第124話 交錯

 どこかの小さな洞窟の中。目が覚めると、私は背中からエンジに抱きしめられるようにして、寝ていました。とても暖かく、心地いい。まだまだこうしていたい気持ちがあったのですが、ふと、今の自分の姿に気付き、意識が覚醒しました。


 上下の下着の他には、ぶかぶかの白いシャツを羽織っているだけ。……まさかこの男。一瞬、男に何かされたのではないか、と疑ってしまいましたが、そこで思い出しました。男が、私を魔族から助けてくれた事を。そして、誰かが毒だと言っていた事を。


 きっと、私はこの男に助けられ、介抱されていた。私の体は覚えています。とても、苦しくて辛い記憶の中、誰かが……いえ、エンジが必死に私を。背中を壁に預け、座った姿勢のまま寝ているエンジに視線を向けると、体が少し熱くなった気がしました。


 少しすえた匂いのする洞窟を出て、外の涼しい空気を感じていると、洞窟の中から足音が聞こえました。おそらく、エンジが起きたのでしょう。私は振り返り、お礼を言おうとしたのですが、今の自分の状態を考え、焦りました。


「近付かないで! ケ、ケダモノ!」


 あ……違うの。何で私は。


 つい、手が出てしまい、強引に近付いてくるエンジを止めると、エンジは不思議そうな顔を見せます。違うの。ごめん。でも、それ以上近付かないで。きっと、今の私、臭うと思うから……。ケダモノとまで言ってしまったのは、先程、私がそんなような事を、一瞬でも考えてしまったからでしょう。


 エンジの事を慕う、二人の可愛い獣人にも責められます。しかし、それは当然の事。何も言い返せません。エンジに過去にしていた事だって、今の事だって、何もかも全て、私が悪いのだから。


 ……。


 エンジとは少し離れた所で水浴びを終えると、先程の獣人の子達が私に話しかけてきました。


「お前、嫌い。エンジに謝れ! ガルル」

「エンジが、どれだけ頑張ったと思っているの! エンジがいなければ、多分お前はもう死んでる! グルル」


 責めるように私に聞かされたのは、エンジが介抱してくれた時の話でした。おおよそ丸一日、エンジは私の側から離れず、ずっと一緒にいてくれたようでした。その事は、何となくですが覚えています。感謝もしています。ですが、エンジの体に出来た傷を見て、私の心はきゅっと締め付けられました。


 エンジの体のあちこちに、引っかき傷や噛み跡が見えたのです。それは昔に出来たような古傷ではなく、最近に出来たもの。いえ、暴れる私が、やってしまったものなのでしょうね。


「これは、転んだだけだぞ?」


 エンジは平気で嘘をつきます。ニヘラ、と笑い、何でもない事のように言います。それは、私を傷つけない優しさだったのでしょう。でも。……何で?


 私の中には、エンジへの負い目しかありません。昔のように、ふんぞり返れたら楽なのかもしれないけど、今の私には、そんな事出来ない。嫌われても、許してもらえなくても、ただ、私は謝り続けるしかない。そう思っていた私に、エンジは、はっきりと言いました。


 俺は、お前が嫌いだ――。


 そう……だよね。分かってた。そう思われていて、当たり前。むしろ、正面から言われて、少しすっきりした。私がどう言い繕っても、私がいくら周りから変わったと言われようとも、エンジにやってしまった事は変えようがないし、そんなの、エンジにとっては関係のない事。


 私の目からは涙が流れました。私はこの瞬間、心底自分が嫌いになりました。あんな事をしてきて、まだ許されたいと思っているの? こんな涙まで流して、卑怯です。本当に卑怯。そうじゃないでしょう? ……何とか、笑顔を作り出し、言いました。


「うん」


 なぜか、涙が流れるのを止められません。おかしいな。何でだろう? だって、私はもう……。


「あー! エンジが泣かせたー! ガルル」

「別にいいの! エンジは何も悪くない! グルル」


 そう。エンジは何も悪くない。悪いのは私。


「……気持ち悪いな」


 気持ち悪いよね。エンジにあんな態度を取っていた私が、涙まで流して。でも、ごめんなさい。止まらないの。放っといてくれれば良かったのに。私の事なんか見捨てて欲しかった。それで恨むなんて事、あるはずない。


「あのな、勇者」


 あのな、スピシー。お前は――。


 もう、名前すら呼んでもらえない。あの頃は、私が何かを言うと、嫌そうにしながらも、面倒そうにしながらも、名前を呼んでくれていた。あの時とは逆。先を行く私を、追いかけてくれていたエンジ。今は、先にいるエンジを追いかける私。でも、心の距離は、あの時よりも遥かに遠い。遠いだけじゃない。エンジと私の間には、到底壊すことの出来ない壁がある。例え壊したとしても、その先にエンジがいる保証はない。


「俺、記憶がないんだよ」


 ……え?


「教えてくれないか。過去の事を。お前と俺の間に、何があったのかを。さっきから……いや、昨日会った時から。お前の態度、気持ち悪いんだよ」



 ……。



 エンジの体温が、忘れられません。これは、一時の感情なのかもしれない。そう思いはしても、思い出してしまう。先程よりも鮮明に。


 エンジも、ちょっぴり卑怯よね。死んだと思っていたら生きていて、死ぬ所だった私の命を救って、辛くて苦しい私を、あんな怪我をしてまで面倒を見て、そして。


 卑怯よ、卑怯だわ。あなたは、卑怯。あれほど、ひどい事をしていた私に、何で? 何でそんなに……。


 優しい顔を向けるの?



 私は、記憶を失ったと言ったエンジに、全てを話しました。言いたくはなかったのですが、拒否権なんて、私にはありません。何より、エンジがそれを望んでいた。話しつつも、徐々に徐々に納得していきました。噛み合わなかったパズルがはまっていきます。


 私は話します。完成したその絵には、私はいないと分かっていても。もう、エンジの暖かな体温を感じられないと知っていても。話します。私の目からは、何度か涙がこぼれ落ちました。


 全てを聞き終えたエンジは、私を怒るでもなく、蔑むでもなく、興味深そうな顔をして、黙って何かを考えているようでした。そして、私の顔を見ました。その瞬間、沈んでいた私の心がふわっと軽くなったような気がしました。……私を見るエンジの顔は、とっても優しかったから。


「何かお前、ごちゃごちゃと考えてそうだから言うけどよ」


 はい……。


「全ての記憶を思い出したとして、途端にお前を憎むなんて事はねーよ。そもそも、本当に嫌で、嫌で嫌でしょうがなかったのなら、俺は逃げてたと思うぞ? 俺は、そういう奴だからな」


 え? でも……それは。


「それは、私が脅すような真似を……」


 私の言葉を遮るようにして、エンジが続けます。


「いいや、関係ない。俺が本気でそう思ったのなら、俺は間違いなく逃げ出す。監禁されていた訳ではないんだろ? というより、そうだとしても……と、まあそれはいい。なら、逃げ出さなかったのには、そこに何かの理由があったんだろ」

「でも……」

「あー、煩い。記憶を失う前の俺は、最後にお前の事を庇ったんだろ? 俺がどうやって生き延びたのかは、俺の記憶が戻るまで分からないが、それが、何よりの答えじゃないのか?」


 私は、エンジの顔を見つめます。目の前では、記憶を失う前の俺、格好良すぎだろ? 今の俺じゃ考えられないな! と、軽口を叩いていました。それを聞いて、獣人の二人は、ぶんぶんと顔を横に振っていました。


 許してくれるの? こんな私を。

 触れてもいいの? 暖かいあなたに。

 求めてもいいの? あなたの優しさを。


「だからさ、もう俺に謝るのはやめてくれ。本来のお前で俺に接してくれ。もっと、自分に素直になってくれ。その方が、俺としても助かる。何かを隠してびくびくされるのは嫌いだ。さっき、お前に言った嫌いってのは、そういう事だ」


 ありがとう、エンジ。私は、心の中で呟きました。


「……私、素直になっていいの?」

「ああ」


 私は座っていた岩から立ち上がり、薄っすらと笑うエンジと、視線を合わせます。唐突? 気の迷い? 卑怯? 何とでも言えばいい。私の心には火が灯りました。勘違い? 吊橋効果? 雰囲気に流されているだけ? いえ、どんな言葉を掛けられようと、私の中に灯った火は消えない。もう、周りの事なんか関係ない。誰が何と言おうと、私を止めることは出来ない。それにね? エンジが言ったの。素直になれって。


「ありがとう」


 それから。


「大好き。私は、あなたを愛しています」


 あなたは、私の心に唯一傷をつけ、それを優しく癒やしてくれた男。エンジ……私は、あなたを愛しています。





===============





 堕天使となった女は、悩んだ末、よく分からない存在に生まれ変わった。


 随分と、似合わない事ばかり言ってしまった気がする。でも、しょうがないだろ? 何か思い詰めてたようだったし、そのせいで、俺の方まで苛々させられてたし。少し照れ臭かったが、これでこいつも……。


「ありがとう」


 スピシーは立ち上がり、ふわっとした柔らかな笑顔を見せた。ああ……正直、俺の過去話には驚かされた点もあった。それは主に、こいつの事だ。少し吊り目だが、清楚で可愛い顔をしているこいつが、そのような傍若無人な態度を取っていたなんて、全く想像出来ない。


「大好き。私は、あなたを愛しています」

「ええー!」

「ええー!」


 ああ……全く想像出来なかった。まさか、こんな事を言われるなんて。ファングとクロウも驚いているじゃないか。そりゃそうだよな?


「え?」


 何で? そういう話の流れだったっけ? 俺は知らないぞ? 完全に、予習不足だ。昔から苦手なんだよね。予習って。


「大好き」


 再度、スピシーは恥ずかしそうな顔ではにかみ、そう言った。どうやら、聞き間違いではないらしい。


「……そこまで、素直になれとは言ってない」

「エンジ、ありがとう。大好き」


 きっと、過去の俺が知らぬ間に落としていたのだろう。酷い仕打ちも受けていたようだが、もしかしたら俺は喜んでいたのかもしれない。シスコン王子が天使と言うように、確かに顔は整っている。俺も嫌いではない顔だ。十分考えられる。


 とりあえず、保留にしておくか? というか、これは今返事をしないと、駄目な訳じゃないよな? 記憶も失っている事だし。いや、それも何かはぐらかすようで、男らしくないというか、何というか。


 突然、降って湧いた一大事に、俺が頭を悩ませていると、川の向こうから声が聞こえてきた。


「呪われた子だー!」

「噂は本当だったのか! おい、皆! 呪われた子が帰ってきたぞー!」

「……呪われた子?」


 スピシーが顔を傾げる横で、ファングとクロウが俺の背中に隠れる。ちっ……そういえばそうだった。こっちも、まずい状況だったんだ。この女のせいで、すっかり頭から抜けていた。


「ここから、離れるぞ」

「エンジ?」

「話は後だ。今はとりあえず、俺に付いてこい」

「……はい。どこまでも」


 どこまでも? ええい! 今は無視だ! あの新兵達に聞いていたような姫様じゃねえ! とか、お前性格変わってね? とか、今は考えてる場合じゃねえ!


 俺はスピシーとファング、クロウを伴い、川辺から離れる。ちらりと横を見ると、スピシーが俺の視線に気づき、微笑んだ。


 ……ま、元気にはなったようで、良かったよ。


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