第2話share

僕等は車に乗り込み、三日間の世話になった旅館、勿忘草を旅立った。

「そのシェアハウスはどのあたりなの?」

 僕は運転するカオルに問いかけた。

「すぐ近くだよ」

 そう言って走らせること十五分、住宅街の中に僕等の新居はあった。外観はただの二階建て住宅にしか見えない。後から聞いた話、元々はただの住宅で住人がいなくなった所をオーナーが買い取り、シェアハウスとしたらしい。といっても改装等は特にしておらず、外観動揺、内装もただの住宅と変わりないらしい。

 シェアハウスの前で立ち尽くすこと数分、オーナーが現れた。

「やあ、どうもどうも」

 ワーゲンから降りて来たその男は四十台前後で無精ひげを生やしていた。つなぎ姿から職人のような雰囲気を漂わせている。

「おはようございます」

 カオルがそういって頭下げた。どうやら彼がオーナーらしい。僕は倣って挨拶をした。

「どうも、オーナーの金平です。さ、中にどうぞ」

 金平が扉を開いて僕等を中に招き入れた。

 一般的な玄関だった。僕等は靴を脱ぎ中に入る。

「一階にはリビング、バスルーム、キッチンなど誰でも自由に使っていただいて大丈夫。で、二階が個々の部屋」

  ざっと見ただけで一階の説明は終わり、続いて僕等は二階に上がった。

「えー、部屋は全部で四つ。一人部屋、二人部屋がそれぞれ二つずつ。でも今は一人部屋が一つ埋まってるだけ。そいつは坂井っていうやつで夜勤の工場で働いてる。まあ、そのうち顔を合わすでしょう」

 案内された部屋は八畳ほどの大きさ。床はカーペットで押し入れ、クローゼットの他には座イスと丸いテーブル、本棚が備え付けられていた。

「備え付けの物、あー、動かせるもの以外は前の住人が置いていったものだから使ってもいいし、勝手に捨てても大丈夫。テーブルとか本棚とか」

「わかりました」

「あー、何か質問は?」

「何か、ルールとかはないんですか?」

「いんや、細かいことは基本的に住人の自主性に任せてるから。まあ、そのせいか、すぐ出て行く人もいるし、気が合えばずっと居座る人達もいる。仲良くしろってことだな」

「わかりました」

「ん、じゃあ今日から契約ということで」

 そう言って金平は携帯端末を操作し認証画面に差し出した。僕等は順にそこをなぞる。家を借りるのにこんな簡単でいいのだろうか。一人暮らしの記憶はないが、その適当さに少し不安になった。だがしかし、だからこそ借りられたのかもしれない。きっと僕一人だったら、ホテルやネットカフェでの寝泊まりが続いたことだろう。

「あれ……。まあいいや、家賃は後でメールする講座に月末に振り込んで」

「わかりました、お世話になります」

「まあ、俺はめったに顔出さないんだけどね」

 本当に簡単な説明のみでシェアハウスの紹介は終わった。金平と共に中にいた時間はおよそ五分ほどだろう。

 帰る金平を玄関まで見送った。そのとき、ちょうど扉が開き一人の男性が入ってきた。

「おお、坂井。前に話した新たな住人」

「連絡来たのは昨日ですけど、また急ですね」

「まあまあ、よろしく頼むよ」

 そう言って金平は出て行ってしまった。

「坂井さん、よろしくお願いします赤羽カオルです」

「新藤マコトです」

「どうも、坂井です。基本昼間は寝て、夜働いています。じゃあ、これから寝るんで」

 坂井はそう言って眠そうに目をこすりながら二階へ上がってしまった。

 なんとなく、彼の邪魔になるような気がして、二階の部屋に行くのは憚られた。僕等はリビングのソファーへ腰掛けた。

 リビングには二つのソファーがあり、合計八人は座れそうだ。そして32型のテレビ。HDDレコーダーまで付いている。隣接するキッチンには大きな冷蔵庫、IHのヒーターが三つ。炊飯器や各種調理用具は揃っている。

「カオル、すごいね」

「え、何?」

「こんなすごい物件見つけてくるなんて、他に人は住んでるけど、ほとんど何でも揃っているし」

「確かに、色々と揃えなきゃと思ってたものが、ほとんどあるのは良い誤算」

 バスルームには洗濯機もあり、身一つできても十分に生活できる環境だ。キッチンの棚を覗いてみると坂井のものだろうが調味料も揃っていて、カップ面やお菓子の常備のも完璧だ。

「坂井さんに恨まれないかな」

 カオルが不安げに呟いた。

「え、どうして?」

「だって今までは一人で静かに過ごしてきたのに、いきなりの闖入者だよ。しかし、カップルと思われる二人組、絶対内心じゃ面倒くさがってるって」

「そうかなあ」

「そうだって」

 元々シェアハウスなのだし、気を遣いすぎだと、僕は思った。いやでも、これまでこの一軒家に誰の気兼ねもなく生活してきたなら、多少は良く思ってないかもしれないが、それでも露骨に表に出しはしないだろう。

 僕等は暫くリビングでゴロゴロした後、重い腰を上げて行動を再開した。

 まずは、車の後部座席に積み込まれている雑多の荷物を運び出すことから始めた。二人して三往復したところで車の中はすっきりとした。そして、あまり物音をたてないようにそれらを僕等の部屋に運び込んだ。

 部屋にはクローゼットはあったがハンガーはないので服はかけられない。そして下着やTシャツを入れる箪笥もない。ついでに布団もないではないか。

「色々と入り用だな」

「だね」

 車に乗り町へと繰り出した。見慣れない景色。この所、山や海のような自然ばかり目にしてきたから、チェーン店や車のディら―など、店が並ぶ景色は新鮮だ。

 ホームセンターに立ち寄り、衣服用のボックス、食器、布団、あとは扇風機を購入した。それだけですぐに後部座席はまたしても満杯に埋まってしまった。

 昼時になり、ファミレスで昼食を摂った。

 その後はせっかく町に来たということで、しばらくドライブを楽しんだ。特に何処かに立ち寄ることはしなかったが、流れる街並みを眺めているだけで僕は楽しかった。

 帰ってからはまたも運搬作業だ。そして部屋の整理。

 なんとか購入してきたものだけで雑多にあった荷物は収まった。一仕事終えた僕等はまたもリビングでだらしなくソファーに横になりテレビを眺めていた。一息、お茶でも飲みたいところだったが、僕等が持ち寄った物は何一つないので手が出せないでいた。

 特にルールはないと、あのオーナーは言っていたが、さすがに好き勝手できない。住人の自主性、ようするに個々では坂井さんと話し合うしかなかった。

 夕方になり、階段の降りる音が響いた。

 僕等は待ってましたと言わんばかりに身を起こした。

足音はリビング手前のバスルームで止まった。顔を洗っている水音が聴こえた。そしてタオルを首にかけた坂井さんがリビングに現れた。

「おはようございます」

 カオルが立ちあがって挨拶した。僕も倣って立ち上がり挨拶をする。

「ああ、おはよう、ってそんな時間でもないけどね。それに、そんな堅苦しくしなくていいよ」

 そういいながら坂井さんは牛乳を取り出し、パックにそのまま口を付けて飲み始めた。そして、棚から菓子パンを取り出して僕達の向かいのソファーに座った。

「あの、生活するにあたって色々ルールとかお聞きしたいんですけど」

 カオルはソファーに座り直して尋ねた。

「ん? ルール、ルールねえ」坂井さんはまだ寝むそうに細い目でテレビを眺めている。「いやほんと、そんな堅苦しくしなくていいんじゃない。暮らしていくうちに、思う所があったらその時に言えばいいし」

 特になし、そう聞いてカオルは少し困った顔をした。

「差し当たって、何かないですか?」

「うーん、調味料とか、お茶とかは自由に使っていいよ。その他の食べ物は、勝手に食べられたら困るけど」

「はあ……」

「ようは常識の範囲内でね。気にくわない所とかあったら遠慮せずにいっていいから。あ、家の中の事より近所に迷惑をかけないように、ごみの分別とか。夜は、俺はあまりいないからいいけど、あまり激しいことはなしで」

 それが暗にセックスの事を示しているのだと気付いて僕は少し顔を赤くした。カオルは気づいていないのか、気にしていないのか、平然としている。

「分かりました、何かあれば、こちらにも遠慮なく言ってください」

「うん、よろしくね」

「はい、よろしくお願いします」

 そうして、新居での生活が始まった。



 新しい生活を僕もカオルも少なからず楽しんでいた。近所を散策し、おいしそうな定食屋を見つけたり、チェーン店ではない雰囲気の良い喫茶店を見つけたりと。家での生活も順調だった、坂井さんとはすれ違いであまり関わることがなかったけど、今のところ不和はない。外食だけでなく、料理もした。カオルはしっかりしているくせに、大雑把な所があり、正直料理が上手とは言えなかった。そして自分でも意外なのだが、僕はどうやら料理がうまいようだ。体が覚えているのだろうか自分で言うのもなんだが包丁さばきなどは業に入っていた。

 そうやって楽しく過ごしているうちに僕等はすっかり忘れていた。

 記憶を失くした僕等が出会って一週間がとうに経過していたことを。

「あ、もうとっくに一週間過ぎてる」

 夜、そろそろ寝ようかと部屋で過ごしているとき、カオルが不意に呟いた。一週間、何のことだろうと僕はすっかり忘れていた。

 僕がまだ思い出せないでいると、カオルが財布を取り出して、目の前に掲げたところでようやく気付いた。

「あ……」

 そう、始めに僕等が見つけた、過去の僕等からの手紙、その中に同封されていた薬の存在だ。そもそも、僕等が記憶を失ったのもハーフ・スーサイドなんて薬のせいで、それに対をなすリーバースという薬。記憶が戻る薬。副作用がどうかの理由で僕等はその薬を飲むことを先延ばしにしていた。

「もう遅いし、明日にしよう」

「うん」

 そうして僕等は布団に潜りこんだ。

 電気を消して暗闇で息をひそめる。どうしようか、カオルにそう訊きたいのはやまやまだったが、我慢して寝る努力をした。けれど眠気はまったく訪れてくれない。ぐるぐると、まとまらない思考が頭を駆け巡る。

 結局、一睡もできないまま、カーテンの隙間から朝日が差しこんだ。時計を見ると起きるにはまだかなり早い時間。思い切って起き上がろうとも思ったが、そんな気力もなく、いつもの起床時間まで、起きているとも眠っているとも言えない微妙な状態を続けた。

 今になってようやく、訪れた眠気の中、隣で眠っていたカオルが勢いよく目覚めた。薄眼を開けるとカオルはタオルを持って部屋を出て行った。顔を洗いに行ったのだろう。

 意を決して、僕も身を起こした。

 一回のリビングではタオルを首にかけたカオルがぼおっとテレビを眺めていた。

「何か食べる?」

 いつも朝食を準備するのは僕の役目だ。

「ん……、いや、いい」

 いつもなら目玉焼きの焼き具合まだ注文をつけるカオルが珍しく横に振った。良く見ると目元に派少しクマがきている。カオルもあまり眠れなかったのだろうか。

 一人分だけ、作るのは面倒くさくて珈琲だけを用意した。

「ありがと」

 無言のまま珈琲をすする音だけが響く。

 話すタイミングを見計らっているのだろうか、カオルは時折視線を僕に向ける。けれど、何も言わずにテレビへと逆戻り。

「どうしようか?」

 僕の方から口を開いた。普段なら受け身で、カオルが話しだすのをじっと待っていたことだろう。だけど今は寝不足で少し麻痺していた。

 カオルはマグカップを置いて半開きの目で僕を見据えた。

「うん、どうしよう。……飲む?」

 さらりと放たれたその提案に僕は頷けなかった。

「そんな早急に飲まなくても良いんじゃないかと思う」

「……」

 カオルはただ黙って耳を傾ける。

「新しい暮らしも、まだ始まったばかりだし、もう少し慣れてからでもいいと思う。後は純粋に怖いっていうのもある。記憶を取り戻したらどうなるのか、以前の僕等はきっと相当の覚悟で記憶を消したんだと思う。そう思うと記憶を取り戻すのが怖い」

「それは私もそう思う。今の生活もそれなりに楽しいし、このままでもいいかなって」

「じゃあ――」

「だけど、このままじゃいけない。きっと、いつか記憶を取り戻す必要がある。そんな気がするんだ。だから、薬は捨てないで」

「うん、わかった」

 カオルの言ういつかが、近い未来なのか、それとも十年後とかなのかはわからないけど、今は未だ、現状を維持できることに安堵の息を漏らした。

 これは逃げだろうか、ただ先延ばしにしているだけだろうか、僕はそれでも構わなかった。ときには足踏みも必要だ。

「もうちょっと寝る」

 マグカップを流しにおいたカオルはそう言って二階に上がっていった。カフェインはすぐには効果を表わしてくれないようだ。

 かくいう僕もまだかなり眠気が残っている。折角目覚めたのに、少し勿体ないが、素直に欲望に従うことにしよう。

 二階に上がり二度寝した。



 それからの僕といえば、未来も過去も考えないようにして悠々自適に過ごしていた。特に料理に夢中で毎日のように新しいメニューを試していた。

 カオルはと言えば、筋トレしたりランニングしたりと、なかなかの健康志向だ。後は古本屋で本を買いあさって部屋で読んでいるかのどちらかだ。インドアなのか、アウトドアなのか、よくわからない生活をしている。

 薬の話題もあれ以降上がらない。過ぎる日々の中で頭の片隅に追いやられていった。カオルと話す内容と言えば、料理のこととか、お勧めされた小説の話、深夜よく一緒に見る映画の話とか。いたって普通で平和な内容だ。

 だけどもう一つ、僕は大事な事を忘れていた。

「お金がない」

 僕が両手にエコバッグを抱えて近所のスーパーから帰宅すると、カオルは深刻な口調でそう言った。

「え?」

 冷蔵庫に食材を入れる手を止める。

「いや、そんな完全になくなったってわけじゃないけど、このままじゃ半年も持たない。家賃も食費もあるし」

 残金がいくらあるか、気にも留めなかった。決して贅沢していたわけではないけれど、とりたて節制したわけではない。

「ごめん」

 大量の食材を前に思わず謝罪の言葉が出た。

「別にマコトが悪いわけじゃないから……、食事は大切だしね。それに、そんなに切羽詰まっているわけじゃない。そろそろ言おうと思ってたんだ」カオルは人呼吸整えて言った。「働こう」

「働く……」

 そう、ただ生きているだけなんてことにはいかない。生きるのにはお金がかかるし、お金を稼ぐには働かねばならない。働くことは義務のうちの一つだ。そういやもう一つの義務である税金ってどうなっているのだろうか。

「払ってるよ」

 さすがカオルである。

「働くって言っても、何処で?」

「一つ考えてるのは、日雇いや、短期のバイトだね。履歴書不要の所も多いし。今は、微妙な状況だからあまり一か所に留まらない方が良いと思うし」

「そうだね」

 カオルに教わりながら携帯端末を操作し、日雇いサイトへの登録を行った。

「携帯ってこのために用意しておいたの?」

「まあ、いずれ働くときに必要だと思ったからね」

 改めて、カオルの周到さに驚く。きっと最初から、色んな事を視野に入れて、どんな状況にも対応できるように考えを巡らしていたんだろう。カオルに対しての尊敬の念が強くなると共に自分自身の情けなさに泣きたくなる。おんぶに抱っこでここまでやってきた。今カオルに放りだされたら、きっと生きてはいけないだろう。



 日雇いサイトに登録したその週の土日に、初めての仕事が決まった。ショッピングモールで行われるイベントのスタッフ。とある企業のキャンペーンのスタッフで、簡単な販売や商品の運搬、お客さんへの説明など、仕事内容な特別な技能などなくてもこなせる内容だった。 

 しかし、簡単な仕事といえ、そこに仕事のできる、できないは生まれてくる。

 カオルは機敏に動き、周りのスタッフともコミュニケーションを取って連携もいい。それに比べて僕は言われたことをこなすのに精いっぱいで周りのことなど見えていない。

 仕事が終わったとき、僕はもうへとへとだった。体力的にはそれほどの重労働ではない。だけど、精神的な気疲れが多い。

 カオルは同じ仕事をしていたスタッフと何やら楽しそうにおしゃべりをしている。僕はそれを遠くから眺めている。

 面倒事を避けるために仕事場では僕達の関係は秘密にしておこうということになった。だから、わざわざ時間をずらして仕事場に入ったし、仕事中は休憩時間でも一切話していない。

 そこまでする必要があるのだろうか、単にどんくさい僕と一緒にいられるのが嫌なだけではないかと、精神的に参っている今はそんな邪推もしてしまう。

 今まで、ずっとカオルと一緒に過ごしてきたけれど、今日一日はカオルとは他人の関係。一人になってみると僕はとてつもなく無力で孤独だった。業務連絡以外に他のスタッフと話すこともできない。休憩時間も一人で食事を済ませた。初めてだから、知り合いがいないから仕方がない。そう自分に言い聞かせても、同じ条件のカオルはすぐに周りとなじみ、仕事も人間関係も要領よくこなしている。

 自分が酷く出来そこないに感じた。

「はい、ごくろうさま」

「ありがとうございます」

 サインだけして給料の入った茶封筒をもらった。

 僕は一足早く仕事場を後にしてカオルの車が止まっている駐車場に向かった。

 数分後、カオルが現れた。

「お疲れ様」

「うん、お疲れ」

 互いに労いの言葉をかけ合い、車に乗り込んだ。

「どうだった、初めての労働は?」

「うん、なんだかすごく疲れた」

 帰路に着く中、社内で僕等は今日のことを話し合った。

「そう? 簡単な仕事じゃなかった?」

「そうだけど、それでも少し失敗もしちゃったし」

「私も少しはミスしたよ。初めてだしちょっとぐらいは仕方ないでしょ」

「うん……」

 それきり黙りこんだ僕をカオルはどう思っただろうか。きっと本当に疲れたと思ってそっとしておいてくれたのだろう。それもあるけど本当は違う。口を開けば、嫉妬にまみれた事を言いそうだったからだ。カオルは楽しそうにしていたとか、初対面の人ともうまくはなせていたとか。

 それから、仕事をするのはあまり気が乗らなかったけれど、カオルだけに働かせるわけにはいかない。

 カオルは精力的に次はこれをやってみよう、あれをしてみようと僕を誘ってきた。僕としては出来れば慣れた仕事がしたかったのだけれど。

 カオルの後に付いて色んな仕事を経験した。ベルトコンベアーに流れる商品をただじっと眺めているような退屈な仕事から、汗をふきだしながら一日中きぐるみの中に入っていたこともあった。

 暫くそんな生活が続いた。働いて、働いて、休みの日には疲れて何もしない日が多かったけれど。それでも料理は好きで毎日やっていた、最近はお菓子作りにははまっている。カオルに誘われて映画や美術館に行くこともあった。

 せわしない毎日は瞬く間に過ぎて言った。

 嫌々やっていた仕事も最近は少し楽しみではある。仕事は毎回違うけれど、メンバーは被ることがある。特に毎週の休日にやってるイベントの仕事なんかではメンバーの半分ぐらいは固定されている。

 僕は少しは周りに溶け込み始めた。

 きっかけは朝食に持っていった弁当だ。同年代の女の子が僕の弁当を見て褒めてくれたのだ。自分で作っていると言ったら褒められた。それから輪が広がって、料理やお菓子作り、甘いものが好きな子達と仲良くなった。自分で考えたメニューを教え合ったりもしている。

 カオルはカオルでいつも喋っているグループがある。聞き耳を立てると映画や小説の話をよくしているようだ。そのグループはカオル以外男子だった。僕とは逆だなと、それだけ思った。

 僕とカオルは、一応は恋人なのだけど、カオルの事は好きで尊敬できるけれど、性的な目でカオルを見たことはなかった。だからだろうか、カオルが他の違う男を好きになって、僕のことは捨てられるんじゃないかとか、そんな心配は浮かぶことはなかった。

 だから僕は無遠慮にこんな質問をしてしまった。

「カオルは誰か好きな人とかいないの?」

 カオルは呆れたような複雑な顔をした。

「一応、恋人同士でしょ?」

 そう言って僕と自分を指差した。

「うん、でも、その時の記憶はないし」

「嫌いな奴と一緒に住んだりしないよ。まあ確かに恋人というより運命共同体ってところかな」

「僕はカオルのこと好きだよ」

「うん、そっか」

 それは愛の告白なんかじゃなかった。きっとカオルもそれをわかっていたから優しく笑ってくれたんだろう。

 僕とカオルの間に流れる空気はどこか独特だ。これは想像でしかないのだけれど、長年連れ添った老夫婦に流れる空気、そんな感じだ。

 がちゃりと、リビングの扉が開き、視線を向けると上半身裸の坂田さんが立っていた。引き締まり、美しい筋肉に覆われた身体を見て僕は思わず目をそらした。 

 坂田さんは冷蔵庫から飲み物を取り出したとき、ようやく僕等の存在に気がついた。

「あっ」そしてすぐにリビングから出て、服を着て帰ってきた。「ごめん、いつもの癖で」

「いえ、別に気にしませんよ」

 カオルは本乙に気にしてないようにさらりと答える。

「いや、気を付けるよ」

 なぜだか、まともに坂田さんの顔をみることができなかった。



 何故、坂田さんの裸を見てどきりとしたとか、目をそらしてしまったとか、自分でもその理由が分からなかった。その違和感やもやもやはしばらく続き、次第に大きくなっていった。

 仕事なんかでも、女の子と一緒にいるより、男同士で仕事している方が何故か緊張したし、女の子ほどうまく話すことができなかった。

 それは、僕だけではなく、周りもどこか感じているようだった。

 それは仕事の休憩中、女の子グループと昼食を摂っているとき。

「マコト君って、本当に他の男子とはなんか違うよね」

 アヤカがそう言うと、僕以外の周りの女の子が一斉に頷いた。

 僕は少なからずショックを受けて思わず聞き返した。

「どんなところが?」

「うーん、料理とか、お菓子作りする男子なんて少ないし、それに料理するにしたって、マコト君のお弁当はいつも可愛いし」

「あと物腰が柔らかい。口調も乱暴じゃないし」

「話し方もちょっと、なよなよしてる。あ、別に悪い意味じゃないよ」

「もう雰囲気ね、雰囲気」

 次々と言葉を浴びせられて僕は混乱した。僕としてはいたって普通に喋ったり、普通に接してきたつもりだったのだけれど。でも普通ってなんだろう。

 改めて考えて、普通の男子像というものが想像できないことに気付いた。男子は、何を思い、何を考え行動しているのか。男ながらその情報が不足していた。

「あと話しやすいよね」

「うん、彼氏なんかいつも話してても退屈そうだもん」

「性欲もなさそう」

 誰かのその一言で一瞬、会話が止まった。さすがに男子がいる中で性欲の話しをするのは憚られたのだろう。だけどすぐに会話はテレビドラマの話題に移り、それから休憩が終わるまで姦しい声が止むことはなかった。

 その日、カオルは違う現場での仕事だった。少し遅くなると言っていたので家に帰っても一人だ。それは少し寂しいと思ったので寄り道することにした。本屋によって料理のレシピ本を購入し、喫茶店で読み耽った。

 特集で『男の子に受ける手作りお菓子』なんて記事のページがあった。糖分は控えめに、形はシンプルになどのアドバイスが書かれている。やはり、一般的に男子は可愛いものや甘いものは敬遠するものだろうか。

 そのとき思い出したのが昼食時のこと、男を否定する数々の言葉、『性欲もなさそう』その言葉がしつこく繰り返される。

 確かに性欲はあまりない。だから今まであまり意識してこなかった。僕はもう大人だ、性の知識も人並みにある。だけど何故だ、四六時中一緒にいるカオルを性的な目で見たことはない。それは、家族みたいなものだから、そう思ってきた。ではどうだ、仕事で一緒にいる女の子には? 同じく何も感じていない。じゃあ誰に、女の子よりむしろ――。

 もう文字なんて追える精神状況ではなかった。ぐるぐるとまとまらない思考が頭を巡る。何を考えているのか、何を考えたらいいのかも分からない。

 永遠の様で一瞬の時間。

 閉店時間になり、声をかけられるまで気づかなかった。

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