第六話 幽霊おろく
(一)
暗闇の中を緩やかに流れる川の水が、幽かな、しかし無数の明かりに照らされてうっすらと光を帯びている。川面の上をふらりふらりと飛んでいるのは数百数千の蛍……いや、人魂だ。生の国から死の国へと旅を続ける数多の魂達。その中を一艘の舟がゆっくりゆったりと流されていく。
流され行く舟をなぜかおろくは上から見下ろしていた。
舟の上には誰かが横たわっている。それはおろく自身だった。
舟の上のおろくは眠っているのか死んでいるのか、固く瞼を閉ざして微動だにしない。傍らには、左之吉も、骸骨の船頭もいなかった。
おろく一人の体を乗せたまま、舟は下流へ向かって滑るように進んでいく。
(待って!)
おろく自身を見ているおろくの意識は叫ぶ。しかし、声にはならない。その場から動くこともできない。
(起きて……お願い!)
おろくは舟の上で眠る自分自身に呼びかけるが、やはりもう一人のおろくは目を閉ざしたまま動く気配がない。
その時、おろくは気がついた。自分が、川の上をたゆたう無数の人魂の一つになっていることに。
おろくの意識が見ている「おろくの体」は魂が抜け出た後の抜け殻なのだ。
おろくは死んだのだ。
「おろくの抜け殻」を乗せた舟がだんだんと遠のき、やがて闇の向こうに消えていくのを、おろくの魂はなす術もなく見送った。
(二)
江戸の街を眩い朝日が照らし出す。浅蜊売りの声も聞こえ出す辰の刻頃には、人々は既に眠りから覚めていつもと変わらぬ日々の営みを始めている。
そんな朝の一時、浅草は材木町の大川の川端には、幾人かの人間が集まっていた。
その中の一人は辻番の役人のようであった。役人の監視の下、二人の人足が女の死体を戸板に乗せて担ぎ上げている。これから死体を番所に運び込み、御目付に届け出てから近隣の墓所の片隅に無縁仏として埋めることになるだろう。周りには五、六人の野次馬が取り巻いている。
死んでいるのは、この辺りを商売の場としている夜鷹女だ。よくあることだった。
朝っぱらから行き倒れの対応に駆り出されたためか、眠気のまだ覚めきらない様子の役人は目を瞬かせながらふぁっと欠伸をした。
(助けてあげられなくてごめんね……お小夜ちゃん)
おろくは、傍らの柳の木の下に立ってこの様子を眺めていた。
左之吉との勝負に負けて体から魂を抜き取られたおろくだったが、なぜか地獄に連れて行かれることもなく、意識だけが「幽霊」となりこの世にとどまっている。
初めて明るい場所で見るお小夜の顔はやつれてはいるものの思っていたよりも若く、おろくと同じ年か、事によると年下のように見えた。短すぎた彼女の人生を思うと胸が締め付けられるような哀しみを感じるが、眠っているように穏やかな表情が唯一の救いだった。
自分の体はどうしてしまったのだろう、と、お小夜の亡骸を眺めながらふと思う。
おろくは、左之吉に魂を抜かれた後で夢うつつに見た風景を思い出した。舟に乗せられた自分の体がどんどんと遠ざかるのをただ見送っている光景。
やはり、あの光景は本当で、自分の体は川に流されて海まで行ってしまったのだろうか……やがておろくの体は通りがかりの漁船に引き上げられる、二目と見られぬ姿になって……。
そこまで考えるとおろくはブルリと体を震わせた……震えを感じるべき体などはもうないはずなのだが。
(これからどうすればいいんだろう)
おろくは途方に暮れた。しかし、途方に暮れると言っても、もう死んでいるのである。死者であれば何をする必要もなく、また何をしても良いはずだ。
(いずれ、あの左之吉とかいう死神が地獄から迎えにくるかもしれない。だからその前にせめて……一目だけでも、お父つぁん、お母つぁんに……)
おろくは実家のある神田に向かって歩き出した。体を持たない幽体だけの存在ながら魂は体の感覚を覚えているらしく、地面を蹴って普段通りに「歩く」ことはできる。もっとも足元はいつもよりもフワフワとしていて、なんとなく覚束ない感じではあったが。
(三)
おろくの生家は神田の紙問屋だ。絵双紙や役者絵、瓦版を始めとして出版業が盛んで本屋の数も多い江戸では、紙問屋はなかなかに儲かっており人の出入りも多く活気がある。
おろくが一年ぶりに訪れた実家の店先にも、これから卸す紙の束が山となって積み上げられ、その光景は以前と何も変わることはなかった。
おろくが家を出た直後はすぐに連れ戻されることを覚悟していたのだが、結局両親が自分を捜していたような形跡は何もない。他人と違う赤い目を持つ娘を厄介払いにできて、案外ほっとしているのでは……と考えると、どうにもならない寂しさがこみあげてくる。
自分から家出をしておきながら、心のどこかではいつか両親が自分を連れ戻しにきてくれる日を待っていたのだ。
店先に父が出てきた。一年前よりも白髪が増え、年をとったように感じる。
父は、店に立っていた手代らしき男と何やらヒソヒソと話し合っている。その手代の顔を見ておろくははっとした。
(あいつは……)
いつも賭場にいる刀傷の男に間違いなかった。しかし、額にあるはずの刀傷の跡は綺麗に消えていた。
「おろくさんは……」手代の口から自分の名前が漏れたのが聞こえ、おろくは二人のすぐ傍まで近寄った。
「昨日はお寺にいらっしゃってました。すぐに帰られましたが……」
「そうか……具合を悪くしているのではなかろうな?」
「いえ……気持ちはいささか沈んでいるように見えましたが、お元気そうでした」
「……そうか」
すぐ傍におろくがいるとはつゆ知らず、父は溜め息をついて心なしか潤んだ目で空を見上げた。
父はおろくの身を案じて手代を賭場に潜り込ませ、おろくの様子を探らせていたのだろう。手代の額にあった刀傷もおそらく作り物だ。
(お父つぁん……心配してくれていたんだね)
以前よりも一回りも小さく見える父の背中に向かっておろくは思わず手を合わせた。
(お父つぁんお母つぁんに会うこともせず……あたしは勝手に死んじまった……。ごめんね。本当にごめんなさい)
大声を上げて泣き出してしまいたい。しかし、幽霊の身には流すことができる涙さえないのだ。
おろくは悲痛な気持ちを抱えたまま、白い日の光が降り注ぐ往来にしばらくじっと佇んでいた。
(四)
久仁八は黒船町の裏長屋の薄暗く湿っぽい路地に立っていた。
すぐ目の前はおろくの住まいだ。中に人の気配はない。
昼間からここを訪ねたのは特に用事があってのことではなかった。
ただ、早朝からひどく胸騒ぎがした。おろくの身にのっぴきならない「何か」が起こっているような気がする。
物心がつき始めた幼い頃から、久仁八の勘は妙に当たるのだ。それだけではない。いわゆる物の怪や幽霊など、普通の人間には見ることができないようなものも目にすることがある。
久仁八は、不吉な胸騒ぎを感じながらも、始めて会った日のおろくのことを今更ながら鮮明に思い出していた。
ちょうど一年前、久仁八達が根城にしている荒れ寺の本堂の片隅にボロ雑巾のようになって体を丸め眠っていた、痩せた野良猫のような娘。他のならず者に乱暴なことをされる前に久仁八が見つけることができたのは幸いだったと思う。
ゆすり起こし、娘が眠たげに目を開くのを見れば、驚いたことに右目の瞳が朱を塗り込めたように真っ赤だった。これは尋常ではない、と久仁八は直感した。娘の赤い瞳からは渦を巻く妖気のようなものが感じられた。
名前を聞けば、おろくという。久仁八は博徒の親分だけあって、浅草近隣で起きた事件は大小問わず子分を手足に使って、大した時間もかけずに調べることが出来る。神田の紙問屋でおろくという娘が行方不明になっているということもすぐに分かった。
家出娘に説教の一つ二つもくれてやってから送り返そうかと思ったが、なぜかおろくのことを放っておくことができなかった。不思議な赤い目を持ったおろくが、とてつもなく大きなものを抱え込んでいるように思えたからだ。そして、おろくはおそらく、その得体の知れない大きなものから溢れ出る「力」を持て余し、苦しんでいるようにも思えた。だとすれば、おろくの抱え込んだ「力」を少なからず感得することができる自分が彼女の傍にいてやるべきなのではないか。おろくが自身の持つ「力」と真っ直ぐに向き合えるようになる日まで。
普段は冷酷で血も涙もない鬼八を呼ばれ恐れられている久仁八だが、この時ばかりは何かに突き動かされるようにおろくのために懸命に動いていた。
久仁八はおろくの家まで自ら赴き、おろくを自分に預けてほしいと父親に頼み込んだのだ。
おろくの父は博徒・鬼八に怯えながらも、大事な娘をやくざ者に預けるなどとんでもない、と必死で拒絶の意を示した。当然のことだ。
久仁八は条件をつけた。自分はおろくには決して手を出さないし、他の者にも手を出させない。おろくの家出の期間は一年に限ることにし、一年が経ったらすぐにおろくは家に帰す。そして、おろくの近況を家の者に伝えるために久仁八の子分を店で働かせる。子分は夜は賭場に出入りし、それとなくおろくの様子に気を配り、昼間は店で働きながらおろくの近況をおろくの父に伝えるのだ。
おろくの父は久仁八の言葉を初めは胡散臭そうに聞いていたが、久仁八の真剣さが伝わったのか渋々ながらついに了承してくれた。
久仁八が紙問屋で働かせることにしたのは弥太郎という子分だった。万事そつなくこなせる器用なやつで、足を引っ張らず商いの手伝いをすることぐらいはできそうだった。唯一の懸念は弥太郎の額に物騒な刀傷の跡があることだったが、弥太郎は元々旅芸人だったため、白粉を顔に塗って上手い具合に傷を隠すこともできた。
全てはおろくには秘したまま進められた出来事であった。
しかし、おろくを家に帰すべき約束の日はもう間近に近づいてきている。期限を前にしておろくの身に何かあったら久仁八はおろくの父との約束を違えることになる。いや……約束のことがなくとも、久仁八は純粋におろくの身を案じてもいた。話すことは少なくとも同じ時間を近くで過ごす中で、久仁八はおろくに対してある種の愛おしさを確かに感じ始めていたのだ。
「おろく、いるか?」
返事がないと分かっていながら、久仁八は戸に向かって声をかけた。案の定、森閑としている。
戸に手を掛けるとカラカラと軽い音を立てて開いた。
四畳半の一間には物はほとんどなくさっぱりとしていて、どこかうら寂しげな感じがした。
「……?」
薄暗い部屋の中でふと何か影のようなものが身じろぎしたような気がした。久仁八は目を細める。部屋の片隅に固まった「影」がだんだんとひとつの形に像を結んでくる。
「おろく……?」
ぼんやりと透けて見えるが、それは確かにおろくの姿だった。
久仁八は部屋の中に足を踏み入れる。おろくの影も久仁八にツイッと近づいた。
「おろく、お前は……」
死んだのか、という問いはどうしても声に出して言うことはできなかった。
不意に久仁八の口元に暖かな感触が伝わった。おろくの影が久仁八に口づけたのだ。
「おろく!」
久仁八が叫ぶとほぼ同時に、おろくの影は霧散した。気配が消える。
呆然と佇む久仁八の口元には、おろくの柔らかな唇と熱い吐息の感覚だけが残っていた。
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