第五話 賭け

 おろくは全てを思い出したようだ、と左之吉は確信した。

 幼い時に左之吉に手を引かれて三途の川のほとりにやってきたことも。そして、英太郎に右の目玉を取り替えられたことも、きっと。

 おろく自身は気が付いていないだろうが、左之吉を見つめるおろくの右の瞳は今、うっすらと妖艶な光を宿し、先程よりも強く輝きを放っている。

「あの目玉の赤い瞳には、お前が思っている以上に強い力が宿っている」と英太郎が言った言葉を、左之吉は思い出す。

「ねぇ……」

 しばらく金縛りのように固まっていたおろくが不意に口を開いた。

「お小夜ちゃん……本当に連れて行く気?」

「まぁ、そうだな」

 左之吉は腰に下げた分厚い台帳をぱらぱらとめくった。

「死ぬやつの名前はこの台帳に名前が書かれていてな……ほれ、今日の死者の分にはちゃんとお小夜の名がある」

 左之吉は台帳を開いておろくの目の前に突き出した。

 おろくは台帳の上にじっと視線を落とす。

「……私は、この台帳には名前がなかったわけでしょう?」

 おろくは顔を上げずに低い声で言う。

「思い出したわ。名前が載ってないのにあんたが間違ったせいで私はあの世に連れて行かれて本当に死人になっちゃうところだった。しかも、目まで変なものに取り替えられて……」

「……何が言いたい?」

「あんたのせいであたしは生き方を狂わされたってこと。見えちゃいけないものまで見えるようになった……おかげでずっと辛い時を過ごしてきたわ」

「おいおい、目玉の件は俺のせいじゃねぇぞ、それは……」

「とにかく……あたしはあんたに貸しがあるってことよ」

 おろくはキッと左之吉を睨みつけた。

「……お小夜の魂を置いていけってことかい?」

「ただで、とは言わない」

 おろくの気持ちが高ぶっているからか、赤い瞳はより一層輝きを増す。

「私と勝負して……私が勝ったらお小夜ちゃんは連れていかないで」

「ほう……」

 左之吉はニヤリと笑って上唇を舐めた。勝負というのはサイコロの勝負のことを言っているのだろう。

 流石はイッパシの博打打ちだ、と左之吉は妙なところに感心した。

「なるほどな。じゃあ、俺が勝ったらお前はどうする?」

「あたしが……負けたら……」

「死神と賭けをするんだ。それ相応のものを賭けてもらわねぇとなぁ」

「あたしは、自分の魂を賭ける」

「いいのかい?」

「いいんだよ。私はどうせ……いつ消えたっていいような人間なんだ」

 おろくは自棄になっているのかもしれない、と左之吉は思う。しかし、そんなことはどうでもいい。人間の女と魂を賭けて博打勝負をやる。それだけで充分に面白そうだった。

 馬鹿な事はするな、と英太郎は止めるだろうな、とも思うし、英太郎が眉根を顰めて説教する顔も思い浮かぶようだが、やはりそれすらもどうでも良い。

 左之吉にとっては「面白いこと」が全てだった。


 真っ暗な大川に浮かぶ一艘の舟。おろくの目には舟はうっすらと青白い光を纏っているように見える。

 しかし、きっとこの舟は常人の目には見えない舟なのだ。死神が乗り、死者の魂を常世へ運ぶための舟。

 おろくは今、この光る舟に死神の左之吉とともに乗り込んでいた。二人の他には骸骨姿の船頭が傍に控えている。

 お小夜の体は土手に置いてきた。このまま、おろくが左之吉との勝負に勝てなければお小夜は明日の朝、死体となって発見され、おそらく無縁仏としてどこぞの墓地に人知れず埋められてしまうのだろう。

 それだけではない。負ければおろく自身も魂をとられてしまう。魂をとられるということは、すなわち死ぬということだ。

 危険な賭けだ。しかし、おろくはやらなければならない、と思った。

 お小夜は、賭場からの帰り道でたまに顔を合わせ、夜の闇の中で言葉を交わし合うだけの間柄だ。素性も知らないし、明るい昼間に会ったこともない。それでもおろくはお小夜と話す時間が好きだった。夜鷹という、人から蔑まれ、憐れまれるような境遇でも決して下を向くことなく、逞しく生きていた。おろくには、お小夜の芯の強さに時折眩しさすら感じる。

 一方的な気持ちかもしれないが、おろくにとってはお小夜は大切な友人だった。そのお小夜の魂を何もせずに死神に引き渡すわけにはいかない。

 勝負は一回限り。

 サイコロのサシ勝負だ。場所はこの舟の上、壷振りは骸骨船頭がやってくれるらしい。

「用意は出来たか?」

 左之吉の問いかけに骸骨はカタカタカタ、と歯を鳴らしながら答えた。

「私が勝ったら……約束、守ってよね」

「疑うなよ。俺は正直な死神だぜ」

 左之吉はニヤニヤと笑った。腹の底が見えない男だ。しかし、今はその言葉を信じる他ない。

 カシャンと骨同士がぶつかり合う乾いた音がして、骸骨の船頭の白茶けた手が船板に敷いた茣蓙の上に壷を伏せた。

「半」とおろくが言った後を追って、間髪入れずに左之吉が「丁」と続ける。

 おろくの胸の奥は嵐のようにまるで激しく脈打っていた。しかし、この脈ももうすぐで止まってしまうかもしれない。

 骸骨がゆっくりと壷を持ち上げる。


 サイコロの目は……四と……四……


「シゾロの……丁……」

 骸骨がおろくを嘲笑うかのように、大きく口を開けてカツンカツンと歯を鳴らした。舟の腹に打ち付ける波の音が、おろくの耳にはやけに大きく聞こえる。

「俺の勝ちだな、おろく」

 左之吉はぐいっとおろくの体を引き寄せると、耳元で囁いた。

「お前も約束を守ってもらうぜ」

 そう言うと左之吉はおろくの顎を指先で持ち上げ、自分の唇をおろくの唇に重ねた。

 わずかに開いたおろくの口元から、熱い「気」が体の中にどっと流れ込んでくるようで目眩がする。

 左之吉の腕に抱えられて口づけられたまま、おろくの意識は闇の中に引きずられるように遠のいていく。


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