けを乞うことができる」
「助けてください」
「ムンザシ様をお助けください」
三人の化け物の言葉遣いはごく丁寧で、おろくに向かい深々と頭を下げる。
「助けるって……」
おろくは何が何やら分からない。ムンザシ様を助けるというのは一体何のことなのか。
「だって貴方様は!」
「蛇神様でしょう?」
「その右目の赤い瞳が何よりの証拠!」
三人の化け物が叫び、それと同時に大きな口をぱかっと開けた。口から白いねばねばした糸が吐き出される。
「きゃっ……!」
白い糸はおろくに絡みついた。魂だけになったおろくの透明な体を忽ちのうちに覆い尽くしていく。
「蛇神様をムンザシ様の元へお連れします」
「ムンザシ様はきっと喜ばれる」
「ムンザシ様は蛇神様の力を得て蘇られるでしょう」
化け物達の声を夢のように聞きながら、おろくの意識は靄がかかるように白い色に塗りつぶされていった。
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