第123話 齟齬

 殺して……もう、殺してよ――。


 苦しい……。体がだるい。吐き気がする。意識がはっきりとしないまどろみの中で、私の中にあった感情はそれだけ。他には何も考えられない。自分が今、寝ているのか、座っているのかも分からない。平衡感覚さえ失ってしまった世界の中で、私は苦しみ続けます。ただただ、『苦しい』。


「うえ」


 胃からせり上がってきた何かを、私は吐き出しました。いえ、もう吐く物なんて、何も残っていません。ポタポタと、雫のように胃液が垂れるだけ。それでもやっぱり、何かを吐くという行為は気持ち悪く、苦しい。目の端には涙が溜まりますが、それを拭う暇もなく、またえずき出します。


 ふと、私の背中に何かが触れる感触がしました。それは、とても優しい感触。それは、とても暖かい何か。それは、この苦しみの中でただ一つの、私の拠り所。朦朧とする意識の中で、私はその感触だけに意識を集中させていました。



 苦しいのが終わると、次は、『痛い』です。お腹の辺りを中心に、内臓が燃えているとでも言いましょうか。内臓を燃やされた事はありませんが、そのような痛みです。脇腹の辺りからは、剣を突き刺された後、その剣を上下に動かされているような、じくじくとした痛みも感じます。とにかく、今までに味わった事のない痛みでした。


「う、ああああ!」


 あまりの痛みに、絶叫してしまいます。声でも出さないと、痛みに耐えられる気がしませんでした。絶叫しながら、私はのたうち回ります。ゴツゴツとした物が私の体を傷つけますが、そんな痛み、どうってことありません。むしろ気持ちがいいくらいです。


「……いっ! 痛ぅ」


 突然、私の体は動けなくなりました。動こうとしても、力強い何かに押さえられ、体がピクリともしません。どうすることも出来ない私が、口を大きく開けると、その口の中に何かが差し込まれました。私は、何を考えるでもなく、差し込まれた何かに思い切り噛みつき、痛みを堪えました。滝のような汗が、地面に落ちていきます。苦しい時は冷たい汗が吹き出ていましたが、今はまた少し違う種類の汗が。


「殺して……もう、耐えられないの」

「大丈夫。大丈夫だから」


 何度死にたいと思ったか、何度死んだほうがマシだと思ったか、苦しいのと痛いのが何度か繰り返され、それらが終わると、最後に待っていたのは、『寒い』でした。気温が低いのではありません。体の内側から冷たくなっていく、という感じです。両手で、ぎゅっと体を包んでも、そんなのは何の意味もありませんでした。


「寒いのか?」


 寒い? ……寒いよ。体が何度もぶるりと震え、歯を食いしばろうとしても、力が入らず、ガチガチと音を立てます。体の内側から寒くなっていくのに合わせ、今は寝ているのでしょうか? 冷たい床からも体温を奪われていくのが分かります。せめて、せめてこの冷たい床だけでも。私が頭の隅でそう思っていると、体が少し持ち上げられた感覚の後、私の背中がじんわりと暖かくなりました。


「……これならどうだ?」


 何か暖かいものに包み込まれています。小さな私の体。その暖かい何かに比べると小さい私の体は、ほとんどすっぽりと覆われます。私はその何かにもたれているため、上半身が床から少し持ち上がっていますが、寝心地が悪いわけではありません。体の前には布のようなものを掛けられました。足だけは、少し出てしまっていますが、それでも。


「暖かい」


 そして、気持ちいい。丁度いい暖かさです。凍ってしまった体を溶かしていくような、心地のいい温度。その温度を感じていると、いつの間にか、私は眠っていました。





===============





 天使は堕落し、堕天使となりました。聞いていた話と違う。温厚でお淑やか、そして、部下思い。あいつらの話を聞いた印象では、物語に出てくるような優しいお姫様を想像していた。それが。


「近付かないで! ケ、ケダモノ!」

「あ?」


 確かにここは、ケダモノとも言えるような者達が住む村だが……別に俺は、獣人でも何でもない。ただの人間だ。混乱しているのか? 俺は眉を潜めつつも、とにかく落ち着かせようと、少しずつ近付いて行く。


 パァン。


 引っ叩かれた。何? 今の自然で流れるようなビンタ。痛くはないが、気持ちいいくらいの快音だったな。引っ叩かれたはずの俺は、なぜか少し感心していた。そんな、どうでもいい事を頭の端で思いつつも、突然引っ叩かれた事について、考える。……もしかして、素が出た?


「え」

「あ! 違! 違うの……」


 先程までは、恥ずかしそうに顔を赤らめていた勇者が、俺を叩いた後で顔を青ざめさせる。ん~。それならそれで、別にいいのだが。


「エンジに何すんだ! ガルル」

「やっぱり、こんな女助ける必要なかったの! グルル」

「まあまあ。それより、どこか水浴び出来る所に連れて行ってくれ。体が汗でベタベタだ」

「あっちに、小さな川があるよ! 付いてきて! ガルル」

「早くこの女の匂いを洗い流すの! グルル」


 え? そんなの分かるのか? 俺はくんくんと自分の匂いを嗅いでみる。……う~ん。よく分からん。そこら辺、さすが獣人って事か。俺が先に歩き出したファングの後ろに付いていくと、勇者が遠慮がちに口を開いた。


「あの。私も、行っていい?」


 こいつは……何でだ?


「行くぞ」

「う、うん!」


 ビクビクとした態度の勇者が、俺の後ろを少し離れた所から付いてくる。やっぱり駄目だな。俺は、こういうの好きじゃないんだ。とりあえず、水浴びが終わったら、だな。


 ほとんど流れのない緩やかな川で体を洗い、少し楽しくなった俺が泳いで遊んでいると、水浴びを終えたらしい勇者が、ファング、クロウと何かを話しているのが見えた。自分でも、いい大人が何をやっているのか、と思っていた所だったので、川から出て三人の元へ向かう。


「悪い。待たせたか? 思ってたより水が気持ちよくってよ……どうした?」

「エンジ、その体」


 勇者が、パンツ一枚で歩いてきた俺の上半身を、食い入るように見ていた。ちなみに、パンツの股間の部分には、太陽が大きく描かれている。俺は太陽が好きだったようだな。どうでもいいか。


「いやん」


 俺は、両手で自分の両目を隠す。隠す所はそこじゃない! とか、もっと他に隠す場所があるでしょ! と、突っ込まれる事を期待していた俺に、別の言葉を投げかけられた。


「ごめんなさい」


 ……。


「これは、転んだだけだぞ?」

「ごめんなさい」


 はあ、こいつは。いい加減うんざりだ。今も下を向いて、謝り続ける勇者に、俺はずっと気になっていた事を、ぶつけてみる事にした。


「お前さ。何をそんなに怖がってるんだ?」

「え……?」


 下を向いていた勇者が顔を上げ、目を見開き、口を半開きにして、信じられないような目で、俺の顔を見てくる。やはり、俺が覚えていない過去に、こいつは何かをしたのだろうか? それを、思い出す事は出来ないが。


「だって、私は、あなたに」


 今は。


「俺は、お前が嫌いだ」


 俺が言った一言に、勇者は静かに涙を流した。そして、笑顔を作り、言った。


「うん」

 

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