2-03『おでん屋台と弟君3』

 長い、話のあとだった。十分ちょっとといったところだろうか。


「――なるほど」


 と、望くんが小さく呟いて言う。俺は正座をしていた。

 時間としては短くても、その間を針の筵の上で過ごすとなれば話は別。相対性理論でもそんなようなことを言っていた気がする。体感、一時間くらいかかった気がした。


「お話はわかりました」

「あ、はい」


 短くそう言った望くんに、反射でそう答える俺。なんかもう雰囲気で負けている。

 彼はその上で続けた。


「つまりお兄さん――我喜屋先輩は、付き合っているわけでもないのに姉と同棲しているということですね?」

「…………」


 望くんは、こちらも正座で俺を見据える。俺の星座はうお座だった(現実逃避)。

 そして、そのまま望くんは俯きがちに視線を落とすと黙り込んでしまった。


 別に悪いことなんて何もしていないのだけれど。

 というか、ここまでの話を俺は『悪いことなど何もしていない』という言い訳に費やしたわけで。そうなると、喋る内容自体が弁解であるため妙に居心地が悪いのだ。

 おかしいな、ここ俺の部屋だった気がするのに。


 あるいは望くん――友利の弟君の纏う威圧感が妙に大きかったせいもある。

 特段、怒っている様子ではない。彼は終始落ち着いて静かな様子だし、話し方も丁寧な子だ。ご両親の薫陶をきちんと受けていると思われる。叶の弟とは思えないほどだ。

 いや、妹に見えるという意味ではなくて。

 確かにだいぶ女の子っぽいけれど、それ以前、単純にあまり似ていなかった。黒の短髪や物腰が、年齢に似合わぬ落ち着きを感じさせる佇まいなのだ。正確な年齢は知らないけれど、まあ中学生だろうし。


 卓袱台を挟んで相対する俺たち。何をしているのかちょっとよくわからない。

 重苦しい雰囲気に耐えられなくなってきて、しばし迷ってから俺は口を開くと決める。


 考えてみれば面白い事態……と言えないこともない。

 空間青春含有量も50パーセントは固いだろう。若干のシリアス因子に汚染されているとはいえ、これも一種のチャンス。

 第四条――《行動してこそチャンスが舞い込む。それを掴み取る握力こそ、青春に最も必要な武器》だ。

 主役を志す人間として、黙り続けるなんて選択肢はあり得ない。


「――ええと。あー、なんだろう。お姉さん帰ってくるの、遅いね?」

「今日は両親と食事をしていますから。でも、そのうちに帰ってくると思います」

「そ、そうなんだ」


 かなりいろんな意味でツッコミどころだらけの情報だった気がする。

 なんで君は参加してないのかとか、しかもなんで君だけここ来たのよとか。

 が、気にしない。

 雰囲気に呑まれてしまってはいたが、喋り出してみれば気にならなくなってくる。人道に悖る(?)ようなことはしていないのだ、堂々としていよう。


「あー、そうだ。望くん、コーヒーは飲める? なんなら入れるけど」

「……では頂きます」

「じゃあ、うん。なら作ろうか。いや、聞いてると思うけど、お姉さんと同じ喫茶店に、俺も勤めてるからさ。これでもちょっとしたものっていうか――」

「だそうですね」

「……あ、知ってる? そこのマスター、えっと、宇川さんっていうんだけど。奥さんがいてね? 今ちょうどお子さんが生まれるってことで病院なんだけど、実はその奥さんの名前も《のぞみ》っていうんだよ。いや、偶然だよねえ」

「よくある名前ですから」

「…………だよね関係ないよねそうだよね。何言ってんだろね俺ね、あはははは!」

「はい」

「……………………あ、お湯を沸かしてきますね?」

「はい」


 なんなの、この子。めっちゃ怖いんですけど。なんなの?

 何が怖いって、俺が立ち上がった瞬間から望くんはひたすらまっすぐこちらを見つめているのだ。まるで観察するように、こちらの様子を彼は窺っている。怖い。

 にしたって俺の体たらくも相当だったが。

 どの辺が主役なのか、この惨状。

 何とも言えない気分を感じながら、お湯を沸かしてコーヒーメイカーを起動。その間もひたすら背中に感じる視線は、もうないものとして処理した。

 こっち見すぎ……。


 やがてふたつ分のカップにコーヒーを注ぎ終える。それを持って卓袱台まで戻り、俺は片方を望くんの前に置いた。

 そして再び、彼の正面へと座る。今度は足を崩して。


「あー。砂糖とかミルクとか、使う?」

「お願いします」


 問いに頷く望くん。

 いつだったか、自分では使わないそれらを客用に用意している件について、叶から鼻で笑われたことを俺は思い出していた。

 ほら見ろ必要じゃねえか。しかもお前の弟に。

 どうしようもない気持ちを、脳内で叶にぶつけることで鬱憤を晴らす俺だった。

 シュガースティックやミルクを望くんに手渡してやる。

 彼は頷いてそれを受け取ると、割と多めにコーヒーへ流し込んだ。……あーら。


「もしかして、コーヒーは苦手だった?」


 そう訊ねた俺に、望くんは顔を上げると二、三秒だけ俺を見つめ、それから答える。


「いえ。甘ければ飲める程度です。ブラックだと少し苦くてつらいですけど」

「そっか。嫌いじゃないならよかったけど」

「……高校生は、やっぱりブラックで飲めるものなんですね。大人です」

「あはは」


 俺は少し笑ってしまった。

 望くんが、初めて年相応の様子を見せたような気がしたから。


「そうでもないよ。別にブラックで飲むから大人ってわけでもないし。俺の友達にも甘いほうが好きって人はいる」


 さなか辺りはそうだろう。こんなものは好みの問題だ。

 と、そんなところで望くんに問われた。


「……我喜屋先輩は、いつ頃からコーヒーをブラックで飲むようになりましたか?」


 なんだろう、その質問。

 訊かれた意図が不明だったが、隠すようなことでもない。俺は素直に答えた。


「俺は初めて飲んだときからブラックだったよ。大人ぶりたかったんだよね」

「初めから飲めたんですか?」

「いや? すげえ苦いし不味いと思った」


 きょとんとした表情になる望くん。俺は笑いながら続ける。


「中一のときに、職場体験ってのがあってさ。グループに分かれて、いろんな職場に行くっていう学校行事」

「ああ……僕も今年行きます」


 ふむ。ということは望くんは中一か。

 こっそり確認しつつ続ける。


「そのとき、仕事の手伝い――つっても大したことじゃなかったけどさ。それが終わったとこで、職場体験に行ってた先のおっさんが飲み物を奢ってくれたんだ」

「はあ……?」

「いっしょに行ってた奴らはなんかジュースとか選んでたんだけどさ。そんときに、そのおっさんがコーヒー飲んでるの見て、で、なんか格好いいとか思っちゃったんだよなあ。それでブラックのコーヒー、自販機で奢ってもらってさ。もうぜんぜん美味しくないのにカッコつけて飲んでた。そっからブラックコーヒーばっか飲んでたんだよ」


 阿呆な話だと思う。

 実際、この話をした旧友なんかは腹を抱えて笑った気がする。


「で、ずっとブラックばっか飲んでる間に、いつしかもう逆にブラックしか飲めない体になってた、みたいな感じ。カッコつけてたら、そのまま好きになっちゃったんだよ」


 言葉通りガキの話だ。そのお陰で今のバイト先があると考えれば、捨てたものでもないとは思うけれど。

 だとすれば、黒歴史としている中学時代の経験も今に活きていた。


 ……ブラックだけに、なんつって。


「そうですか……」


 俺のつまらない話をどう受け取ったのか、望くんは静かに頷いた。

 しまった。なんだか思わず、どうでもいいことをペラペラ語り聞かせてしまった。

 俺はいったい何をやっているというのか。叶に対するのと、似たような感じになっていた。


 ――つまらない話をしてごめん。

 とかなんとか、そんな風に謝ろうと思った。だがそれより早く、望くんのほうから俺に言葉が渡されたのだ。

 ふっと、力を抜くような笑みで、彼はこんなことを言う。


「確かに我喜屋先輩は、姉と似ていますね」

「……え……?」

「姉も、同じことを言っていました。格好つけて飲んでいるうちに好きになった、って」

「…………」


 俺としては言葉がない、というか正直またかよって感じなのだが。

 だが望くんはどういった理屈か、今のやり取りで警戒を少し解いてくれたらしい。おもむろにカップを手に取ると、コーヒーに口をつけて小さく笑った。


「美味しいです。さすが喫茶店の店員さんですね」

「……お店のほうがもっと美味しいよ」

「それは楽しみですね。いずれ、そちらにも伺ってみたいものです」


 大人だなあ、と思わされた。俺なんぞよりよっぽどしっかりしているというものだ。

 さっきまでの俺があまりにしっかりしていなさすぎた、と言うべきな気もするけれど。


「――我喜屋先輩」


 カップの半分ほどまでを飲んだところで、それを卓袱台に置いて望くんが言った。

 正面から、力のこもったまっすぐな瞳で俺を見据えて。それは威圧感があるということではなく、やるべきことを自らの中で決意した人間の視線だった。


「お訊ねしたいことがあります」


 おそらく本題に入るつもりなのだろう。俺は頷くことで先を促した。

 望くんは一度だけ目を伏せると、再び顔を上げて、やはりまっすぐ俺を見つめて。

 それから言った。



「――女としての姉のことをどう思いますか」



 コーヒー零すかと思った。


 動揺する俺。

 その形が硬直として発露されたことは幸運だったのかどうなのか。

 固まる俺に、望くんは身を乗り出さんばかりの勢いで続ける。


「僕が言うのもなんですが、姉はかなりの優良物件だと思うのです」


 この辺りでなんとか再起動して俺は問う。


「うん。あの……いったい君は何を」

「我喜屋先輩には今、お付き合いされている女性がいますか?」

「……まあ、それは……いないけれども」

「でしょうね」


 その《でしょうね》は《(あねと暮らしている以上はいるわけない)でしょうね》って意味ですよね?

 間違っても《(どうせお前に彼女なんているわけない)でしょうね》って意味じゃないですよね?

 大丈夫でしょうね?


「でしたら姉はどうでしょう」


 俺の混乱をよそに、望くんは自分の姉を売っていた。売り込んでいた。


「一見だらしないですが、ああ見えて家事はとても得意です」

「あの」

「あれで愛も深いタイプだと思うのです。義理堅く、恋人を裏切るような真似はできない姉です」

「ちょっと」

「器量もいいと思うのです。これは身内の贔屓目ではなく。明るい性格だったので友人も多く、それでいて周囲を気遣える性格でもあります」

「そうじゃなくて」

「我喜屋先輩は姉が好みではありませんか?」

「友利後輩はどうして結婚相談所みたいなことを言い出したんですか!?」

「すみません。結婚相談所には行ったことがありません」

「そういう話じゃない! あと俺だってない!!」


 もう叫びとともにツッコむ我喜屋くんであった。

 待って。待って待ってわからない。話の流れがちっとも読めない。


「ん――え? 君は、あの……アレなんじゃないの? 妙な男が姉と同居してるのを危惧して来た、みたいな感じのアレじゃなかったの?」


 混乱してくると発言の中に《アレ》という表現が増えてくる。

 望くんは首を横に振って答えた。


「いえ。まあ確かに、姉が何かを隠しているとは直感して来てみましたが」

「すげえな。君すげえな本当に」

「それがなら、むしろ諸手を上げて歓迎すべきことだと思うのです」

「そうなの? そうかな。俺はそうは思わない気がするんだけど。あれ、これ俺のほうがおかしいのかな。なんか自信なくなってきた……」

「いえ。だって――」




「――――?」




 底冷えのする、地の果てから轟くような声音だった。

 地獄の門番でさえ、果たしてここまでの威圧感をただのひと言に込められるだろうか。そう疑わせるほどに重い響き。


 いつの間に帰ってきたのだろう。気配を殺していたことは間違いなく、そこからわかる事実といえば、どうやら望くんは無断でこの部屋まで来たらしい、ということ。

 ……彼はどうやってこの部屋に入ったんだ。

 これ、考えないほうがいいのかもしれない……。


 帰ってきた叶が、こちらを見下ろすように立っていた。

 そこからの望くんの迅速な行動たるや、ちょっとしたものがある。


「今日は面白いお話をありがとうございました、我喜屋先輩。コーヒー、ご馳走様です」


 だからいつの間に飲んだのか。空になったカップを置いて望くんは笑った。

 彼は叶に視線さえ向けず、一切を無視したままこちらに片手を差し伸べて笑う。

 思わず握手に応える俺。

 差し出した右手を、彼は両手でしっかりと握り締めた。

 ……。

 それから言う。


「またお会いできれば嬉しいです。では、僕はこれで」


 無論、叶はそんな対応を認めたりはしない。


「ちょっと待って。望、あんたいったいここで何をして――」

「姉さん」


 だが望くんは狼狽えない。彼はあまりにしたたかだった。


「――いい人を見つけたんだね」

「はあ? …………、…………、…………はあ!?」

「いきなり独り暮らしなんて言い出したから、みんな心配していたんだよ。だけどこの分なら大丈夫みたいだ。次に家に帰って来るときは、ぜひ我喜屋先輩といっしょにね」

「ちょ、ちょっと待って、望。あんた、いったい何を勘違いして……」

「大丈夫。僕はわかってるから。父さんもきっと話せばわかってくれると思う」

「だからなんの話!? ちょ、ちょっと未那! あんたいったい望に何言ったわけさ!?」

「いや俺ぇ!? 待て、なんでいきなり俺が悪いみたいな感じに――」

「でもなきゃ望があんなこと言うわけないでしょうに! 話が絶対おかしいじゃん!!」


 そんなことを言い合っているほんの数秒の間に、すでに望くんは自然な動作で、流れるように玄関へと近づき、靴を履いて逃げ出す準備を整えていた。


「では、失礼します」


 止める間もなく。至極あっさりと、友利望はこの部屋から姿を消すのだった。

 呆気に取られる俺と叶。

 少しだけ迷ってから、俺は叶に向かってこう告げるのだった。


「お前の弟、ずいぶん変わってるな」

「……いったい誰のせいだと思ってんだっちゅーの」


 いや、さすがにこれは俺のせいじゃないと思うんですけど。

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