6-02『それは舞台の裏側で』1
文化祭三日目、最終日。
目が覚めた瞬間、俺はこめかみの鈍い痛いでかぶりを振った。
「……叶は」
いない、か……。確認しなくても気配でわかった。
結局、昨夜のうちに叶が帰ってくることはなかった。そして今度ばかりは、俺が探しに行くこともできない。朝になっても、この部屋にひとりでいる違和感は酩酊に似ていた。
あいつは、どこに泊まったのだろうか。
いくら叶でも、まさか野宿なんて馬鹿げたことはしていないと思いたいが、もう俺には何も判断がつかなかった。
いったい俺があいつの何を知っているというのだろう。
だからといってやれることもない。
俺に残された解が、何もしないこと以外にないのは自明だろう。
それが正解だろうが誤解だろうが関係ない。
そのどちらかもわからない。
気分は最低。吐き気すらする。
そしてその事実がさらに思考をドツボに嵌めていった。
悪いのは俺なのに。
自分が負の感情を抱いているという、そのことが不義理に思えてならない。
なんの権利があって落ち込んでいるというのだろう。そんなものが自分に許されている気がしなかった。
だが、だからって簡単に元気になれるはずもない。完全な悪循環だ。
「くそ、……食欲すらねえ。もう行くか」
そろそろ出ないと遅刻もあり得る時間だ。それだけ長く眠っていたということだろう。
だっていうのに、まるで疲れの取れた気がしない。
いや、実際に俺はほとんど眠れなかったのだ。眠ろうとしては目が覚めて、目が覚めるたびに考えて、考えたことに嫌気が差して、また眠ろうとしてすぐ起きる。夜通し無様を繰り返した挙句、まともに目が閉じる頃にはほとんど朝になっていた。
音のない部屋を切るように、俺は風呂場へと向かった。
服をほとんど捨てるみたいに脱ぎ散らかして、頭からシャワーを被る。
冷水が痛く肌を刺した。温度が徐々に上がっていくことすら待てなかった。冷たさに体が震えた。
――気づかなかった。
気づけなかった。本当に、ただの一度だって――想像すら俺はしなかった。
「……かなえ、が……俺を」
友利叶が、我喜屋未那のことを、好きだなんて。
それは俺にとって、まるで空が落ちてきたみたいな衝撃だった。
――絶対に。
あいつだけは俺にとって、そういう相手ではないのだと思い込んでしまっていた。
でも。でも違った。そんなことはなかった。
あいつは俺を好きだと言ってくれた。言わせてしまった。俺の態度が、あいつにそれを裏切りだと捉えさせたのだ。叶がそうやって苦悩していると、なんにも知らずに、俺は。
友達で――いようと、言った。
一生。どんなことがあっても離れないように。あいつの隣に俺がいようと。俺の隣にはあいつがいるのだと。
そんな、保証のない、ただ美しいだけの、嘘みたいな――約束。
わかっていた。
俺も叶も、そんな綺麗なだけの関係がこの世にはないと知っていた。
それが主役理論の出発点だったし、
それが脇役哲学の到達点だった。
俺たちは同じ道をすれ違っていた。
だから。それでも。
――どうなってもいいと思ったから、俺たちはお互いを選んだはずだった。
信用とか、信頼とか、そんな単純な言葉じゃないはずだった。
きっとそこには、ほかの誰とも――たとえさなかや秋良とだって手にすることのできないものがあるはずで、その奇跡の存在を、俺たちは初めから信じちゃいなくって、だけどそれでも。
叶となら。
いつか失うに違いない輝きへ、手を伸ばしてもいいと思ったのだ。
きっと叶は、俺の裏切りを責めなかった。俺もまたそうであるように――同じように。
いつかどこかで、別れは来るだろう。
終わらない永遠がないことは、誰だって知っている前提だから。
それでもいい。それでも、お前が相手なら気にはしない。
それでもいい。それでも、お前が相手なら手を伸ばそう。
たぶん、それでも、いつかの終わりに、仕方ないなと笑えたはずで。
もしも終わらず、最後まで――続けられたらそれこそ奇跡で。
そこには間違いなんてなかったのに。
願ったことそのものが間違いだったなんて、そんな陥穽はあまりに酷い。
ただの別れなら耐えられた。諍いがあれば諦めた。奇跡の価値は遠かった。
だとしても。
――叶とそれを願えたことだけは。
いつか、どこかの公園で、そんな日があったことだけは後悔しないと。
そういうふうに、思っていた。
とんだ茶番だ。その出発点から間違っていた。俺たちは互いを裏切らず、その想いこそそもそもの失態だった。
逆の立場なら俺だって思う。自分を殺してやりたいとすら。
何もできない。
俺は叶の気持ちには応えられない。
もはや俺がどう考えているなどという些末とは一切の関係がなしに。
だって、それは裏切りだ。
あれほどまでに――決壊して、涙とともに壊れてしまう想いさえ飲み込んでいた彼女に対して、どうしてそんな真似ができる?
何を間違ったのだろう。
俺は叶が――そうだ。俺はあいつが好きだ。そんなことわかってる。人間として、友人として、俺は友利叶のことが心の底から大好きだ。そりゃそうだ。当たり前の話だろう。
だけど、だったら――だとしたら俺はどうすればよかったっていうんだ。
あいつを傷つけた。そんなことはしたくなかったのに。あんなにも悲しい言葉を、なぜ俺があいつに吐かせているんだ。
視界がぼやけているのは、頭から被った水のせいだろうか。
わからない。俺はあいつを想っているし、あいつも俺を想ってくれた。
――その感情が、何より取り返しのつかない過ちであるのなら。
「俺たちは……初めから、出会うべきですらなかったってのかよ……なあ、神様……」
そう、結論せざるを得ないだろう。
この答えが、出会った時点で決まっていた展開だというのなら。
俺たちは、出会った時点で間違いだった。
とんだロミオとジュリエットだ。あまりに救いがなさすぎる。皮肉の笑みすら口許から零れ、そこで俺は、もう考えることを放棄した。
下らない。あまりにも。
安い自虐で心を慰めている、そんな愚昧を自覚した。
浴室を出て着替える。ぼうっとしていると本当に遅刻してしまいそうだ。
食事なら学校で食べればいいだろう。せっかくの文化祭なのだから。
俺は、なんだか義務感に近い気持ちで登校の準備をする。
玄関の呼び鈴が鳴ったのはそのときで、俺は思わず目を細めた。
叶ってことはないだろう。自宅の呼び鈴を押す理由はない。この時間となると、学校の友人というのもあまり想像しにくいが、瑠璃さん辺りだろうか……。
確認も億劫で扉を開けた。
湯森さなかが立っていた。
「……遅刻じゃない?」
少し考えて、そう訊ねた俺にさなかは笑って。
「それは未那でしょ? わたしはもう、学校行って荷物とか置いてきてるし」
「てことは……迎えにきてくれたってことか。ありがと」
「お礼を言われることかなあ……うーん、どう言おう。まあ、いっか」
そんなふうに少しだけ逡巡して。
それからさなかはこう続けた。
「未那、部屋にひとりじゃ寂しがるかなと思って。彼女の顔を見せに来てあげたのさ!」
それを聞いた自分がどんな表情をしたのか、自分でもさっぱりわからなかった。
もちろん気の利いた言葉どころか、間の抜けた反応すら一切できない。
「酷い女っしょ」
けれどそんな俺を見て、さなかはそんなことを言って笑う。
俺はもう面食らってリアクションができない。
「言ったからね。今日は一日、未那の時間を貰うんだって。だから朝から予約の行使!」
「……なる、ほど?」
「うん。だからいっしょに学校も行こ? 今日は楽しい文化祭だよ! なんてったって、今日のわたしはめんどくさいぜー?」
「面倒臭いって……何も自分で言わなくても」
「いやいや。ちゃんと宣言しておかなくちゃですよ」
さなかは笑う。
彼女は、いつも笑ってくれる。
その顔を俺は知っている。
「今日はね。わがままと、いじわるを――未那に言うから」
それこそが、俺が好きになった、素敵な女の子の笑顔だから。
「たくさん。なんでも。話すから。――だから、覚悟しといてよ!」
「うん。……行こう、さなか。今日はきちんとエスコートするから」
きっと俺も、笑顔を返せたと思うのだ。
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