第四話 再会

(一)


 びゅうびゅうと激しく冷たい風が川面を渡り、土手道に吹きすさぶ。

 地獄の世界に昼も夜もないとはいうものの、今日は三途の川の上に広がる空も真っ黒な色に塗りつぶされ、辺りはすっかり闇の世界である。

 これでは商売にならない。英太郎は早々に店は閉めてしまった。

 全てを凍り付かせるような風が英太郎の店の戸板をガタピシと揺らす。

 絶え間ない風の音におびえるように、土間に置いたタライの中の目玉達は落ち着きなくちゃぽんちゃぽんと水をはね飛ばしている。

「閻魔大王様はご機嫌ななめらしいなぁ」

 左之吉がのんきな声で言った。今日は非番なので左之吉も家にいるのだ。

 英太郎と左之吉、二人の間に置かれた鍋の中には、赤黒いどろりとした液体がグツグツとあぶくを立てて煮立っていた。

 狒々の生き血と大蛇の生き血を合わせたものを、化け蜘蛛の眼から絞り出した涙で割り、さらに墓場の湿った土を加えて出汁をとったものである。

 そしてさらに、英太郎の傍らに置かれたザルには黒光りする紐状の生き物がガサゴソと蠢いている。二十匹ほどの活きのよいムカデである。血鍋に入れてよく煮ると美味なのだ。

「地獄に吹く風も閻魔様のご機嫌次第、か……」

 英太郎は指で一匹ずつムカデを摘んで鍋の中に入れながら、苦笑した。

 左之吉は、この突然の悪天候が閻魔大王の不機嫌によるものだと思っているらしいが、それが当たっているのかどうか、本当の原因は英太郎には分かりようがない。

 ただ、閻魔大王の機嫌が悪くなる理由には思い当たることがなくもなかった。

「また、お辰さんの見合い話が上手くいかなかったんじゃねぇのか?」

「なるほどなぁ。お辰のやつ、俺に惚れているもんだから俺のことを待っているんだろうなぁ、きっと。だから、見合いする度にどの男も断っちまうんだろうな」

 左之吉は愉快そうにカハハと口を開けて笑った。英太郎は呆れて溜息をつく。

「お前、まだお辰さんにちょっかい出しているのか」

「おう、まぁな」

「聞いたところだと相変わらず相手にもされてないみてぇじゃねぇか。そろそろいい加減にしておいたらどうだ?」

「なんでだよ」

「閻魔大王に消されちまうぞ」

「そうかねぇ」

「そうだよ」

 下っ端の死神役人と閻魔大王の一人娘では、たとえお互いに想い合っていたとしても身分が違いすぎる。

 今のところは、左之吉がお辰に声をかけ、お辰がそれをけんもほろろに突っぱねている、という具合なのでまだ良い。

 もし、お辰が左之吉との仲を望み、彼を受け入れてしまったならば。

 娘大事の閻魔大王はそれこそ怒り狂って左之吉を消してしまうだろう。

 地獄の住人に生死というものはないが、存在を消されるということはあり得る。消されてしまえば、本当に魂ごと「無」になってしまい生まれ変わることができない。

 だから、お辰に何かと声をかけてはちょっかいを出す左之吉は、実はかなりギリギリの危ないことをしているのだ。

 しかも英太郎が見るところ、お辰自身も形の上では左之吉を突っぱねてはいるものの、内心まんざらではないのではないかという気がしている。お辰が英太郎の店によく来るのもそのせいだろうと思う。

「お、ところでさ」

 左之吉は英太郎の心配等どこ吹く風で、鍋の中のまだ煮えきらないムカデを待ちきれないように頻りに箸の先でつついたりしながら、話を続ける。

「昨日おろくにあったぜ」

「おろく?」

 聞き覚えのある名前だ。

「覚えてねぇかい? まだ生きてたとこを俺が間違えてこっちに連れて来ちまった娘っこだ。お前が右の目玉を取り替えてやった……」

「ああ……あの娘か」

 英太郎は、幼げな娘があの時に見せた屈託のない笑顔を思い出した。

 今頃はもう十七、八くらいに年齢になっているはずである。

「大川に飛び込んだサムライのおっさんを迎えに行ったんだ。そしてら、あいつが川縁から俺のことを見てた。結構べっぴんになっていやがったぜ」

 ああいう女の口を吸ってみてぇなぁ、と左之吉は好色そうな笑いを浮かべた。

 英太郎は眉根を顰める。左之吉の悪癖だ。左之吉は、死にかけた若い女の魂を体から取り出す時にわざと唇を合わせて口から魂と吸い出すということをやる。

「しかも、おろくのやつ、女だてらに博打打ちなんぞをやっているようだな」

「博打打ち……?」

 英太郎は考え込む。

「どうしたんだよ、小難しい顔をして。色男の顔にしわが出来るぜ?」

 言いながら、左之吉はようやくほこほこと茹であがったムカデを鍋からつまみ上げて自分の椀に入れた。

 英太郎は記憶を辿る。あの時、左之吉と一緒に店に来たおろくの着物は、ところどころ焦げてはいたものの大分仕立ての良さそうなものだった。豊かな商家の娘ではないか、と思っていた。

 後から伝え聞いた話によると、おろくの兄は火事で死んだものの両親はまだ生きているらしい。

 どう考えても、本来ならば博打打ちなどと堅気でないことに手を出すような境遇ではないはずだ。

「……あの目玉がもしかしたらおろくの生き方を狂わせちまったのかもしれんな……」

 英太郎は、暗い声で呟いた。もしそうだとすれば、その責任は自分にもある。

「いいじゃねぇか。あの目玉のおかげで勘が良くなってサイコロでも勝てるようになったんじゃねぇのか?」

 左之吉は相変わらずあっけらかんとしていた。

「あの赤い目玉には、お前が思っている以上に強い力が宿っているんだ。万が一にも、おろくの目玉が現世の理を乱しちまうようなことがないか……俺はそれを心配してるんだよ」

 沈鬱な英太郎の言葉に、左之吉はふぅーんと生返事をしながら、血の味がよく染みたムカデを口に頬張り、バリバリと美味そうに噛み砕いた。 


(二)


 生ぬるい風が寺の境内の木々の枝葉をバサバサと揺らした。空には月もなく、全てを押し包むような闇の中におろくの提灯の明かりだけがひっそりと煌めいている。

 おろくは不意に不吉な予感を感じ、足を早める。

 五日前の夜と同じように、浅草のボロ寺の庫裏を出て黒船町の長屋へと帰るところだった。

 あの夜、侍の身投げを偶然目にしてからというもの、昨日までの数日間はこの賭場には足が遠のいていた。

(あたしのせいであのおサムライさんは……)

 と、やはり思わずにはいられない。

 良心の呵責とともに、このまま博打打ちなぞを続けていてよいのだろうか、という不安も心に湧いてくる。

 しかし、当面のおろくの生活の糧は賭け事だけだ。今日はなんとか重い腰を上げて賭場に顔を出してみた。

 相変わらず気分は晴れない。結局、五日前と同じように早めに座を立って帰ることにしたのだ。

「おろく」

 大きな松の影から低い声が呼びかけた。声のする方に目を向ければ、闇の中にポツンと点のような赤い火が浮かんでいた。それが煙管の先の火皿に点る火だとわかるまでにしばらく間があった。

「なんだい、親分か……驚かさないでよ」

 おろくはわざと素っ気なく言って久仁八の横を通り過ぎようとした。

「待てよ」

 久仁八はおろくの肩をぐいと掴んだ。

「何すんのよ」

 おろくは内心どきりとしながらもキッと久仁八をにらみつけた。

 しかし、久仁八はすぐには答えなかった。

 二人の間にしばしの沈黙が生まれた。

「あの男は……」

 ようやく口を開いた久仁八の押し殺すような、低い声。

「あの男は、この寺にやってきた時から、初めから影が薄らいでいたぜ」

 久仁八はそれだけ言うとおろくの肩から手を離した。

 あとは、やはり何も言わない。暗闇の中で久仁八が煙管を吸い、ふぅっとゆっくり煙を吐き出す気配がする。

 おろくも何も言わなかった。

 久仁八はやがて、むせるような煙の匂いを残して庫裏の方へひっそりと去っていった。

 おろくはその場から動けず、真っ黒な空を見上げながらそっと溜め息を吐く。

(影が薄かった、か……やっぱり親分にも見えてるんだ)

 おろくは久仁八と初めて会った時に言われた言葉を思い出した。

「その赤い目玉で、見えるはずのないモノばかりを見ているんだな、お前は」

 久仁八はそう言った。

 見えるはずがないモノ……それは死んだ者達の魂の欠片、残像、死の香りがするもの。

 お互いにはっきりと言いはしないものの、久仁八にもおろくに見えるようなものがきっと見えている。

 だとすれば、久仁八もおろくと同じような孤独を抱いて生きてきたのか。久仁八が、おろくを拾い上げて曲がりなりにも自分達の仲間にしてくれたのも、理由はそこにあるのかもしれない。

 あの男……大川に浮かんだ関川市之進とかいうサムライの「影」はもともと薄かった、そういうさだめにある命だった、だからおろくがサイコロで金を巻き上げたのが悪いのではない、気に病むな、と久仁八は言いたいのだろう。

 だが、久仁八の心遣いを嬉しく思う一方で、おろくの頭からは依然として自らを責める暗い心が消えないでいた。


(三)


 久仁八と別れた後、いつものように川沿いの道を歩いて帰路に着いていたおろくは、柳の木の下でふと足を止めた。

 提灯の明かりの向こうに二人の人間の重なり合う影。男と女らしい。

 初め、おろくはお小夜が客を掴まえたのかと思った。しかし、様子がどうもおかしかった。

 しばらく見ていておろくは気が付いた。青白い妖しげな気が陽炎のように男の体から立ち上っている。男の方はこの世の者ではないのだ。

 女の方は、やはりお小夜だった。

 男はお小夜に口づけていた。男の腕の中のお小夜はぴくりとも動かず、妙にぐったりして見える。

「お小夜ちゃん!」

 強い胸騒ぎに、おろくは思わず叫んだ。

 男がお小夜から体を離す。支えを失ったお小夜はガクリと地面に倒れ込んだ。

「お小夜ちゃん……!」

 駆け寄って抱き起こす。お小夜の温かい体温が腕に伝わった。辛うじて生きてはいる。しかし、お小夜は完全に気を失っているらしく、瞼は堅く閉ざされたまま開こうとしない。

 ゴフッと不吉な音がお小夜の喉の奥から鳴る。

 お小夜の体が跳ねるように何度か震えた。その口からはどろりとした血が見る見る内に迸り落ちて顎を伝わり、おろくの腕の上にポタリポタリと滴った。

 おろくの中でお小夜の命が消えていく。

 呆然とするおろくの視界の端で、傍らに佇む男の手が糸を引き寄せるようにクイクイ、と動いた。その動きに合わせて、お小夜の口からぼんやりと仄明るい光の玉が引きずり出される。

「やめて!」

 おろくは顔を上げて男を見た。

 そこにいたのは、やはり、五日前、大川に身を投げた関川市之進の魂を連れて行ったあの男だった。

「……こりゃあ俺の仕事でねぇ。やめろと言われても連れて行かねぇわけにゃあ行かねぇのよ。……命が尽きたんだ。これがこの女のさだめさ……俺はそれに従って迎えに来ただけだ」

 男はお小夜の魂を手にとって懐につっこむと、おろくの方を見てニッと笑った。

「まぁ、お前さんの時は俺が間違って連れていっちまったんだけどな」

 この男とはずっと前にどこかで会ったことがある。おろくは再度確信する。

 でも、どこで……? いつ……?

 おろくの頭の奥がズキリと痛みを訴えた。眉根をしかめる。

「おろく、俺を覚えているか?」

 男がおろくの顔をのぞき込む。

「あんたは……」

 おろくの頭の中で忘れかけていた記憶の欠片が目まぐるしく明滅する。

 炎に追われて逃げまどう人たち……大きな川のほとり……手を引かれて歩いた……握られた手の温かさ……たくさんのタライ……魚のように泳ぐ色とりどりの目玉達……目玉売りのおじちゃん……赤い瞳……蛇神様の目玉……こわぁい顔をした鬼……

「あんたは……死神……?」

 動悸が早まり、声が震える。

 思い出してはいけないことを思いだそうとしている。自分自身でそう感じた。

「名前は、さの……さの……」

「左之吉だ」

 男はさらりと答えた。

「覚えていてもらって嬉しいぜ、おろく」

 死神はククッと喉を鳴らして笑う。一見優しそうでいながらどこかに残酷な冷たさを感じさせる笑顔だった。

 おろくの背中に得体の知れない震えが這い上がる。

 本当は見てはいけなかったのではないか。会ってはいけなかったのではないか。この男に。

 目眩がする。おろくは、下唇をぎゅっと噛みながら耐えた。

 おろくの腕に抱かれたお小夜の体からは、いつの間にか体温を失われている。ひんやりしたお小夜の肌の感触が、おろくの意識を辛うじて正気につなぎ止めていた。

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