アンフィット
月見あお
第1話for get me a not
『僕は新藤マコト、私は赤羽カオル。
僕達は恋人同士だ。どうして記憶がないかって? 僕達は二人してとある薬を飲んだんだ。記憶をなくす薬だ。ハーフスーサイドなんて呼ばれてる薬。なぜそんな薬を飲んだか、それをここで説明してしまっては意味が無くならしないけど、だけど、そうする必要があったんだ。僕等は愛し合いたいのにそれができない。環境が、過去の記憶がそれを邪魔するんだ。だから記憶を消した。
今現在いる土地は、僕等が生まれ育った場所とはかけ離れた遠い場所。そこで一から始めたいと思う。二人とも、両親もいたし、仕事もあった、友人だっていた。だけど、それらを一切捨てて僕等は二人だけでここに来た。
最初は困惑するだろうが、どうか理解して欲しい。そして誤解しないでほしい。僕等は合意の上で事に及んだ。どちらかが、どちらかを脅したとか、弱みを握っているとか、そういったことは一切ない。
もし、信用できないならば一緒に添えた薬を飲めばいい。リバースという薬で、それを飲めば記憶が戻る。ただし、一週間以上は間を開けなければいけないから、それだけは勘弁して欲しい。
だけど、できることならお勧めはしない。僕等は確固たる決意のもと記憶を消したんだ。その僕等は、今この手紙を目にしている僕等なのだけど。記憶がないということは違う人間と同義ではないだろうか。ハーフスーサイドとはよく言ったものだね。そう、半分自殺するぐらい僕等は苦しい状況にあった。この記憶を持ったままではどうしようもなかったんだ。だから消し去った。
もしいつか、時がたって、生活が安定し、互いに信用し、自分自身を確かなものだと思うなら、リバースを飲むのもいいかもしれない。そして僕等を思い出して欲しい』
僕等はほぼ同時に目を覚ました。強烈な朝日のせいだ。
寝起きの回らない頭、ここが何処かもわからない。車の中だと言うことは分かる。僕は助手席に座っている。横の運転席には見知らぬ女性。互いに顔を合わせるも何も言葉が出てこない。
何故こんな状況なのか、彼女は誰なのか、そして、僕は誰なのかも何一つ思い出せない。
僕の右手と彼女の左手は硬く結ばれていた。気づいた彼女がすっと手を離し、その拍子に僕等に握られていた紙が零れ落ちた。安っぽい便せんに書かれていた内容が先の内容だ。
僕等の頼りはその紙だけだった。
貪るように続きを追った。
『一つ、安心して欲しいのは、僕等は何か犯罪を犯したわけじゃない。世間に対しては後ろめたいことは何もしていない。清廉潔白そのものだ。
ただ、それらを保証するものは何もない。信じてもらうしかない。
最後に、この車は僕等の所有物だから安心して欲しい。後部座席には生活に必要なものを詰め込んだつもりだ。ただ、これからの仕事も住処も決まっていない。この場所は僕等が適当に走って決めた場所だ。特に理由はない。強いて言えば、海に沈む夕日がきれいだったから。だから、このあたりでいいかなって思ったんだ。未来の僕等にも、その夕日を見てほしくて、ちょうど近くに旅館があったから、電話で三日間の宿泊を予約しておいた。今、車が泊っているのはその、勿忘草という旅館の駐車場だ。その間に気持ちの整理をするなり、アパートを探すなりして欲しい。どこか違う土地に行きたいならそうしてもいい。しばらく暮らせるだけの現金はあるはずだ。
じゃあ、良い未来、いや、普通の未来を』
無情にも言葉は文字はそこで終わり、紙を裏返して見ても続きはない。
僕等は顔を見合わせ、互いに怪訝な表情を浮かべる。誰か説明してくれ、互いにそう思ったことだろう。この紙に書いてあることが本当ならば、僕だけでなく目の前の彼女も恩時状況で記憶がないということになる。
「赤羽カオルさん?」
黙っていても状況は完全しないと僕は口を開いた。
「さあ……、そっちは新藤マコト?」
整った顔立ちから予想するにもう少し女性らしい声音を予想していたが、その声は低く宝塚の男役のようだった。
新藤マコト、それが僕の名前だろうか、聴き覚えは全くない。同じく、恋人だという赤羽カオル、その名雨もさっぱりだ。彼女がそうなのかもさっぱりわからない。
「記憶は?」
「ない。そっちは?」
「ない。本当に?」
「ない」
同じタイミングで溜め息をついた。相性はいいのかもしれない。
僕が放心しているなか、彼女はいち早く行動を開始した。何か手掛かりがないかとダッシュボードを漁ったり、サンバイザーを開いたり、座席の下に何かないかと覗きこんでいる。続いて運転席を降りては後部座席に乗り込み大量に積んである荷物を見聞する。
助手席からそっと覗きこむと、衣服から電子レンジやドライヤーなどの家電まで、特に梱包もされず無造作に詰め込まれている。
何か手伝おうかな、そう思って助手席を降りると、同時に彼女も車から降りてきた。
「何か分かった?」
「いや」彼女はそっけなく答える。「取りあえず、手紙にあった勿忘草とかう旅館に行ってみようか、店員が何か知ってるかも」
慌てた様子もなく、冷静な彼女の様子に、実は記憶がないのは僕だけではないかと疑いたくなる。もちろん、そんな疑念は表には出さず彼女の案に従った。
「うん、行ってみようか」
車の中にはトートバッグとショルダーバッグがあった。彼女はショルダーバッグを肩にかけ、僕の方にトートを手渡した。
「財布と通帳だけ、あとは何も入ってなかった」
中身を見ると彼女の言うとおりだった。新藤マコト名義の通帳にはそれなりの額がまだ残っている。財布の中身は現金が少しだけ、ポイントカードの類は一切入っていない。
彼女が横から僕の財布と通帳の中身を覗きこんできた。
「一緒ぐらいか」
そういって彼女は自分のものをこちらに見せた。若干こちらの方が多いものの、通帳の額も財布の中身もほぼ一緒だった。
他にも、車の中にはポリ袋に詰め込まれた着替えがあった。下着や夏もの、冬物、十把一絡げに詰め込まれている。
僕等はそこからいくつか選んで自分のバッグにつめかえた。僕はこそこそと隠れながらやっているのに対し、彼女は僕の目など気にしていなく、下着でも堂々と詰め込んでいく。
「さて、行こうか」
彼女は勇ましく先頭に立って歩き出した。僕は従者のように後に続いた。
駐車場では海は見えなかったが外に出てすぐに海が近くにあると分かった。潮の香りがしたし、波の音も聴こえた。だからとても静かな町だ。
海岸沿いに出ると潮の香り、波の音が強くなった。
防波堤には釣りをしている男性が二人、早朝ということもあるだろうが、それ以外には人の気配はない。
「あれじゃないかな」
そう言って僕が指差した先には、勿忘草と書かれた青い立て看板があった。
「みたいだね」
がらがらと、音のなる引き戸を開けて中へと張った。
その音を聞きつけてか、奥から作務衣を着た若い従業員が駆けてきた。
「いらっしゃいませ」
はちきれんばかりの笑顔を見せて深々と頭を下げたその従業員の胸元にはカヤと書かれた名札が付けられていた。
「予約って、されてますか?」
「あ、あはい。昨日、お電話での予約の方ですね。こちらで受付をお願いします」
僕等はソファーに座り、待つこと数分、カヤさんが再び現れた。手には大きなタブレット端末を携えている。木造建築で和テイストのこの旅館にはどこか不似合いだ。
「お待たせしました」
カヤさんはタブレットを操作しながら説明を監視する。果たしてタブレットが必要なのかと思うぐらい簡潔な内容だった。
宿泊プランは素泊まりか、一日二食付きか。まず基本料金が安く食事が着いてもほとんど変わらないことから、僕等は食事付きを選択した。
「それでは、こちらお願いします」
タブレットの画面が変わり、生体認証の画面になった。今では何処へ行ってもこれだ。へたするとコンビニで買い物するときですら認証を求められることがある。酒や煙草以外でもだ。ただ犯罪防止に繋がっていることは確かだし、身分の提示も楽になった。
僕等はそれぞれタブレットをなぞった。
「新藤様、赤羽様、当旅館のご利用ありがとうございます。お部屋へご案内します」
通された部屋は二人用にしては広く、その倍の人数は優に泊れるほどの広さだった。窓からは海が一望できる。純粋にただ美しいと感じて、現在の難解な状況を一瞬は忘れられた。
「カーテン、閉めて」
美しい景色に折角浸っていたと言うのに、そんな冷たい声を後ろから浴びせられた。振り向くと彼女、赤羽カオルは押入れから布団の引っ張りだし、今にも眠りますと言った様子だ。
「また、寝るの?」
「長時間運転していた、かどうかは分かんないけど、身体がすごくだるくて。それに、車の中で座ったままでなんて、ちゃんと眠れてたとは言わないでしょ。君は眠くないの?」
そう言われて初めて自分の状態を意識した。言われてみれば身体は相変わらずガチガチで筋肉痛のような鈍い痛みがあちこちにあるし、頭はあまり働いていないように思う。
「じゃあ、僕も寝ようかな」
気を使って彼女の布団から少し話した場所に布団を敷いたのだが、彼女の方は僕の布団の場所など気にする様子もなく、そうそうに寝息を立て始めた。
記憶を失くしていたとしたら、僕は見ず知らずの男性のはずなのに、そんな男のいる場所で熟睡できるものなのだろうか。それとも僕達が恋人同士ということを信じ切っているのだろうか。僕としても、見知らぬ女性と同じ部屋で寝るのには抵抗がある。しかし、横になると急激に眠気に襲われ、ほどなくして意識を失った。
目を覚ますと部屋はオレンジ色の柔らかな光に包まれていた。
彼女、カオルは既に目覚めており、私服から青い備え付けの青い浴衣に着替えていた。窓枠に片足を乗っけて腰かけており、もう片方の足は浴衣がはだけ大腿部から丸見えになっている。だけしその姿には性的いやらしさはなく、絵画のような神聖さがあった。
「おはよう」
目覚めた僕を認めた彼女は無表情なままでそう言った。
「今、何時?」
「もう夕方の六時、さすがに寝すぎじゃない?」
その通りだ。寝すぎたとき特有の頭の重さを感じた。眠りに入った時刻は覚えていないがまだ、朝で、それなりに早かったはずだ。それほど疲れていたのだろうか。疲れが取れた感覚はなく、寝すぎで逆に身体が鈍い。
「少し、話をしようか」
カオルは顔だけをこちらに向けてそう切り出した。僕は起き上がり、布団の上で思わず居住まいを正した。
「うん」
何も緊張することなどないのに、何故か唾を飲んでしまう。カオルの、切れ長の鋭い瞳にはそうさせる威圧感があった。
「君の名前は、新藤マコトで、私が赤羽カオル、ということだけど、それに間違いはない? といっても、君の記憶もないんだっけ、あの手紙の通りなら」
「そう、僕にも記憶がない。だからあの手紙の中身が全て真実かんてわからない」
「本当に?」
細めた眼でカオルは問いかける。その視線の前では嘘を付けと言う方が無理だ。よほどのメンタルを持っていないと口い出した瞬間にばれてしまうだろう。
「嘘なんて付かないよ。そっちこそ本当だね?」
「もし、私が君を騙しているとしたら、君が眠っている間に車で逃走してるよ。まあいいや、疑い出したらきりがないし、取りあえず互いに探り合うのはやめにしよう」
「そうだね。でも名前は少なくとも名字は合ってるんじゃないかな、受付でそう呼ばれてたし」
「確かに。しかし偽名を使った所ですぐにばれる。少しでも嘘があれば全て疑わしく見えるものだ。だから名前は本名を書いたんじゃないかな、昨日の私達は」
皮肉を込めた彼女の言葉。その言葉には別に怒りは孕んではいなかったが、あの手紙を完全に信用している訳じゃないことは分かった。
「あの手紙をどれぐらい信用している?」
「犯罪をしていないことは確かだろう。そうでないとID認証の時点で……、ああそうか、発覚していないならまだなんとも――」
尻すぼみして小さくなった言葉はカオルの独り言へと変わった。ああでもない、こうでもないと、しばしの間自分の世界へと入っていた。
一旦会話が中断されたので僕は布団を押し入れにしまった。寝汗を少しかいて気持ち悪かったので僕も浴衣に着替えた。
「はい」
僕はお茶を入れてテーブルに置いた。
「ああ、ありがと」
カオルは窓枠からおりて座布団の上に腰を下ろした。僕等はテーブルを挟んで向かい合う形となった。
お茶を飲み干したカオルは僕をじろじろと無遠慮に眺めた。腕を組む、首をかたげてはあらゆる角度から値踏みするような視線だった。
「なに?」
居たたまれなくなった僕は語気を強くした。
「いや、恋人同士だったのなら、何処を好きになったのかなあと」
手紙に書いてあったことだ。僕等は恋人同士で深く、深く愛し合っていたらしい。残念ながら記憶と共にその感情も消え去ってしまった。いや、忘れているだけだろうか。
僕も思わずカオルの容姿を再確認してしまう。身長は僕よりは低いが女性にしては高く百七十近くはあるだろう。セミロングの髪はさらさらで今は後ろに一つでまとめている。美人と言っていい類の顔立ち、切れ長の目からはクールな印象を抱かせる。その見てくれだけでも彼女を好きになる要因はいくつもあった。
対する僕はどうだろう。思わず自分の顔をぺたぺたと触る。それだけでは大した情報は得られないが、肌はきれいで、まつ毛が長いことは分かった。
「何か、わかった?」
僕はようやくカオルの視線から解放された。
「いや、さっぱり。記憶がないってことは初対面ってことと一緒でしょ? 今の段階でも好きなる要因も嫌いになる原因も特にないね。一目ぼれなんて、実際そうあるわけじゃないし、せめて慣れ染めぐらい書いて欲しかったね」
「うん、そうだね」
確かに、いくらカオルが美人だといったところで、イコールそれが好きとは限らない。おそらく僕が今、彼女にい抱いている思いは、彼女が僕に抱いている思いと一緒ぐらいだろう。
「これから、どうしようか」
明後日の方向を向きながらカオルは呟いた。僕に向けての言葉か、それとも自分自身にいったものかは判断ができなかった。
「リバースって薬、飲んでみる?」
僕等は同封されていたその薬を、いまは それぞれの財布に忍ばせている。
「一週間、空けろって書いてあったでしょ? さすがにへんな後遺症とかは勘弁」
「あ、そっか」
僕はすっかりそのことを失念していた。
「取りあえず一週間、過ごしてみようよ。そのリバースって薬のことはその時また話し合おう。くれぐれも一人で飲まないように」
「わかった」
今はきっと、こうすることしかできないのだろう。何もわからない不安定な未来、だけど、僕はあまり不安というものを感じていなかった。口に出したらカオルは起こるだろうか。むしろ楽しみですらあったんだ、これからの事が。
一見するにカオルもそれほどの焦りはないように見える。それとも、焦ったところで仕方ないという冷静な判断のもとだろうか。
「お腹すいた」
カオルがふと呟いた。
そう言えば、朝から、今日一日、何も食べていない。空腹も当然だ。
「確かお茶菓子が……」
お茶を入れた時にまんじゅうか何かがあったはずだ。
僕がとってくると、すぐにカオルは奪い去った。僕の分と二つあったのに、全て持って行ってしまった。
カオルが一つ目の茶菓子を平らげたところで部屋がノックされた。
「はーい」
よく通る声でカオルが答えた。
「失礼します」そう言って顔を見せたのはカヤさんだった。「夕食の準備が出来上がりましたので、よかったらどうぞ」
タイミング良く――カオルにとっては悪いだろうか、夕食の声がかかって助かった。カオルはちょうど一つ目のお茶菓子を食べ終わったところだった。
僕等は二階の部屋からそのままカヤさんに続いて食堂まで降りて行った。
運ばれてきた夕食は海鮮を中心とした豪華なものだった。空腹だった僕はほとんど箸を休めることなく料理を平らげた。カオルも小さな茶菓子では満たされなかったのだろう、すごい勢いで料理は胃へ吸い込まれていき、僕より早く食べ終わっていたほどだ。
胃袋を満たした僕等は満足して部屋へと引き上げた。
「満足」
カオルはそう言い放って座イスに背を預けてテレビを付けた。手持無沙汰な僕も少し離れた横に座布団を配置して座りこんだ。
テレビ番組がCMに入るととある怪獣映画のCMが流れた。多くの日本人が知ってる、一番有名な怪獣だろう。確かハリウッドでも映画化されていた。
「リセット願望」
ふと思いついた言葉が口をついた。
「うん?」
カオルが振り返って僕を見た。
「この怪獣映画、何度もリメイクされてて日本人は大好きだよね。それは日本人にはリセット願望があって、あの怪獣は全てを壊してリセットしてくれる、そんな象徴なんだって。そんな話を聞いたきがする」
「ふうん、私達はそのリセット願望に突き動かされて、自分自身をリセットしたってわけか」
テレビでは酷く破壊された都市が映し出された。
「壊すしかないのかな」
「壊すしか、殺すしかない。そんなときもあるんじゃない? 柱が腐っていたらいくらリフォームしたって無駄じゃない。犯罪者は逮捕されても大抵繰り返すものだし」
身も蓋もない彼女の言葉に賛同も否定もできずに僕は黙り込んだ。
それから、どちらともなく、話しを振っては短いやり取りをした。会話とよべるかぎこちないものを繰り返すうちに夜は更けて行った。
日付が変わって少したったころ、
「そろそろ寝ようか」
とカオルは言った。
「そうだね」
布団の場所をどうしようか、なんてもう考えたくないので僕はいち早く布団を敷いた。カオルは一メートルほど離して――それでも十分近いが、布団を敷いた。きっと僕の事を信用しているとか、そういう事ではないと思う。それも当たり前だ、僕等はまだ出会って一日なのだから。ただ、害はない、その程度の判断だろう。
「電気、消すよ?」
「うん」
カオルは豆電球も残さず全ての明りを落とした。
あれほど寝たにもかかわらず、僕はすぐに眠りに落ちた。
翌日、僕等は車に乗り込み市街地へと出かけた。目的地は不動産屋だ。
ホテルや旅館に泊り続けるのもいい。だけどこの先、僕等の逃避行がどれだけ長引くものかわからない。記憶を取り戻したとしても、帰る場所があるとは限らない。資金も無限にあるわけじゃない。それなら安いアパートでも借りようということになった。
しかしアパート探しは難航した。保証人なしの賃貸はどの不動産屋でもなかなか扱っていなかった。たまに見つかっても、物件の割に家賃がやけに高かったり、初期費用がかなりかかる物件ばかりだった。
僕等は休憩がてらネットカフェへと入った。
個別に部屋を借りるより、ペアシート席が安かったのでそちらにした。
僕がカオルの分のドリンクを用意していて部屋に戻ると、カオルはすごい勢いでキーボードを打ちこみ、滑らかな動きでマウスを操作していた。不動産を探しているのは分かったがウィンドウが現れては消え、表れては消え、捜査が速すぎて追いつけなかった。
僕は何も口出しできないのでおとなしく横でドリンクを飲んだり、ソフトクリ―ムを作って食べたりしていた。
小一時間経過し、僕はとうとう漫画を読み始めていた。休みなく作業を続けていたカオルは急に立ち上がり、部屋を出て行った。しかし、すぐに戻ってきて、その手には数枚の紙が握られていた。何かをプリントアウトしてきたらしい。
「よし、いくよ」
カオルの号令で僕は立ちあがった。
ネットカフェを出て次に向かったのは電気屋だ。家も決まってないのに、もう洗濯機や冷蔵庫を探すのだろうか、なんて聞いたら「違う」と一蹴された。
カオルは何かを探し求め早足で出来矢を駆けて行ったので、取り残された僕は辺りをぶらぶらした。パソコン、カメラ、テレビ、通り過ぎてく家電達にはあまり食指は動かない。テレビなんてプラズマと液晶の違いもわからないし、一眼レフ、ミラーレスなんて呼ばれているカメラはただの大きい塊にしか見えない。横にある一万円以下で買えるこの小さいものと何が違うのだろう。
今の感情は微かに記憶がある、モデルチェンジや新製品、毎年のように出るそれらの家電達を冷めた目で見ていたような、そんな感覚。
「いたいた」
そう言いながら急に肩を叩かれ、僕は恥ずかしくもびくりと震えあがった。振り返ると悪びれる様子もない、きょとんとした表情のカオルがいた。何を買ったのかナイロン袋が握られている。
「何買ったの?」
「プリペイド」
目的はそれだけだったそうでカオルはそうそうに出口へと歩いた。
「何それ?」
「電話、携帯電話。ないと不便でしょ」
普通の携帯電話と何が違ういのだろうか、プリペイド、そう言えば海外映画なんかでたまに聴く単語だ。見た映画の事は覚えているのに、自分自身や親、友人の記憶はないなんて、変な話だ。
「携帯ってそんな簡単に作れるんだ」
「プリペイドだから、それほど面倒な契約はないよ。……定額のやつだから必要な時以外使わないでよ」
いまひとつ理解していないことを悟られたのだろう。
車の中でそのプリペイド携帯をすぐに開封し、使いかたを教えてもらった。といっても使い方は普通の携帯端末とほぼ一緒で、さすがにそれぐらいは知っていた。
説明を終えるとカオルはすぐまた車を発車させた。次はどこに行くのだろう、なんて考えている間にも車派左折しファストフード店に入った。
「何か適当に買ってきて」
「うん、わかった」
そんなに急ぐこともないから店に入ればいいのにな、なんて思いながらも素直に従った。今日一日ずっとこんな感じだ。カオルに付き従い後に付いていくだけ。別に仕切りたいなんて想いはないし、むしろ次々と先導してくれて頼もしいと感じている。
さてさて、彼女は何が好きなのだろう。ビーフ、ポーク、魚かな。そしてポテトにナゲット、取りあえず何でも買っていこう。
テイクアウトしてそれらを持っていくと、カオルは明らかにげんなりした表情をした。
「どんだけぇ……」
「え?」
「どれだけ買ってくんのよ!」
紙袋の中を物色しながらカオルは叫んだ。
「何がいいかわかんなくて……」
「バーガーが五つにナゲットにポテトL、アップルパイのような甘いものも欠かさずに……。ドリンクはLが二つ、まあそこは許されるとしても、どうして二つとも炭酸! 別にいいけど、そんな一気に飲みきれないって、どうせ最後の三分の一はほとんど炭酸が抜けてるんだよ。炭酸の抜けた炭酸飲料ほど憎いものはない!」
カオルは一気にまくしたて、息を切らし、炭酸を飲んではむせた。
「ごめん……」
「まあ、いいやありがとう」
一瞬の激昂、カオルはすぐいつものクールに戻った。そいて紙袋の中か無造作に一つのバーガーを何かも確かめずに選んで頬張り始めた。
「折角、色々と選んだのに」
「味なんてどれも一緒でしょこんなもん」
食には無頓着、その一言でカオルのプロフィールに新しく付け加えられた属性。
カオルの言った通りに、二人のお腹が満腹になってもまだ紙袋の中身は残っていた。計画性がない、カオルの中の、僕のプロフィールにはそう追加されたに違いない。
カオルはネットカフェでプリントアウトした紙、そこに書かれている電話番号に次々と連絡していた。
大人びた口調で淀むことなく話している。僕ならこうはいかないだろう。あんな風に淀むことなく、つまらずに話す自信はない。年齢は一緒ぐらいのはずなのに、こうも違いを見せられては、自分が酷く幼く感じる。
会話の内容は不動産関係だ。それだけはわかった。カオルは電話を切ってはその番号に斜線を引き、すぐさま次の番号にとりかかる。手際良く行われるその作業は僕が口を挟む間を与えない。どっちにしろ、僕が助言できることなど、少ないだろうが。
せめてもの職務として、残った食料を食べようとするが、炭酸で余計に膨れた僕の胃袋はそれを否定する。だから、ただ待つしかないのだ。
そうして、思考を停止した僕の脳は、もう休んでいいんでしょ、とでもいいたげに眠気をまき散らして僕の意識を奪った。
浅い眠りの中、僕は夢を見た、様な気がする。
「起きろ」
カオルの声に起こされたときにはもう辺りは暗くなっていて、僕は涙を流していた。それを見たカオルはぎょっとして目をそらした。きっと見ないふりをしてくれたつもりだろうけど、あからさますぎる。
夢を見た、けど思い出せない。ただ覚えているのは悲しみの感情。この涙がその証拠だろう。意識が覚醒してもなお、その悲しみは付きまとう、泣こうと思えば無尽蔵に涙があふれてきそうだ。一人のときならいざ知らず、カオルの前でそんな醜態はさらせない。何事もなかったかのような口調で僕は言った。
「ごめん、寝てた」
「ああ、寝床が決まったよ。保証人も要らない、家賃も常識の範囲内」
カオルは気を使ってかまだ僕の方を見ない。
「よかった。何から何まで、ありがとう」
「ただ、その場所はシェアハウスだから」
「へえ、あの映画化もされた有名なテレビドラマの?」
「そう。それを見たことはないけど」
今日の予定は終了し、僕等は勿忘草へと帰った。
昨日に動き回ったせいで、カオルは朝食の時間になっても起きなかった。しかたなく僕は独りで朝食を摂ることになった。
僕が食べ終わったころ、二人の男性が、食堂に入ってきた。僕達以外、他の宿泊客はいないと思いこんでいた。一人は高齢の老人、立派なひげを蓄えている。もう一人はまだ若い青年、それでも僕よりは年上だろうか。二人は仲良く隣に座り黙々と朝食を摂り始めた。二人の間に会話はなくとも、その間には、そこはかとなく親密さが滲み見えた。
部屋ではまだカオルが布団を被っていたので僕はなんとなく外へ出た。
海岸線を歩く。
見える海にはごみ一つ浮いておらず、代わりに光の反射がきらきらと目を刺す。
「あ」
防波堤に見覚えのある男性が座っていた。つい先ほど旅館の食堂で老人と一緒に朝食を摂っていた男性だ。何をしているのだろうと横目に見ると大きな紙、スケッチブックに一心不乱で何やら描いている。後ろから覗くと、それはここから見える風景だった。精緻に描かれたその線に思わずため息が漏れた。
僕はしばらくの間、少し離れて彼の横顔を見つめていた。何かに打ち込む真剣なその横顔に魅了されたのだ。
気配に気づいたのか、彼が振り返ってこちらを見たので僕は思わず目をそらしてその場を去った。逃げる必要なんてなかったのに咄嗟の行動だった。
それにしても平日の昼間なのに、一体何をしている人なのだろうか。
歩き回っていると空腹を覚えた。携帯を確認したらとうに正午はすぎていた。何処か食事のできる所はないかと、さらに歩き回ったが民家ばかりで、たまに店がみつかっても乾物屋とか、佃煮屋とか、腹には入るがそれだけでは食べづらいものばかりだった。
仕方ないのでカオル車を出してもらおうと、歩みを旅館に向けた。
「……」
旅館に帰る途中、何気なく駐車場によったら車がない。急いで旅館の部屋へと戻るとカオルの荷物はまだあった。いつかカオルが言った上段のせいで置いて行かれたのかと少し焦った。
電話をしようかとも思ったが、つい昨日言われた無駄に使うなとの言葉が耳に残り、その使用を躊躇わせた。カオルが何処に行ったのか分からないが、もう僕には大人しく部屋で待つしかなかった。
「早く返ってこないかな」
空腹を我慢しながら、テレビを眺め、ひたすら時が過ぎるのを待った。横になってみたが、空腹のせいで眠気はない。
窓の外は青々とした空が広がり、こんなに晴れてやってるのにお前は部屋でごろごろと何をやっているんだと、そんな風に責められている気がしたのでカーテンを閉めた。
その青がオレンジに代わるほどに時間がたった。
階段を登る音、廊下を踏む音が部屋の前で止まり、僕は飛び起きた。
「ただいま」
そして主人の帰りを待ちわびる子犬のようにカオルを出迎えた。
「お帰り、どこ行ってたの?」
「部屋の下見、起きたらいないから一人でいったよ」
「ごめん」
謝りながらカオルを下から上まで眺める。何度見ても彼女は手ぶらで食料などは持ち合わせていそうになかった。今帰ったばかりのカオルにもう一度運転を頼み何か食べに行こう、などと言えるわけもなく、夕食まで我慢するしかなかった。
「明日入居だから準備、っていってもないか、そんなに」
「明日? 急だね」
僕がそう言うとカオルは明らかに呆れた顔をした。
「明日でもう三日、ここを出るの」
「ああ、もう……」
そうだ、三日しかこの場所にいられない。そう予約したのは以前の僕等なのだから、忘れていても仕方ないことだろう。別にずっと……、は無理だろうけど、もう少しゆっくりしてもいいと僕は思う。幸いなことに――旅館にとってはそうでもないだろうが、泊っているのは僕等だけだ。お金に余裕もあることだし、もう二、三日ゆっくりと、なんて考えはきっとカオルは嫌いなんだろうな。無駄なくテキパキと効率よく。できることなら僕もそんな生き方ができたらいいと思った。
念願の夕食を摂り、お風呂に入った後は夜更かしせずにすぐに床についた。また、明日から新しい生活が始まる。だから規則正しく、早起きして気を引き締めるのだ。
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