第5話
ほどなく、戦車のごとき、轟音が、天馬のごとき速さを以て近づいてくるのが、尖った耳に聞こえてくる。
ああ、来たのだな。
狼男、デイズはげんなりした様子で、立ち上がろうとした。
「さて」
「やっほぉおおおおおおお! お久ぁ! 元気してたぁ、森の狼ぃ!」
「―――――変わらないなお前は」
立ち上がる素振りすら追い抜き、勢いよく開かれる扉。
扉を突き破らんばかりの勢いで小屋に入ってくる気配に、狼男が苦笑いとともに振り返ろうとした。
――――――殺意。
刹那、突き刺すような視線に、全身の体毛が逆立ち、狼男はその赤い瞳をハッと見開いて後ろを振り返った。
「……はい?」
「――――――このクソ狼」
怨嗟が聞こえる。
そこには年端もいかない少女がこちらを見上げ立っていた。
クワッと見開いた青い瞳は真っ白な皿のようで、今や爛々と輝き、こちらを見つめていた。
怒気、なのだろう。紅い湯気が立ち上る様は、まるで悪鬼のようで背中に背負っていた大きな荷物を下ろしつつ、その手にはナイフが握られていた。
心が警鐘を鳴らす。
加えて恐怖と、混乱と、絶望と―――――え、何この怒りっぷりという困惑。
わが身を振り返ってみても、自らは清廉潔白であると主張せざるを得ず、狼は戸惑いながら周囲を見渡した。
そこには、ベッドに眠る少女に毛布を掛ける右腕があった。
左腕はというと、少し―――――ほんの少し、呼吸音を確かめるために、眠る少女の膨らみを撫でているに過ぎない。
そう。
狼男は、今医療行為として、少女の胸を撫でているのだ。
実に、清廉潔白である。
―――――まずい。
その先の思考構築に誤りがあってはいけない。
獣が次にとるべき手段とは――――――
「……水汲んでくるッ」
狼なのに脱兎のごとく、デイズは全身に風の鎧を纏い、脚力を魔力で増幅し、まるで弾丸のごとく飛び出そうとした。
矢のごとき速さの男の尻尾を、少女は腕を伸ばして、引っ掴んでいた。
「んぎゃ!」
尻尾を引っ掴まれて、狼男は前のめりに、床に顔をぶつける。
「いっでぇ……」
「ねぇデイズぅ。今この女の子に何していたの?」
「……。いやいや、別に何も」
「どこにあるのかしら、そんな低俗な嘘をつく舌は」
「―――――――」
更にまずい状況。
この場を切り抜けられる方策はすでに限られている。さらに取れる方策があったところで、成功する確率は低い。
土下座。
言い訳。
更に逃げる。
―――――答えは一つしかない。
「は、話を聞け、商人ッ。俺はこの子が森で道に迷っていたから仕方なく解放していただけだ!」
「あ、ここにあったんだ」
「待て待て待てッ馬乗りになるなッ。俺は何も悪くないッ、話せばわかるし俺はお前に襲われる謂れはないし、そもそもお前は何をしに来たんだぁ!」
「ここにいる、森の害虫を殺しに」
「わかったッ―――――『二割増しでお前から商品を買う、だから赦せ』!」
結局こうなったと、『言い』ながら狼男は深いため息をついた。
それは真言――――言葉を現実に変える魔術の一種で、対象者の意志のみならず、現実そのものを術者の思うままに変容させる。
アンティオキアで、既に潰えたはずの古い禁術の一つ。
その不可避の強制に、少女はムスッと寒さで赤らんだ頬を膨らませながら、ゆっくりとあおむけになった狼男からナイフを退けると、のそのそと立ち上がって、唇を尖らせた。
そうして、よろよろと上半身を起こす狼男に、少女は更に3本の指を突き出す。
その仕草に、デイズは尖った耳をたらし、力なく胡坐をかいて項垂れた。
「あいよ……『三割増し』だ」
「―――――ニヒヒッ、まいどぉ」
「ったく。何しに来たんだよ」
「商売」
「よそでやれ、旅商人……」
彼女は、旅商人のミオナ=ハークウェル。
商人の家系であるハークウェル家の次女である彼女は、父母、そして兄弟の仕事に倣い、12という若さで一人、アンティオキア中を巡り、行商をすると決意したのだ。
その折、数年前に彼女はこの声無き森に迷い込み、デイズ・オークスと出会い、その関係は客(奴隷)と商人(神様)として今に至る。
「で、今日は何を持ってきたよ」
「デルカ牛の干し肉、前に欲しいって言ってたでしょ。一杯取り寄せてあげた」
「どれくらい?」
「あれくらい」
と言って、開いた小屋の入り口の向こうを指させば、大きな二台が三つ。
その中には大きな木箱がいくつも敷き詰められていて、それは何年分もの食糧があるように見えた。
鼻先をくすぐる食料の匂いでわかる。
アレ、全て干し肉なのだと。
「……塩分過多で死ぬぞ俺」
「ちょうどよくない? 前も死にたいって言ってたじゃん」
「顔パンッパンに膨らませて死ぬ姿は想像したくない。ていうか死にたいって言ったのは、あまりにもお前が騒々しいからアーティファクトの制作が捗らんから言ったんだよ」
「何それ、ヒドいわね狼」
「うるせぇ、俺より先に手前が死にやがれってんだ」
「やぁだよ」
クスクスと口元を押さえながら笑う少女に、苦い面持ちを浮かべつつ、狼男は立ち上がると、小屋の周りを見渡した。
しかしながら、あれだけの二台、一人で運んだとは考えづらい。
誰かほかに従者がいたのだろうか、狼は尖った耳を澄ませると、目を閉じて吸い込み、大地の呼吸に心を重ねた。
ザッザッザッ―――――焦りを抱え、絶望を滲ませ、一秒でも早く、この森を去ろうと遠のく足音が聞こえる。
この気配が、この二台を運んできたのだろう。
悪いことをした、気まずさに肩をすぼめると、狼男は片目を開け、僅かに恨めしげに少女の横顔を見下ろした。
「お前、ちゃんと教えてやれよ」
「この森には何もないって? 私は嘘はつけないもの、ここにはヘンテコでぶっききらぼうで、不愛想な狼人がいるんだから」
「減らず口をよくも叩く」
「それよりさ、デイズ。あの女の子は何?」
クルリと雪のように白い銀髪を翻し、少女は屈託のない笑顔を浮かべて、ベッドに眠る少女を指さした。
少女はまだ眠っている。
入り口から吹き込む冷気に少し身震いしているのが見える。
狼男はわずかに肩をすぼめると、少女、ミオナの背中を押すと小屋の入り口を締めた。
「お前と一緒だよ。今日迷い込んで、今に至る」
「そう」
「―――――殺気、漏れてるぞ」
「そう?」
「頼むから刺すなよ、痛いんだから」
そう言って、ナイフを仕舞う少女をしり目に、デイズは暖炉の火に薪をくべて、火をさらに強くした。
そうして、暖炉のそばで温めていた湯の入った鉄瓶を手に取り、狼はテーブルの上に置いていたカップに湯を注ぐ。
「まぁいいや。ミオナ、今日はどうするんだ?」
「泊まっていくね」
そう言いつつ、差し出されたカップを手に取る少女の笑顔に、狼男はぺたりと耳をたらして、明後日の方向を見上げた。
「ったく、お前がもっとオッパイデカけりゃ、喜んで了承したんだがな」
「最低な賢者」
「人らしく生きたいだけだよ。寝床は奥にもある、好きに使っていいが騒がしくするなよ。まだ製作途中の魔装具があるし、ガキも寝ている」
「売ってくれるの!?」
「お前のは別だよ。いいから荷物片づけてこい」
「うんっ」
そう言って、ばたばたと足音を立てて、小屋の奥へと引っ込んでいくミオナを横目に、狼男は深いため息をついて、暖炉の火を覗き込んだ。
今日も夜は長くなるだろう。
薪の中から爆ぜる火の粉を見つめ、ふと口の端が緩むのを感じた。
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