1-01『夢の独り暮らしの破綻まで1』
『つまり
電話口から聞こえてくる友人の言葉は、つまるところが俺へのダメ出しで。
四月の朝。天気は晴れ。今日から通うことになる高校への登校の準備をしながら、俺は地元の友人とこんな時間から通話状態にあった。まあ、文字通りの高校デビューを控えた今、こいつからアドバイスらしきものを拝聴できるのならありがたいかもしれない。
そう思っておくことにするが、それはそれとして、反論をしないというわけでもなく。
「相変わらず、お前の言っていることはわかりにくいな。なんだよ、自分で解決できるんなら、それは別に悪いことじゃないんじゃないのか?」
『いやいや』電話口から聞こえる否定の声。『ここで言う《解決》とはね、未那。ある種の答えを君が自力で形作ることができるというただそれだけのことであって、その正否までは問うていないんだぜ? もちろん、君が間違ってばかりだと言いたいわけじゃないんだ。合っているかいないかが問題なんじゃない、合っているにせよ間違っているにせよ、ある解決を自分の中で、誰にも左右されずに作り出してしまう――未那はいつもそうだったね。要するに、自己解決に対する抵抗感が他人よりずっと希薄という話だよ、これは』
この友人の話は常に回りくどく、要領を得ない。これまでもそうだったし、この分ならずっとそうなのだろう。
変わることを選んだ俺と違い、こいつは変わらないことを選んだ。
あるいは、何も選ばなかったのか。
「朝からテンションの下がる話をするなよな」
スマートフォンを肩と頬の間に挟み、身支度を整えながら俺は言う。
モーニングコールだぜ、などと宣っていきなり電話をかけてきたと思ったら、いきなりこの言いようである。まあ何を言っているのか半分も理解できていないような気もしたが、とりあえず、なんらかの理屈によって苦言を――いや、忠告を受けていることはわかった。
『何を言ってるんだ。朝だからわざわざ電話したんだぜ? 今日から学校だろう』
「そうだよ」朝食のトーストを齧りながら俺は答える。「だから本当なら、お前に構ってる暇なんてないんだ。貴重な朝の時間に付き合ってやってんだぜ? 感謝してほしいね」
『その感謝を表す礼として、だからいつも通り、わからないことを言ってあげてるのさ。これでもぼくは、数少ない君の友人であるからしてね』
「余計な冠をつけるな。今日から友達百人できんだから、いいんだよ」
『もちろん。そうあることを願っているぜ』
狭い、六畳ほどのアパートの一室。この部屋が、半月ほど前からの俺の根城だ。
南向きの窓から、磨りガラス越しに届く暖かな春の陽気。生憎と料理の習得はまだ間に合っておらず、今日はトースターで焼いた食パンで腹を誤魔化している。
俺が、高校時代を素晴らしき青春の日々に変えると決意してから――まだ三か月も経過していない。それだけの時間では、間に合わなかったこともある。追々の課題だった。
学校までは徒歩で十分とかからない。下見は万全、道に迷うことはないから、出発まであと三十分は余裕で見られるだろう。
その時間を使って、俺は鏡の前で自己を観察する。
皺のない新品の制服。美容院で整えてもらった髪のセットも完璧。取り立てて目立たず特徴に欠けた外見であることは自覚しているが、清潔感さえあれば悪印象は与えない。
『若干、視線が鋭すぎるところが、玉に瑕かもしれないけれど』
「うるさいな。俺がしていることを電話口から察するなよ、気持ち悪い」
『そして口が悪いね』
「口さがない奴に言われたくない」
こんなやり取りは、けれど俺と奴の間では当たり前の挨拶だ。この程度でお互い険悪になるようなことはなかったし、考えてみればそもそも喧嘩などしたことがなかった。
別に、そう馬が合う奴だとは思わないのだけれど。むしろ正反対みたいな友人だった。
こと口論――というか議論らしきもので、俺はこいつに勝ったことがないけれど。
「――で? 結局、そんなワケのわかんねえ話をするために掛けてきたのか? まあ、お前らしいっちゃらしいけどさ」
自分が万全の状態であることを確認してから、俺は電話の向こうに訊ねた。こいつだって自分の入学式があるだろう。今日かまでは知らないが、暇ということはないはずだ。
電話の向こうの友人は、この世で唯一、俺が生き方を変えたことを知っている相手だ。だから諸々の相談相手としては替えの利かない奴なのだが、それらはすでにずいぶん前に済ませたものだ。今さら、登校初日に電話を掛けてくる理由がわからなかった。
『もちろん、君の決意は知っているさ。応援もしているし、君ならきっと上手くやれる』
かつての友人は、果たして、そんな風に言った。
思えば、こいつとはいつもそんな話ばかりしていたような気がする。
『だけどね、未那。いいかい、君が失敗しないことと、目的を遂げられるかどうかはまた別の問題なんだぜ? わかっていることとは思うけれど、たとえ未那が全てを上手く成し遂げても、それだけでは未那の目的は叶わない』
「……俺はただ、楽しい高校生活が送りたいってだけなんだけどな。それって、こんなに難しいことなのか」
『そりゃ当たり前ってものさ。人生を楽しく過ごす、なんて――それができればもう人生全てに成功しているみたいなものだからね。若者には難しいものだよ』
「お前は俺の親か何かか」
『はは。まあ、君が青春で遊ぼうっていうんだ。それが若い人間には過ぎた玩具だということくらいは、認識しておいたほうがいい。その道は長く険しいよ、未那』
「そういうお前は相変わらずだな、本当に」
気取ったような話し振りが、以前とまったく変わっていない。これでナチュラルだというのだから、この友人は本当に変わった奴なのだろう。
まあ、三か月やそこらで人間が大きく変わることのほうが珍しいのだろうけれど。俺が変わっている以上、それが全てでないことも事実なわけであり。
――人間は簡単に変わる。
ただ、変わるに足るきっかけのほうが起こらないだけだ。
そんな、かつてこの友人が言っていた言葉を、俺は思い出していた。
『いいかい、未那。よく聞いてほしい』
そう。この変わった友人の忠告めいた言葉を聞くことが、今も昔も、俺は嫌いではないのだろう。そこだけは、たぶん変わっていなかった。
俺の新しい生活の中に、こいつがいないことを――少しだけ寂しく思うくらい。
『これから、いろいろ厄介なことも起こると思う。なにせ未那のことだ。未那はぼくを変わっているというけれど、ぼくに言わせれば未那のほうが変わっているんだ。なら、ぼくの言葉を聞いておいて、損はないということだよ。それは君からは出ない考えだから』
「ま、聞くだけは聞くさ。いつもの通りな」
『そうかい。じゃあ言うけれど、もしも何かが起こったとき、自分の中に残された答えを必ずしも妄信しないことだよ。君はいつも自分で解決を作ってしまう。合っているか、間違っているかが問題なんじゃない。どうだったところで、それに君が納得してしまうこと――そのことが問題なのさ』
「さっき言ってたことか」
『いつも思っていたことさ。それをこれまで言わなかったのは、君があのままでいるのなら、それでも問題はなかったからなんだけれどね。しかし君が変わろうというのなら話は別だ。いいかい? 君は、君が出した解決を思い込むべきじゃない。それに納得して自己完結していいのは、君が独りで生きられる人間だったからというだけだ。それをやめるというのなら、自分の中で出した解を――まず他者に問うところから始めよう』
「……やっぱお前の言ってることの意味はひとつもわからんな。なんかの哲学か?」
『哲学、なんてものに頼るべきじゃないよ、未那は。解はひとつの解釈だ。それが必ずしも正当だとは限らない。なぜなら、この世に解はひとつではないからだ。いいね?』
「いや、単純にわかんないからぜんぜんよくないけど」俺は言った。「要は、何か困ったことがあったら、周りの人間に相談しろって意味でオーケー?」
『――――…………』
一瞬だけ、珍しくも電話口の返答が詰まっていた。
口さがないこいつが、何かを言い淀むのはあまりあることじゃない。何度か見たことはあるけれど、決して多いとは言えなかった。
『ま、そういうことさ』
しばらくあってから奴は言った。どこか声が弾んでいるような気がしたが、常に淡々とした奴だから、変化の幅は酷く小さい。気のせいだったようにも思う。
ともあれ話はそれでおしまい。俺はわずかに苦笑して、
「なら最初からそういう風に言えよ。お前の言葉はいつも回りくどいんだ」
『そんなつもりはないんだけど。……まあ確かに、それでも君の朝の時間を奪ったことは事実だね。そろそろ切ろうか』
「ん、オーケー。夏休みとかになったら、もしかしたらそっちに帰るかもしれんし」
『青春を楽しもうという君が、夏に予定を空けてどうする。まあ、またいつでも電話してきてくれればいいさ。それでぼくらには充分だろう?』
「……それもそうだな。んじゃ、また」
『ああ。――かわいい彼女ができることを祈っているよ、未那』
そんな言葉を最後に、通話が切断されてしまう。
言い逃げかよ……。俺はスマホを手に持ち直して睨んだが、そんなことに意味はない。まったく、いつだって言わなくてもいいことばかりを口にする奴だった。
「……時間が空いたな。早めに出るとするか」
スマホを仕舞い込んでから時計を眺め、それから小さく、方針確認を舌に乗せた。
――さて。主役理論を、お披露目しに行くとしよう。
※
部屋を出て、戸締まりをしっかりと確認する。
ガスの元栓も問題なし。窓もオーケー。
一応、母親が入学式には顔を出してくれると聞いていたが、特に合流の予定はない。となると今の時間は、割と浮いてしまっている。さて、どう時間を潰そうか。
早めに登校するもの悪くはないが、教室の場所もまだわからない。自分と同じ新入生を見つけて交流を試みるというのが目下の方針だったが、これは運に左右される。
声をかけられたのは、ちょうどそんなときだった。
「ああ、我喜屋くん、おはようございますー」
「大家さん」振り返って頭を下げる。「どうも、おはようございます」
ちょうどアパートの敷地の入口辺りに、大家のお姉さんを見つけたのだ。この失礼ながらオンボロアパートこと《かんな荘》の管理人である
ふわふわとした栗色の髪が特徴的な、一見して穏やかそうなお姉さんである。
本当は意外と気さくな性格で、面倒見もよくお世話になっている。
「今日から学校ですよね。行ってらっしゃい」
道を竹箒で掃除している瑠璃さん。敷地の片隅に咲いた桜の花びらが集められている。実に《大家》という感じの、いい光景だった。俺は笑顔を作って答える。
「どうも。行ってきます、瑠璃さん」
「それにしても、早いんですね、出るの。何かあるんですか?」
とことことこちらに近づいてきて、瑠璃さんは首を傾げてそう訊ねた。
少し前までの俺ならば、たまたま早起きしただけです、とでも答えて適当に会話を切り上げていたのだろう。だが今の俺は違う。些細な雑談を長く楽しく――そんな心構えも、主役理論には大事なものである。
「初日だから、早めに行くのもいいかなと思いまして。さっきまで、前に住んでたとこの友達と電話してたんですけど。ほら、こっちでも友達できるかなって思いまして」
「なるほどー。新しい生活に入るときは、期待と同じくらい不安もありますからねえ」
「あはは。そんな感じです」笑顔は会話にとっての潤滑油だ。「瑠璃さんも早起きですね」
「まあ、こういう細かいことが仕事ですから。このところはあまり入居者もいなかったんですけど、今年からここも賑やかになりましたからー。掃除のし甲斐がありますね!」
笑顔を見せる瑠璃さん。それこそ春のようなお方とでもいうか、話をしているだけで、なんだか暖かな気分になってくる。こういうのを人徳というのだろうか。
自分にそれがないことはわかっているが、それは努力でどうにでもなるものだ。さらに会話を掘り下げた。
「今年から入居者が増えたんですか?」
「あれ?」と、その問いに瑠璃さんは首を傾げる。「ということは、我喜屋くん。まだ友利ちゃんには会ってなかったの?」
「友利ちゃん……ですか?」
その名前にピンとくるものがなく、俺は思わず首を傾げた。
それを見て取って、瑠璃さんは困ったような笑みをその表情に浮かべる。
「うーん。てことは友利ちゃん、やっぱり本当に顔を見せなかったんだ……さっきも早く出てきたとは思ったけど。これは、我喜屋くんとは理由が違いそう」
「……えーと」
「一〇三号室の入居者さん、まだ会ったことないんでしょう? 我喜屋くんのお隣さん」
話の行く先がわからず、さらに首を傾げる俺へ、瑠璃さんはそんなことを言った。
一〇三号室。確かに、そこの住人だけはまだ確認したことがなかった。頷いた俺に瑠璃さんは言う。
それは、ちょっとした驚きを生む言葉だった。
「
「え――、一○三に住んでる人がってことですか?」
思わず目を見開いた俺に、瑠璃さんは「そう」と頷いてみせる。
そいつはちょっとした驚きであったと同時に、ある種の失態を俺に教えていた。まさか隣室に、これから同級生になる少女が住んでいることを見逃していたなんて。
その友利叶という奴も、つまり独り暮らしということになるのだろう。高校生でこれはずいぶん珍しいはずだったし、しかも同じ境遇にあって隣の部屋ときている。
もはや運命という言葉を使ってしまいたくなるほど、そいつは劇的な事実だった。
「そうだったんですか。一回も見てなかったんで、てっきり完全に生活リズムが違う人が住んでいるものだとばかり思ってました。同級生だったんだ……」
「てことは……んー。友利ちゃん、やっぱ我喜屋くんのこと避けてたんだね」
「――え」
さきほどに輪をかけて(ある意味)衝撃的なことを仰る瑠璃さん。
え。嘘だろ。俺、まさか一度も会ったことのない同級生の女子に避けられていた……?
さすがに愕然としてしまう。理由のわからないうちに嫌われてしまっていたのだろうか。これからの高校生活の、その最序盤で躓いてしまいかねない事実に俺は戦慄する。
幸い、その誤解はすぐ解いてもらえた。驚く俺に、少し慌てたように瑠璃さんが言う。
「あ、違う違う! 別に、友利ちゃんが我喜屋くんを嫌ってるとかじゃなくてね?」
「あ……ああ、そうですか。よかった。驚きましたよ、もう」
「ごめんごめん。言い方が悪かったよね」
ちろっと舌を出す瑠璃さんだった。御年――おいくつなのだろう。そういえば知らない。
すごく若く見えることは確かだったので、そんな様子も
「ただ、叶ちゃん、ちょっと……なんて言うか、難しい子だから」
「……えーと。病気がち、とか、そういう事情ですか?」
「そういうのじゃなくてね。性格の話。気難しいっていうか、……なんだろ。我喜屋くんとは正反対な感じだよね。いや、友利ちゃんすっごくいい子なんだけど」
その言い回しだと、俺がすっごく悪い子という意味になってしまわないだろうか。
なんて意地の悪い突っ込みは当然しない。主役理論六条――《言わなくてもいい皮肉は仕舞い込めるようになれ、無闇に敵を作っても得することはない》、だ。
「ほら、我喜屋くんは、たぶん友達とか多いタイプでしょ?」瑠璃さんは言う。「人当たりもいいし、礼儀正しいし。クラスでもきっと人気者だったよね」
「いやあ……」
と照れたように俺は言ったが、照れたのではなく否定しただけだ。通じないように。
その評価は俺にはまったく合っていない。
合っていないが、そう思われるようになったこと自体は進歩だろう。
笑って誤魔化すことにした。
「友利ちゃんは……なんて言うか、自分ひとりで生きていけちゃうタイプだから。いや、さっきも言ったけど、悪い子じゃないんだよ? ただ、あんまり人と付き合うことは好きじゃないみたい。苦手とかじゃなくて、ただ好きじゃない――そういう感じ」
気持ち自体はとてもわかった。
少し前まで、似たようなことを考えていた身として。
「もし学校で見かけたら、友達になってあげてね」瑠璃さんは言う。「なんて、こんなことわたしが頼むのもおかしい話だけどさ。我喜屋くんなら、友利ちゃんとも仲よくできると思うんだ。うん、相性よさそう」
「俺も、隣の部屋に同級生がいるなら仲よくしたいですけど。でもどうしてです?」
何をもって《相性がいい》と判断したのか。
参考までに訊ねてみた俺に、瑠璃さんはやはりあざとい笑顔でこう言った。
「――んー。女の勘、かな?」
さすが天然で主役力の高い人は言うことが違う。
なんて、間の抜けた感想を抱く俺だった。ちょっと参考にはできそうにない。
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