第3話
獣人。
その存在はアンティオキアではさして珍しい人種ではない。
その由来は、大地を創生されたとされる神の獣である。千を超える神剣によって彼の体は大地に封印され、その肉は豊穣を生み出し、その血は川を造り、命を創生した。
その命こそ、人ならぬ人。
獣の姿を持ち、人に姿を似せた命であった。
その前足は腕になり、人の手を取った。
その後ろ脚は、地面を蹴り、人ともに歩みだした。
やがて獣の魂は知性を知り、その体に人と同じ魂を宿したという。
故に彼らは獣と同じ顔を持ちながら、人と同じ目線に立ち、人と共に社会を築きあげてきた。
そう、まさしく彼らは獣の子らであった。
人ではない、人であった。
それから約千年。
声無き森の中で、紅い外套の少女は、銀の狼人に迎えられていた。
「悪いな。いつもの坊主かと思って手荒な歓迎をしてしまった」
そこは深雪の森の奥深く、大木で建てられた小さな小屋の中、少女は暖炉を前に狼男の声を聴いていた。
小屋の中には、小さな椅子が三つ。そして隅にはベッドが敷かれ、その奥には作業台がおかれていた。
壁に立てかけられた銀の槍。
ジャベリンなどの投げる類の短槍であり、くたびれた麻布を穂先に巻かれたソレは少女の躯体を僅かに超える程度の長さであった。
作業台には、小さな金属の何かがいくつも転がり、木のコップがいくつか散乱していた。
簡素な部屋だった。
暖炉で燻る炎を横目に、少女は外套を体に押し付けながら、ぼぉっと小屋の中を見渡していると、
「ほれ、飲めよ」と目の前に差し出される大きな毛深い手。
その指先にはカップの取っ手が絡みつき、少女は沈黙の中、その木のカップを手に取って立ち上る湯気を覗き込んだ。
「ただ白湯だ。ろ過しているから腹を壊すことはないだろうよ」
少女はわずかに頷き、湯気に口元を近づけ、暖められた湯を僅かに含んだ。
少女はその熱にわずかに体を震わせ、目を細める。
体の芯から冷えていたのだろう、狼男は肩をすぼめると、腕に巻いていた麻布をほどき始めた。
「まぁアレだ。ここのことは周りから聞いていたんじゃなかったのかな、嬢ちゃん」
無言。
「……。んん。でだな、ただの子供がこんな危ないところに一人で出歩くっていうの何か問題があるわけだ」
無言。
「―――――はぁ」
重たいため息とともに、手に絡めた滑り止め用の包帯をほどき、狼男はうつむく少女の目の前に座り込み、その顔を覗き込んだ。
ビクリ、うつむいていた少女のほっそりとした肩が震え、そのぼぉっとしていた青い瞳が収縮して、狼男の顔を写した。
「あ……」
「起きたかな、嬢ちゃん」
「……あの」
「いいさ。とりあえず楽にしてろよ」
ニィと牙を覗かせ笑うと、狼男はそのブロンドの髪を乱暴に撫でつつ、立ち上がって踵を返した。
そうして暖炉の炎にまきをくべる背中を見つめ、少女はバツの悪そうに首をすぼめてうつむいた。
立ち上る湯気は暖かく、少女はカップに映る自分の顔を見つめながら、恐る恐る口を開く。
「あの……」
「いい匂いだろう。この辺りの木々はな、燃やすとわずかに花の匂いを漂わせるんでな、俺も気に入っている」
「……」
「まぁ、動物がいないから飯というと、キノコに木の実と、喰い甲斐のないものばかりだがな。
それでも俺は、この森を気に入っている」
炎が力を増し、爆ぜる薪の亀裂から、火の粉が舞い上がって、暖炉を見つめる狼男の頬を撫でる。
その熱は、確かに少女の体を温めていき、震えが止まるのを感じた。
それは寒さか、それとも恐怖か―――――少女は唇を僅かに開くと、声を出そうと喉を逸らした。
「――――――」
出ない。
掠れた鳥の声のような何かが乾いた唇からこぼれ、少女はハッとなって顔を真っ赤にした。
だがその声は、確かに狼男の尖った耳に聞こえていて、狼はヒクリと獣の耳を左右に動かしつつ、双眸を細めニヤリと笑いつつ、俯く少女に振り返った。
「なんだってぇ嬢ちゃん」
「……すいません」
申し訳なさそうにカップを抱えて俯く少女に、狼男は立ち上がって近づくとその頭を今度は優しくなでた。
「なんかいやなことでもあったかい?」
「……」
「俺の名前はデイズ・オークス。これでも森の魔術師をしている。嬢ちゃんは?」
「……アイリス」
「いい子だ。湯は飲んだかい」
少女はコクリと頷いたかと思うと、その両手をだらりと垂らし、床に木のカップを落としてうなだれた。
聞こえてくるのは、静かな寝息。
少女の頭を撫でる狼男の手の甲に浮かぶのは、蒼穹に輝く、不可思議な文様。
「眠れねぇだろ。楽しい夢でも見ているんだな」
そう言い、狼男は崩れ落ちる少女の体を抱え上げると、ベッドに寝かせて、その肢体を覆うように毛布をかぶせた。
「……さて」
と風を切り裂き、羽ばたく翼の音色が外から聞こえてくる。
風の音色に、木々が揺れ、やがて重たい何かが、小屋の近くでゆっくりと降りてくるのを感じる。
狼男、デイズ・オークスはその懐かしい――――既に何百回と聞いたその足音にうんざりした様子で尖った耳を垂らした。
「ったく、タイミングがいいんだかどうだか」
立てかけていた銀の槍を肩に携え、扉を開いた先、狼男は外に広がる雪にその爪を食いこませ一歩を踏み出し、そして見上げた。
そこには、大きな何かが、小屋の前に佇んでいた。
全身を覆うアクアマリンを模した、まさしく鉄壁の鱗。
粉雪広がる地面を撫でる大木並みの長さはあろう尻尾。
折りたたまれていく長い翼を背中に携え、その蛇のごとき長い首を伸ばし、その双眸を佇む狼男に向けていた。
喉を鳴らし、口の端から漏れる蒼炎。
同じく突き出た鼻先から漏れる鼻息は荒く、その息遣いに銀の体毛をなびかせながら、狼男は肩をすぼめた。
「よぉ、竜の御使い様よ」
「――――――伝令を伝える、獣の賢者よ」
それは、青き鱗の巨竜であった。
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